サンバイザーのありか



 小気味よく思い込みを否定され呆然と立ち尽くしている男を眺めながら、慎吾はこれから己の身に再びかけられるであろう事実無根の妄言の数々を思い、ため息を吐いた。
 有数の観光地を持つ箱根、山越えの難所の多いこの地において、慎吾の属する群馬の走り屋チーム妙義ナイトキッズのGT−R乗り、中里毅はかつて敗北を喫した相手への雪辱を遂げた。そこまでは慎吾にしても顔色は変えぬよう努力はしながらも、内心嬉々としてしまう事態の流れであった。
 庄司慎吾はシビックEG−6に乗っており、妙義山のダウンヒルでは抜群の速さを誇示しているが、その慎吾と張り合う実力を持つ走り屋が中里毅という男である。上り下り双方優れた走りをするということで群馬県内の走り屋には名の知れているナイトキッズのリーダー格でもあり、そして現在、深夜の箱根の峠で勘違いに基づいて恋心を抱いていた女に容赦なくフラれ立ち尽くしている間抜けな男でもあり、数日前にバトルで上下を決めようという慎吾の申し出を拒否した男だ。つまり、その鈍感単純男へダウンヒルのバトルを申し込んで断られていたのが慎吾ともいえる。
 数日前のその時、個別に計ったタイムで一コンマの速さを競っても埒が明かないため、慎吾は中里へバトルで上下を決めようと喧嘩腰に申し出て、中里はバトルはしないと喧嘩腰にそれを拒んだわけだが、その傲慢な態度に腹立たしさを覚え慎吾が思わず手を出しそうになったところで突然現れ仲裁してきた、中里が慎吾とのバトルを断った理由が過去の中里の敗戦の一つであるのではないかと推測した女――つい今さっき中里の告白を理論的に否定して用事があるからと余韻も残さず去っていた女であり、慎吾の幼馴染であり、そんじょそこらの野郎の走り屋など及びもしない速さを持つシルエイティの走り屋のナビゲーターであり、間抜けな男の気持ちなど考えもしない独立心の高い奴だ――が、今回の中里の雪辱戦を企て、その推測が正しかったかは知れないが、ともかく先ほど中里は勝利をおさめている。中里毅というのはまったく単純極まりない男であるから、例え今こうして敵地で立ち尽くしていても、フラれたことなど久々に他者とのバトルで勝ったことの高揚がいずれさて置かせるであろうと考えられ、とすれば慎吾とのバトルも遠からず実現すると予想された。これには慎吾も喜ばずにはいられない、何せ中里と走り屋としての優劣――速さである――を決めることは、妙義山に初めて訪れた時からの慎吾の悲願である。張り合い続けてきた相手と全力で戦える。自分の速さを証明できる。そう想像すると、ついにやけそうになるものだ。
 だが、慎吾は今、そのにやけそうになる顔を労さずしてしかめ面にできるほど不愉快極まりない想像も同時にしてしまう。それは、妙義山に戻った時のチームメイトの反応だ。妙義ナイトキッズという走り屋チームは野郎率百パーセント、華の一つもない集団で、また煙草も酒も博打もやらない法律遵守健康健全人間と、倫理観が一般とずれている犯罪臭の漂う人間が混在しており、前者はマイペースに走りを楽しんでいるが、後者は走りの他に、チームメイトを嘲りからかい遊んで楽しむことを習慣としており、最早愉快だろうが不愉快だろうが何もなかろうがそれが行われる現状である。
 その中でも慎吾は自分の非道さを逐一他のメンバーに見せつけてきたため、連中の遊びの種にされることはほとんどなかったのだが、先日行われたナイトキッズと赤城レッドサンズという群馬の走り屋のカリスマ様率いるチームとの交流戦においては、一人でチームの面子を背負ってヒルクライムをひた走る中里の必死さに感情を揺さぶられ、チームメイトの眼前で中里を全面的に気遣うような発言をしてしまった。それが、嘘だったとは言わない。だが当時の状況はあまりに極端で――レッドサンズの代表走り屋高橋啓介の不遜な態度への反感もあったし、それ以前に自分の過失で走行中に怪我をし治療が思いのほか長引いて交流戦に出ることが叶わず中里に全責任を被せる結果を招いたことへの後ろめたさもあったし、中里が一人チームの面子を守るため懸命になる姿を初めて目の当たりにしたことからの動揺もあった――、特別な環境によって特別な感情が引き出されただけであり、四六時中そんな風に中里を思ったり気遣ったり心配しているかというと、それはなかった。
