三週間



 秋も足早に過ぎ去りかけている現在、その峠の上りにおいて、日産スカイラインR32GT―Rを駆る中里毅の最速記録は、いまだ打ち破られていなかった。が、下りにおいては、ホンダシビックEG―6を使う庄司慎吾と、コンマ一秒の差をしのぎ合っているところである。
 その峠を地元として組まれている走り屋のチームに、中里にせよ庄司にせよ所属しているわけだが、周囲からは、仲が良いのか悪いのかいまいち分からないっていうかあんま立ち入ると怖いからどうでもいいや、と思われており、彼らの実態を知る者や勘付く者は一人もいない。
 さて、最速記録を守る中里も、近来アウェイで一度、ホームで二度の敗北を味わっている。うち二度はFR乗りのドリフト小僧に打ちのめされており、以前はシルビアに乗って、派手にタイヤのクズを飛ばしては少ないギャラリーを沸かせていたこともある中里としては、今の愛車をもってして最速を貫くという信念は崩されないが、駆動形式と走行方式による優位性の考えについては見直さざるを得ず、結果寛容さを身につけるまでに至った。
 そうした妙に広い心と狭い信念、FRから4WDに乗り継いでいる経歴、走りに対する実直性、強い情熱、若干厳つい風貌の割に抜けどころの多い性格などを好ましく思い、中里に多様な話を持ちかけてくる者も少なくはない。
 今もまた、最近チームに入った二歳年下のなかなか見所のあるシルビア乗りの青年が、中里へ過去の栄光を尋ねているところだった。速さを讃えられて遠慮を示すほどの慎重さも持ち合わせておらず、誉められれば誉められる分だけ肯定する、よく言えば純粋、悪く言えば単純な男の中里は、好奇心を顔一杯に乗せている青年へと、大層気分良く、己の戦歴を語り出す。
 その青年にしても、中里と同次元の単純さを持ち合わせていたため、鼻高々となる中里を見下げることもなく、ただただ俺もこの人くらい速くなれりゃあ顔もそんなにアレじゃねえしあの高橋兄弟みてえにモテモテになれるだろうなあなりてえなあ、と夢を見るだけであり、二人の会話はチームの特色とそぐわぬ平安さを持って続けられた。
 FRから離れて久しい中里には、技術論は懐かしいもので、穏やかに笑みを浮かべながら言葉を重ねていく。その中里の耳に、相手の楽しげな、自信ありげな声が返される。
 そこで唐突に、違う音質を持つ声を拾ったのは、中里の無意識がなした業だった。
「俺は穴がありゃあ十分だと思うけどな、女なんて」
 どく、と一際強く心臓が鳴ったのを、中里は感じた。努めて目は真ん前で愛車について語る青年から離さぬようにしたが、耳は明らかに下品な笑い声が聞こえてくる後方に向いていた。
「へー、慎吾ちゃん達観的ィ」
「っつかそれよお前、ゼッテー殺されんぜフェミニストとかに、聞かれてたら」
 そーそーブサイクな女ほど権利を叫ぶんだよ、あれ鏡見たことねえんじゃねえの、文明退化だ文明退化、という下劣な笑い声を縫って、その陰湿ゆえに淫猥な声が、体表を這うような響きをもって聞こえてくる。
「そうは言ってもな、あの機構は女しかねえだろ。何使ったってオナニーじゃムリだぜ、あれは」
「あー、でもそれでもさすがに穴あるからって八十の婆さんとはムリだぜえ、なァ」
「例えが極端なんだよお前は、手頃な女なんてその辺探せばいくらでもいるじゃねえか」
「探してもヤれるってわけじゃねえじゃーん」
「や、ほら、あれだよ。慎吾クンはつまりな、若者よ街に出よ、そして勇気を出してナンパをせよと仰っているのだよ、うん。俺もよくやるし」
「何お前その爆弾発言」
「だってやっぱさあ、一人でシコるのと女の子の体抱くのとじゃあ、質が違うよ質が、快感の」
 げらげらひゃはひゃはと笑う声が響いている。なぜか粘ついた冷たい汗が顔から下に浮き出していて、中里は肌がべたつく気持ち悪さを感じた。
「なるほどなあ、っつーことはあれか、こんな庄司でも女の子を適当に引っ掛けられるっていう」
「あ? 何、そこで俺に話を戻してくるってことは田中クン、お前その発言で俺に絞め殺されてえワケ?」
「いや俺の夢は腹上死だから、スワッピングの末の」
「ロマンの欠片もない夢だな、そりゃ」
「えー、ある意味ロマンぎっしりじゃね?」
「っつーかよ慎吾、お前の顔でできるってのはある意味ギネスだよギネス、マジで。申請一発認可だよ」
「相手選べばできねえわけじゃねえって、マジで。下心抜きでやってきゃあ、下心がつく頃にはもうベッドだぜ」
「そうそう、そうなんだよ、自分でビックリするほどすんなり行く時あんよな」
「うわーカンちゃんシンちゃん揃ってヤリ手の発言だー、ヤリチンだー、サギだサギだー」
「っつーか何お前ら、童貞の俺をバカにしてんの?」
「っつーかアベはテクさえ身につければイケるよ多分、だって顔まともだし、庄司なんかよりは」
「だからよ田中クン、お前俺に蹴り殺されてえのか」
 えーやだ慎吾クン怖いー、キモイー、お前がな、ぎゃはははは、というすぐ後ろでの流れに意識を奪われていた中里は、
「毅サン?」
 と、声をかけられ、ようやく前で不思議そうに目を瞬いている青年を思い出し、あ?、と間の抜けた声を上げていた。
「や、どうしたんすか、ぼーっとして」
「ああ、いや……」
 問われ、話を一切聞いていなかった罪悪感から言葉を濁した中里を、しかし青年は疑い続ける風もなく、終わっていなかったらしいそれを続け出した。多少全体像の推測に苦労はしたが、後ろに気を取られていたことを認めたくなく、中里は何もなかったように会話を続けた。
 やがて延々と続いていた話の途中で、不意に腕時計を見た青年は、うわやべえバイト遅刻する、と言い、すんません毅サンこの続きはまた今度、と慌てたように去っていったので、あっさりと日産論議は終わっていた。
 拍子を抜かれた体になった中里は、一人手持ち無沙汰で顎を掻きつつ、結局あんまり走ってねえと思い出し、すぐ隣に停めていた愛車に乗ろうとして、
「毅」
 と背後から、先ほど意識を奪ってきた声に呼ばれ、一際大きくぎくりとした。掌を濡らす不愉快さと、奇妙な緊張と興奮を抱えながら、中里はなるべく自然になるように、そう心がけるからこそ不自然になることに気付かずに、振り返った。
 出っ張った頬を染めた前髪が隠している、悪意を閃かせることが至極似合う顔をした男が、感情を反映していないぺったりとした表情をして、近づいてくる。
「何だ」
 その内面を窺い知れない様子を奇怪に思い、眉をひそめながら中里が問うと、いや、とそこで庄司慎吾は、隆起の多い顔の上に、分かりやすい笑みを作った。
「何だ、楽しそうだったな」
 それはまことに分かりやすい、揶揄をするための笑みだった。胃のむかつきを感じながら中里は、別に、と言い、楽しかったというには外部の影響が強すぎ、楽しくなかったというには快さも否定できず、言葉を切った。慎吾は簡単に笑みを消すと、不可解そうに片眉を上げ、何、と言った。
「あ?」
「別に、何だ?」
 お前の方こそ、という以外の適当な返事を考えるのを諦めるまでに一拍置いてから、何でもねえよ、と中里は苦し紛れに言い切った。
「それで、何だよ」
「何が」
「用があって話しかけてきたんじゃねえのか」
 そうして睨むと、慎吾はばつが悪そうな顔をして、口を開き、あー、と間延びした声を上げる。中里は言葉を待った。慎吾は咳払いをし、改まった調子で、あのよ、と下から覗き込んできた。
「お前、俺は数えてんだぜ」
「何を」
「三週間」
「はァ?」
 わけが分からず声を裏返した中里とは対照的の、一定の、わずかに小さくした落ち着いた声のまま、してねえだろ、と慎吾は平然と言った。瞬時に意味を解してしまい、心臓をぐっと握り絞られたような衝撃を受け、中里は息を呑んだ。慎吾は左頬を変に緊張させた笑みを浮かべ、まあ、俺もアレだ、と耳の後ろを中指で掻いた。
「えーと、こんだけ待たせときゃお前から来るかとな、思ってたところもあるんだけど……もういいや。お前、今日ウチ来い」
「何で」
「だってお前んチろくな道具ねえんだもん」
 今度は数秒してからその意味を把握した中里が、
「てめえ!」
 と、怒りと羞恥とくすぶっていた不快感を爆発させて叫ぶも、
「あ?」