 なかったのだが、そんな慎吾の繊細な感情の動きなど神経質という単語と無縁の輩に分かるはずもなく、したがってその交流戦以降、チームの中でも低レベルな会話を楽しむきらいのある連中は、『まあお前は毅さんのこと好きなんだもんな』、と精神年齢の低さを確信させる妄言を直接吐いてきやがっている。否定しても否定しても奴らはそれを言ってきて、そのしつこさといったらまるで潰しても潰してもどこかしらに潜み増え続けていくゴキブリのごときもので、生命力と環境適応能力がべらぼうに強く、今回にしても、中里の雪辱戦を実際にお膳立てしたのはシルエイティのナビゲーターなのだが、慎吾がその裏で糸を引いているという噂は、即座にチームに流れていた。
 現状、その雪辱戦にて中里が勝利をおさめたのはいいとしても、女にフラれて帰還ということにでもなれば、下ネタから差別ネタまで広く浅くカバーする暇を持て余しているしつこい連中は、慎吾が画策したと事実無根の話をでっち上げかねないわけである。そのため慎吾は、中里を公式的に追い詰められる嬉しさよりも、今後の馬鹿どもの妄言の発展の仕様を思い、ため息を吐いたのだった。
 しかしため息を吐いたからとて、時間は進みはすれど物事が始まるわけではない。中里は依然風の鳴る中、立ち尽くしている。周囲の走り屋の面々が退去を願う視線を向けてきている中、立ち尽くしている。常でも空気の読めぬ面の多い男だが、この憤激すら思わせる数多の視線の中で自分の世界に閉じこもれるということは、よほど思考も感覚も停滞しているのだろう。
 慎吾はため息を吐く代わりに舌打ちして、動く気配をまったく感じさせぬ中里に近づき、おい、と大きめの声をかけた。
「いつまでぼーっとしてんだお前は」
 中空へぼんやりとした目を向けていた中里は、びくりと頭を揺らし、ぎょっとしたように慎吾を見てきた。
「な、何?」
「もうバトルは終わった、これ以上ここにいる必要はねえだろ。帰ろうぜ」
 慎吾が顎をしゃくって中里のスカイラインGT−Rを示すと、中里は数拍阿呆そのままの顔になったが、その直後、我を取り戻したようにしっかりと目を瞬き、そうだな、と息のごとき声を出した。その顔はもう阿呆ではなかったが、うつろではあった。力ない足取りで黒いGT−Rに向かい、その運転席のドアの前で立ち止まって、肩を落とし、それから車内に乗り込んだ中里を見ると、あんな腑抜けと即刻バトルができるとは到底思えず、慎吾は再びため息を吐かずにはいられなかった。ついでに、中里のGT−Rが発進してから周囲を改めて見回したのち、その場にいる走り屋全員からの『お前もさっさと消えろ』という冷徹な視線を受けたため、そりゃ俺のせいじゃねえ、ともう一つため息を吐いた。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆

 他人の後ろ暗い部分を扱った真実味のある噂とは、秘密を共有することへの欲求を止められない人間同士がいれば火に油を注いだような勢いをもって広がっていき、背徳感と罪悪感と好奇心を煽る内容だけに記憶からは薄れにくい。一方馬鹿馬鹿しい噂というのは、深刻さがないだけに適当に広まっていき、底が浅いので忘れられやすいが、気安さがあるために数が出て、結果的に蔓延しがちである。