 と、慎吾は呆けた顔をするのみだった。そこでためらってしまうと、一度放ってしまったものは戻ってこないので、中里は上がるも下がるもできぬ情を抱えたまま、俺は忙しいんだよ、と言い訳がましく言っていた。俺も忙しいよ、と慎吾はやはり平然と返してくる。
「でもな、忙しさを解消しようにもお前のこと考えちまうんだから仕方ねえだろ」
「お、お前は、臆面もなくそういうことを」
「お前この程度で恥じらえってかよ、この俺に。大体俺は、事実を言う時にはためらいを持たない主義なんだ。だから来いって。な」
「冗談じゃねえ!」、とその強引さに耐えかねて、中里は肩に添えられた手を振り払っていた。
「てめえ、ふざけんのもいい加減に……」
 がなり立てかけて、不意に中里は、自然と機械が発する音以外、あたりから消えていることに気付いた。見回すと、誰も彼もが黙り、こちらに注目している。
 瞬間、頭が真っ白になった。
 だが、水を打ったような場も、
「あー、何でもねえ何でもねえ、こいつがいつもの癇癪起こしただけ」
 と、慎吾が嘲笑しながら片手をひらひら振ると、あっという間にざわめきを取り戻した。元々興味の移ろいやすい連中は、二度とこちらを見向きもしなかった。
 周囲の変わりようと慎吾の始末の華麗さと、自分のここでの立場とこの男との関係の実感を、いっぺんに頭で処理できず、硬直するのみである中里に、慎吾は向き直ってきて、まあ、と横を通り際に囁いた。
「ムリにとは……言わねえや、今は。じゃ」
 残ったその吐息がぬるく、中里はがりがりと耳を掻いていた。クソ、と呟く間に、慎吾は先にシビックで山を下りていく。それにすら苛立ちを覚え、舌打ちが漏れた。
 ずっと握っていた手を開くと、肌を濡らす汗を風が撫で、熱が失われていく。同時に頭も冷えていき、中里は愛車のボンネットに尻を下ろし、小さくため息を吐いた。
 苛立ちを隠せなかった――いや、そもそも苛立ちを感じた自分が情けなかった。女性の話など、ここの連中にとっては天気の話と同じ気軽さで行う、遊びと暇潰しのネタの一つに過ぎない。慎吾にせよ、あの時はその場の乗りで実体験をひけらかしただけだろう。それを偶然耳にしただけで、歯がゆく思う方が、おかしいのだ。
 俺らしくもねえ、と中里は呟いた。俺らしくもない。すべては向こうから持ちかけられた関係だった。だが、情がないといえば嘘になるほどに、傾倒していることは認めざるを得ない。得ないのだが、なかなか踏ん切りがつかず、だからこうして三週間、忙しさを理由につけて、逃げ回っている。
 俺らしくもねえ。再度呟き、中里は愛車に乗り込んだ。ともかく、ここでの自分らしいことといえば、走る以外にはないのだ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 思う存分走り込んだ充実感があったため、馬鹿話に誘われても断る気にはならなかった。
 慎吾は片付ける必要もない自室でぼんやり煙草を吸いながら、峠でのひと時を思い出す。
 脇にあるその存在には、初めから気付いていた。そしてその男が、こちらには決して見せることのない、やたらと甘ったるいくせに、頼り甲斐のある、いかにも兄貴分という笑みを、以前その実力を誉めていた走り屋に向けている姿を見たが最後、走った後の爽快感も何もかもが、ぐしゃりと一気に潰された。だから敢えて、調子に乗っている野郎どもの絶倫自慢大会にまで、入り込んだのだ。聞こえてりゃあいい気味だ、と思っていた。それにどうせ、女を単なるネタにしか見ていないということは、声の調子で分かるだろうとも。
 だが考えてみれば、あの鈍感の代名詞たる男に、そのような繊細な機微など察せられるわけもなかった。
 結局、不都合ばかりが重なった。
「あー、フォローしてねえ……」
 本来ならば、あそこでなだめすかすなり売り言葉に買い言葉で言質を取るなりして、今頃は背にしているベッドの中で三週間ぶりの合体を果たしているはずだった。計画を達成できなかったのは、余裕が保てなかったためだ。こちらの一言一言に顔を赤くしていくあの男を見ていたら、もういても立ってもいられず、その場でキスをしてしまいそうだった。さすがにそれはヤバイので、こうしてそそくさと帰ってきたわけである。
 しかしまあ、楽しかった。明らかに何かが気に食わない風だった態度、そのくせ平静を装おうとする健気な努力。その意地も、周りに見られていることに気付くと消え失せた、あの時の無防備な姿。思い返すだけで、体が熱くなってくる。できることなら本当に、あそこでキスをしてやりたたかった。抱いて触って、あそこのとぼけた連中の前で、滅茶苦茶にしてやりたい。自分だけのものだと見せつけたい。誰もあの男を、ああまでできないのだと――。
「……うーわ、溜まってる」
 煙草を咥えたまま、慎吾は他人事のように呟いた。毎日のように抜くだけ抜いてはいるのだが、欲求は晴れない。
 始めた当初は、これほど執着するとは考えていなかった。元々クラッシュさせても勝ちたい意識はあったが、本人を叩き潰したいかといえば別で、ただ精神をいたぶってやるのが愉快なだけだった。
 それが、手に入れたくなった。
 きっかけは実にくだらない、あの男が女に見とれている時間が、猛烈に気に食わなかったことだ。中里毅という奴に、走りを――こちらを忘れる時間を、与えたくなかった。その時点で十二分の執着があったと、今ならば分かるが、当時はセックスなどその手段に過ぎないと捉えていたので、それが目的になるなどとは、そしてまた、ものの三回でこうまで求めずにはいられなくなるとは、お釈迦様でも気がつくめえ、である。
「しゃーねえなあ……」
 長く積もった灰を落とさぬよう、煙草を灰皿に押し潰して、慎吾はもぞもぞとシャツを脱いだ。欲求は速やかに解消して、明日に禍根は残さない。それが慎吾の流儀である。ジーンズも脱いでパンツも下ろし、全裸になってあぐらをかき、既にその通り、頭角を現している息子を撫でる。
 三週間前のあの男を思い出す。妙な声ばかり上げていた最初から、羞恥に悶えていた途中、そしてこちらの背を抱き名を呼び腰をなすりつけてきた最後までを思い出す。中に入った感覚を思い出す。熱い肉の肌触りを思い出す。甘い声の温度を思い出す。
 つい先刻見た、峠に立つあの男を、そうして乱れさせていく流れを、思った。
 やたらと眩しい天井の蛍光灯をしばらくぼんやり眺めてから、慎吾はこれで速くてもでもどうしようもねえな、と思いつつ、精子の遺体を包んだティッシュで、ついでに手を拭った。脱力感がある。多分、この体の遺伝子はどこにも残らないだろう。それは構わない。そんなことはどうでもいい。どうでもいいが、考えてしまう。残らなくてもいいと思うには、やはり相手があってこそだった。相手がいなくては、単なるナルシストで終わってしまう。早く会いたい。競い合いたい。走りたい。抱きたい。狂わせたい。離したい。入りたい。その肌を噛んで、その肉をえぐって――。
「風呂入るか……」
 動かないと、どうもそればかりを考えてしまい、すわ出番かとまた息子が準備を整えようとする。それも面倒なので、慎吾は裸のまま立ち上がった。湯船にでも浸かり、一旦煩悩を払おう。でなければ、犯罪も辞さない本性が出てきそうだ。
 そうして歩きかけた時、ドアのチャイムが鳴ったので、とりあえず慎吾は、落ちていたパンツを履いた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 ドアを開けてきたパンツ一枚の男は、何とも不思議そうな顔をしていたので、出会い頭に悪態の一つでもつかれるかと思っていた中里は、不意を食い、沈黙を作っていた。
「……いや、その……さっきは、悪かったな。俺も……大人げなかった」
 互いに黙ったままでは息苦しいことこの上なく、しどろもどろになりながら、思いのまま、中里は言葉を発した。
 あのまま峠から家に直接帰るのは、敵前逃亡のようで、情けなさが尾を引いた。一言自分の勝手を謝らねば、気が済まなかった。
 そして、それで何もナシにできれば僥倖、という中里の考えは、無論夢を見すぎていた。
 中里が軽く頭を下げると同時に、慎吾は中里の腕を強く引き、中里は背後でドアが閉まる音を聞くと同時に、パンツだけを履いたその男に、きつく抱きしめられていたのだ。