 慎吾にまつわるチーム内――妙義ナイトキッズ内の噂というのはもっぱら前者の後ろ暗さのつきまとうものであるが、中里が絡んでくると後者となる。前者の場合、やれ人を殺しただのやれ人を崖から突き落としただのやれレイプをしただのというもので、一切そんな事実はないが――一般常識的にやるべきではないことくらい分かっている――、やりかねないと思われているらしいだけに広まり方は異様であり、不審人物として扱われるのは厄介なれど、しかしそこまでやりかねないと思われていると無駄なちょっかいを出してくる奴も減るので、慎吾は広まるに任せている。一方後者の馬鹿馬鹿しい噂の場合、やれ常時中里に気を配っているだの中里を心配しているだの中里のまたぐらを心配しているだの中里の貞操を心配しているだというもので、それもまた一切そんな事実はないが、そんなことをやりかねないと思われるのはどうにも不愉快であるから、広まるとこれ精神的負担はなかなかで、つい慎吾は逐一否定して回る。
 しかし、否定すれば否定するほど噂を流す連中は面白がる傾向があって、そういう連中に限って声がよく通り、耳栓でもしない限り会話が聞こえてくるのだが、奴らの暇つぶしとしか思えぬ車や日本経済や風俗についての話はやがてチームメイトの批評へと移り、慎吾も俎上に載せられ、そして妙義ナイトキッズにおいて慎吾の話が出るからにはトップを張り合っている中里の話も出ることが必定であるので、自分の評価に耳をそばだてていると結局連中の妄言を聞くはめになる。そのように自分が中里を好きだということを既定の共通認識と信じて疑わぬ連中と常に接していると、常時脳味噌お花畑の馬鹿どもの事実無根の他者を貶めるためだけの揶揄の言葉など間に受けてはならない、あんなものはデタラメだ信じる奴には馬鹿しかいない、などといくら自分に言い聞かせていても、ふとそういう風にむきになって否定する自分の方が間違っているのではないかと思われることがあった。それは洗脳されているようなものだと分かっていても、なまじ中里への注意がないとも言えぬ慎吾としては、他の連中の決め付けを意識から完全に排除することも隔離することも不可能なのである。そのため中里が少しでも関わる物事についての対応に、他の連中の決め付けが始まる以前のような絶対的な自信を持ち合わせていないことを、現在慎吾は自覚している。その心中乱れるばかりで、もういっそその通り、俺は中里毅を愛しているとでも宣言すれば火の手もおさまるのではないか、と思うことのあるほどだ。本来ないことをあると決め付けられることが不愉快なのだから、あるとしてしまえば不愉快さも消えるのではないか――すなわち、中里を好きだということを事実としてしまえば、そう決め付けられてもそれは事実となるのだから不愉快さも消え、指摘してくる連中へ余裕綽々で応対できるのではないか、というわけである。
 そうするには、中里を好きにならねばならないという問題があり、またそれでは自分で中里を気にかけまくってます、と主張するようなものだから中里について度を越して気にかけていないことを馬鹿な野郎どもに知らしめられはしないのだが、日頃チーム内で毒舌家の人非人として名を馳せていても、精神的に追い込まれると思考力や判断能力を失うところのある慎吾は、その場しのぎでもいいから余裕を取り戻すことのできる可能性について真剣に考え出していた。
 このままでは、不快さが溜まりに溜まり、そのうち脳内の大事な神経がくたびれて、自分でも何を仕出かすか想像もつかぬ未体験の領域に突入しそうなのだった。

 それにしても、解決しようとしている事態とは、だからこそ往々にして、時間の経過とともに解決のしにくくなる方へと進むものである。
「お前はそんなに俺のことが気に入らねえか?」
 箱根での中里の雪辱戦から一週間経っている今日、疑心の詰まった目を向けてきながらの中里のその問いを受けた瞬間、慎吾は頭が真っ白になる体験をした――それは初めて自慰行為によって絶頂に達した時の空白に似ていたが、快感などどこにもない、単なる空白だった。