「お、おい、慎吾……」
 突然の事態と、息苦しさに、動揺が止まらず、どうすべきかと手が宙をさまよう。
「すっげ、嬉しい」
 だが、耳に直接触れたその言葉、その湿った声のため、つい背に腕を回していた。骨が軋むほど、慎吾は固く抱いてくる。その痛みも呼吸の苦しさも、胸を熱くする。気に障っていたくだらない何もかもが、どうでもよくなってくる。
 いけない、と思いながらも、むき出しの肌に浮いた肩甲骨を掴むよう、手を置いてしまう。すぐにでも離れなければ、臆病を承知で避けてきた日々が、無駄になる――。
 逡巡している中里を、だが慎吾は、突然解放したのだった。反動でよろめいた中里の肩を支え、それからばんばんと叩きながら、やけに似合わぬ爽やかな笑みを浮かべている慎吾が、
「まあ、入れよ」
 と肩からも手を離し、顎をしゃくって部屋を先に行く。中里はつかの間呆然としたが、考える間も持たぬうちに、後を追っていた。部屋の中に入って声をかけようとすると、慎吾が振り向いた。
 中里がそこで数拍生命活動を停止しかけたのは、慎吾が作っている、爽やかと形容するには極悪である笑みのためもあったが、いつの間にか股間を覆う布地さえ取っていたためだった。
 そうして硬直した中里を、変わらぬ笑みを浮かべたままの慎吾が、腕を伸ばしてその肩を掴み、引っ張ってきた。
「うわっ、ちょっ……」
 勢いそのままベッドに押し倒され、慌てて仰向くと、その途端、唇が重ねられた。問答無用というように舌が入り込んできて、一気に吸われる。数秒はされるがままになっていた中里だが、頭を振って寄せられている顔を払い、肘を互いの首の間に入れ、のしかかってくる体を押し返した。
「待てッ、お前、いきなり……」
「いや待てねえな、やっぱ」
 中里が押す通りに慎吾は身を引いたが、その言葉通り、待つことはなかった。下に移動し、シャツの裾をまくり上げてきて、露わになったわき腹に唇を押し付けながら、あー、と慎吾は言う。
「久しぶり、マジ夢見たぜ、お前のこと」
 皮膚から肉へと伝わる濡れた感触と小さな震動に、中里がぞくりとして背をたわませると、慎吾は音を立てて、皮膚に吸いついてきた。
「……ッ、あ」
 それだけで、喉が緩まった。そしてすぐ、出してしまった声に、強烈な恥ずかしさを覚え、中里は口を手で覆っていた。その間に慎吾は中里のジーンズのベルトを外し、ファスナーを下ろして、下着越しにそこに触れてきた。鼻から、声が漏れた。ホックも外され、布の上からなぞられ、息が詰まる。すると、腹を舐めていた慎吾がそのままするりと横に来て、下腹部に柔らかく触れたまま、耳元で囁いた。
「ちなみに俺は、お前のことばっか考えて抜いてたんだけどよ、毅」
 その声と息に、背骨を直接撫でられているようだった。血が全身にどっとめぐる。何の変わりもないこの男の部屋の空気、明るさの平常さと、内側が主張していく感覚が合わず、中里は混乱した。速すぎる。
「お前、何オカズにしてた? それとも三週間、オナニーしてもねえ? 禁欲生活とか?」
 くつくつと喉の奥で響く笑いが、感覚を浮き彫りにしてくる。中里は口を手で覆ったままだった。答えるなどもっての他だが、そしることすらできやしない。髪を優しくすかれながら、下着の上から形を明確ににされていき、声を抑えることすら難しいのだ。
「さっきもさ、あれだ……まあ、けど、やっぱ、実物じゃねえと、なあ」
 耳介を食みながら、慎吾が同意を求めるように、言う。中里は背けていた顔を、慎吾に向けた。片側だけを吊り上げた唇、細めた目、汗ばんだ肌。同意や答えを求められているわけではないことは、その顔を見るまでもなく分かっていた。だが、いざ、熱に浮かされているような、それでいて冷静さを秘めているようなそれを目にすると、握られても潰れないほど硬さを増している自分のものも、その奥のすべても、求めていることが自覚され、つい、口から手を浮かし、上下が張りついていた唇を開いていた。
「……俺、は」
「ん?」
 嫌らしさの残る酷薄な笑みが、とても似合う男だ。それを見るたびに、背中がざわつくのをいつでも感じていた。この場に及ぶと、より一層、強く感じる。中里はもどかしさに片方の膝を立て、図らずも――予想はできたはずの――増した刺激を、一度目をつむってやり過ごしてから、呟いた。
「……も、お前のこと、考えて……」
 そしていつも、誘導されるように出した言葉は、途中でその意味を理解して、最後まで言わずに終わる。間の抜けた顔をした慎吾を一瞬見ただけで、中里は再び顔を背けたが、慎吾は肘をシーツについて、わざわざ覗き込んできた。ちらりと目をやると、唇を奇妙にゆがめ、慎吾は笑っていた。
「……こんな風に?」
 と、突然下着の中で直接その手に触られて、うわ、と中里は身を反らした。へえ、と慎吾は笑いながら続けてくる。
「すっげえぬるぬる……何、そんなに俺にこうされたかった?」
「……バッ……カ、野郎、この……」
「ならさっさと言ってくれりゃあ、いつでもしたのによ、俺なら」
 ぐいぐいとしごかれて、自分でする時とはまったく違う快感が脳を焼き、抵抗の声さえ上げられなくなっていく。これを求めていたのかと問われれば、否定はできない。できないから、避けていた。三週間だ。忘れようとして、忘れられず、それがみっともないようで、余計に逃げた。こうして実際与えられてしまえば、何も止められなくなることなど、見当がついていたからだ。
「じゃ、こっちは?」
 滑らせながら袋を軽く辿ったあと、いくらも開かれていない場所の周囲を慎吾の指がなぞった。嫌なこそばゆさに、中里は頭を振った。
「んな、ことッ……」
「あ? してねえの? 何だ、じゃあちゃんと慣らさねえとな」
 言って即座に下着の中から手を抜いた慎吾は身を起こし、何事かとぽかんとした中里を、素早くうつ伏せにした。そして何かを探る音を立てた後、腰を掴んで上げてきた。
「お、おい、ちょっ……慎吾!」
「暴れんなって、前もしたじゃねえか」
「待て、こんな……」
 腕の力によって体を引き上げようとしたが、途端に局部を握りこまれ、中里はシーツに頭を落としていた。まだ勃っているものからは手は離されたが、その隙に、ジーンズのウェスト部分を引き下ろされ、足がうまく動かせなくなった。
 むき出しになった太ももから尻へと、べたついているがどこか渇いている、慎吾の手が這うのが分かる。
 そして、前も行った通りに、中央の窄まりに、ぬめりを帯びた指が触れてきた。中里が息を呑むと、腰のあたりで慎吾の声が響いてきた。
「痛かったら、まあ……我慢してくれよ」
 周囲を十分に撫で回した指が、やがて中に埋められた。
「……っ、あ……」
 じわりじわりと沈み込んでくるそれは、懐かしいが、違和感の強い感覚を中里にもたらした。額に汗が浮いてくる。逃げたがる腰を、慎吾は再び局部を握ることで抑制してきた。指で中を引っかかれながら、昂ったものの頂点を少しずつ刺激され、どう動いても逃れられなかった。
「……ぐ、う……あ、あ……」
 体の末端が冷え、だが中心はどうしようもなく熱い。気持ち悪さと快感が渦巻き、耐えがたくなる。だが、増やされた指が大きく内側の粘膜を擦った瞬間、思考が飛んだ。
「やッ……、あ、あッ……」
 そして突然、勃起しているものを同時に大きくしごかれて、制止の声を上げる間もなく中里は達していた。
 緊張が解け、全身にどっと汗がわき、後から熱がついてくる。
 一人で行う時では直後でも把握できる体が、今はまったく不鮮明だった。だからゆっくりと仰向けにされ、下肢の動きを阻んでいた服を取られ、蛍光灯の明かりが目を焼くまで、中里は自分が足を大きく開き、間に慎吾を迎えていることに気付かなかった。
「うわ、や、ま、待て……慎吾」
「いやー、ここまで来てそれはなァ、お前……」
 すぐ前にある、にやにやとした、愉悦に浸っている笑みは凶器だった。その快楽が、自分に由来していることを思い知らされて、動けなくなる。
「……いいか?」
 先端をあてがわれているのが、よく分かった。最早すべての感覚は鋭く、自分のものが再び血をたぎらせていることすら、よく分かった。そうして囁くように問うてくる男の、残忍な笑みの端に、艶やかな恐怖が混じっていることですら、よく分かった。中里は舌打ちしかけて、唾を飲み込んでから、口を開いた。