 そのため慎吾は、顔に力を入れることもできぬうちに、ただ中里を見ながら、
「何だって?」
 と問うており、中里はといえば、億劫そうに鼻の頭にしわを寄せ、言った。
「だから、お前はそんなに俺のことが気に入らねえかって」
 それが――中里の言ったことが、ついさっき言ったことと同じであると瞬時に慎吾は理解し、したがって自分の耳が正常であり、聞き間違いなどしていないことを認めざるを得なかった。すなわち中里は、尋ねてきている――お前はそんなに俺のことが気に入らねえか? 違う。慎吾はただちにそう思った。なぜなら今まで慎吾が考えていたのは、自分が中里を気に入っているのか気に入っていないのか、どちらなのかということだからである。今日、乾いた冷たい空気に満ちる峠の駐車場で、声をかけてきたのは中里だ。話をした。チームの人間についての話だ。それが平和的に終わり、沈黙が浮いた。そこから慎吾は、今まで中里を凝視していた。ために、中里がそんな問いをしてきたのだと、空白を越えた慎吾には容易に推測できる。おそらく中里は、自分が中里の姿に嫌悪感を催したので殺意を込めて睨みつけたと、そう感じたのだろう。
 だが慎吾が中里を睨みつけるように見詰めていたのは、自分が中里をどう思っているのか、正確に把握したいがためだった。もうすぐ冬だというのに脳内に桜を咲かせ続けている奴らの妄言が、事実無根荒唐無稽な戯言だと断定できるのか、確かめたいがためだった。すなわち慎吾は気に入らないから中里を注視していたわけではなく、その気に入る気に入らないのどちらが生まれるかを判断する位置にいたのだから、中里の問いというのはお門違い甚だしく、慎吾も予想だにしないものであった。付け加えれば、中里を観察しているうちに――正確に言うなら、中里を見ることによって自分の内面に起こる変化を観察しているうちに――、眉も目も唇も太い、頬に陰影の多い濃いその顔貌、その下に伸びるほとんど焼けていない首から、目を離せなくなったのは、嫌悪感やむかつきを覚えたためではなく、以前から中里を見るたびに感じていた後頭部のあたりが溶けるような熱い感覚が生じたためで、それは拍動と呼吸を乱れさせ手を汗ばませ、あらゆる箇所に血液を巡らせて、一つの感情の器としての肉体を完成させた。結論は既に出ている。いくらただその姿を見ていても慎吾が中里に憎しみや怒りを感じることはなく、殺意を覚えることもなかった。興奮している肉体は好意の後押しを望んでいた。手は中里の頬を張ることではなく優しく撫でることを要求していた。悪意をもってそうすることは難しい。好意があれば容易く許可を出せる。さあ撫でてやれ、そして簡単に逃げぬように顎を支えろ――そこまで欲求が募っていたところで、『お前はそんなに俺のことが気に入らねえか?』、と予想もしないお門違いの、かつ内面をまったく斟酌されていない問いをかけられては、慎吾の頭も一時的に真っ白になるというものである。
 だからといって永遠に頭空っぽのまま佇んでいるほど、慎吾もでくの男ではない。数秒もせずに空白は越えられたし、中里の問いの意味を理解したし、理解した瞬間に答えも出た。違う。気に入らなくはない、むしろ気に入っている、というか好意を持っている――極めて悪質な。それが中里および己の内面を観察した末に出た慎吾の結論だったが、初めて会った頃から最近まで気に食わないという理由を掲げて自分が散々中里をあしざまに扱っていたことと、馬鹿どもの決めつけを認めることになるのだと考えると、問いの答えとしてであってもその結論を口に出すことは自尊心が拒否をした。
「お前、俺がお前を気に入るところがどこか一つでもあると思うのか?」
 結局慎吾は、少しでも余裕をもって対応できるよう三秒置いてから、肩をすくめてそう問い返した。言葉を出す際に胃の上の方がぎちりと痛んだが、それによって声が震えることはなく、中里は鼻の頭に寄せていたしわは消し、だが不審そうに顔をしかめ、数拍置いたのち、