「聞くんじゃねえよ、今更」
 出した台詞と合わない、掠れきった自分の声にぞわりとして、中里が肌を粟立てると同時に、慎吾は貫いてきた。言葉がないまま、最奥まで突き刺され、引き抜かれ、また入れられて、繰り返し訪れる強烈な圧迫感と摩擦のため、意識が消えかけた。
「あ、あッ……」
「あー、やべ、マジお前……毅、たまんねえ」
「ひっ……や、あ、あ……」
 一旦止まった慎吾が、体を被さるようにして、唇を寄せてくる。舌を奪われながら動かれて、悲鳴が喉に消えていった。強くえぐられるたびに、自分の中の何かが勝手に反応する。
「毅」
 口付けの合間に名を呼んでくるその声が、恐ろしいほどの甘さを潜ませていて、中里は思わず慎吾の肩にすがりついていた。直接的な刺激が増幅され、快感の奔流に飲まれる。やがて唇が離れ、間近で見下ろされながら、かつてなく激しく動かれた。
「……ッ、あ、し、しん……」
「はっ……すげ……毅、あー、好きだ、マジ……」
「慎吾、慎吾……ッ」
 たまらず強くその体を抱きしめると、慎吾は呻いた。そして一度抜き、中里のシャツを剥ぎ取ると、すぐにまた入ってきて、今度は中里が幾度全身を震わせても、しばらく終わることがなかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


「……だから嫌なんだ」
 まだぐしゃぐしゃのシーツの上、全裸であぐらをかいたまま両手で顔を覆っている中里の呟きは、肌着を身につけ一服している慎吾の耳にも、しっかりと届いた。
「あ? 何が?」
 わざと大きくベッドの下から振り仰いでやっても、何でもねえ、とため息を吐くのみだった。慎吾は短くなった煙草を強く吸い、灰皿にねじ込んで、もう一本に火を点け指に挟みながら、ベッドの上へと這い上がった。顔から手を除け、不審そうに見てきた中里の後ろに回り、片手で筋肉の詰まった胸を撫でながら、
「何だよ」
 と耳へと囁けば、おいっ、と慌てた身をよじる。
「何やって……」
「ここ、あんまいじってやってねえよな」
「調子に乗んじゃね、って、おい、この……」
 硬い尖りを指先ではじき、うなじに唇を寄せる。逃げようとする中里が前かがみになっていき、ついに手と額をシーツについた。
「毅」
 耳朶を軽く噛みながら、手を腹へと滑らせていく。
「俺は、お前の何でも好きだぜ」
 車以外何も見えなくなっている時でも、場の空気を読まない行動を取る時でも、人に敵意を向けてくる時でも、本心を建前で抹殺したがる時でも、ベッドの中で乱れる時でも――と、最後の含みに勘付いたのか、中里は慎吾の手がそこに触れる前に、
「だあッ」
 と、一気に体を起こしてきた。背中に跳ね除けられた格好になった慎吾は、指から離れかけた煙草をこぼさぬようにとしているうちに、結局寝転がっていた。一つそれを吸ってから、あっぶね、と上半身だけ起こす。
「おい、こっちは火ィ持ってんだからよ、もう少し気を遣えって、気を」
「布団の上で火なんて持つんじゃねえ、火事になる」
「俺は気をつけてるからいいんだよ」
「燃えるゴミになりてえかよ、お前」
 落ちているパンツを履きながら中里が言い、歩いていく。慎吾はもう一度煙草を吸い、細く煙を吐き出してから、
「なりたかねえけど、お前風呂入んのにパンツ履くのって意味なくね?」
 と言ったが、うるせえよ、だけで片付けられた。慎吾はこぼれかける灰をそっと灰皿に落とし、紫煙を部屋にまき散らした。一緒に浴槽に沈むというのも一興かもしれないが、あまりくっつきすぎても興ざめかもしれない。とかく、取るべき距離が厄介な相手だ。
「まあ、ヤれたし」
 結論を呟き、一人何となく、声を出さず笑ってから、真面目な顔になった慎吾は、でももう一回くらいは、サービス的にアリだろ、と前提を作ったのだった。
(終)

2007/03
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