「いいや」
 と、平然と言った。そんな当たり前のことをなぜ聞くのか、と中里は不審がっているような面をしていた。今度は胃全体が、ぎちりと締め付けられたように痛み、慎吾はつい目を細めていたが、そこに何の意味も見出させぬよう、中里と同じ平然さをもって、そうだろ、と頬を上げた。ああ、と中里は馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに口を少々への字にして、左斜め上をじっと眺めてから、慎吾に目を戻すと、
「じゃあ、俺は行くぜ」
 道を指し示した。どうぞ、と慎吾は上げた頬から力を抜いて、先に中里に背を向けたが、胃を絞り上げる感情の滞りによる未練が、閉じた口を開かせていた。
「いや待て、毅」
 振り向いて言うと、中里も振り向いて、何だ、と怪訝そうにまた顔をしかめた。引き止めたところで話もなかったが、それでも肉体が是としてしまった感情は、それが向く相手とのより長い時間の接触を求めており、慎吾は咄嗟に、ここのところろくな会話もしていなかったのだから――他の連中から揶揄される隙を作りたくなかった――、この男に話していないことがあるはずだと頭をめぐらせ、今まで中里の調子が見極められなかったために、また冷静さを取り戻してしまったために言う機会を掴めなかった、元々中里を煽り立てた原因を思い出し、それで、と言っていた。
「お前は俺と、いつバトルをしてくれるんだ」
 数拍間が空いてから、ああ、と中里ははっと思い出したように目を見開いて、そうか、と細かく頷いた。
「そうだな、それがあった。どうせやるなら、他の奴らにバトルを見届けてもらう方がいいだろ。とすると日程と時間帯を決めてそれをみんなに知らせてからになるが、それはそんな時間もかからねえだろうしな。どうする、いつにする?」
 一つも戸惑うことなく中里は流暢に話し、その展開の早さに、以前切望していたことが叶えられる歓喜や興奮よりも慎吾は苛立ちと嫌悪感を覚えた。それは最早場つなぎの話題でしかなく、果たされるべきだった欲望は、別の欲望に変化を遂げていた。かつての自分の願いを足蹴にしていることへの自己嫌悪と、何の疑いを持たずに応対してくる中里への苛立ちがこみ上げ、
「待て、やっぱりいい」
「何?」
 慎吾は素早く言い、中里はぎょっとしたように、一層に目を大きく開いて、眉根を寄せた。
「何がいいんだよ。お前、俺とバトルで決着つけたかったんじゃねえのか。俺だって、お前より速いってことをちゃんと証明してえし――」
「俺がお前のこと気に入らないって?」
 話題の変え方は、無理矢理にもほどがあったが、勢いに流されやすい男には、有効だったらしい。大仰に開いた目はそのままに、お前がそう言ったんだろ、と中里は言った。「俺は言ってねえ」、と慎吾は言い返した。「お前が言ったんだ」
「じゃあ違うのか」
 そんな選択肢などこの世に存在しないとでも言いたげな、中里の疑念に満ちた声と顔だった。違わない、と言い切るだけの自信のないことが反発心の台頭を許したが、冷静さは失えなかったので、周りにこの会話を耳にできる人間がいないことを確認してから、慎吾は嘲笑とともに言い捨てていた。
「俺がお前を好きだって噂は、チーム中駆け巡ってんじゃねえか」
 中里はため息を吐き、舌打ちをして、何事か言い返そうとしたらしく口を開いたが、その状態で止まり、慎吾をまじまじと見た。黙って見詰められることに、常にない居た堪れなさを感じ、「正否はともかくとして」、と慎吾はつい付け足していた。間抜けに口を開けたまま、じっと見てくる中里が、その言葉を頭におさめた様子はなかった。実際、そうか、と呟いたのち、
「で、バトルはいつやるんだ?」
 と、何もなかったように言った中里を見れば、先刻の会話が忘却の憂き目にあったことは明らかだった。再び慎吾の頭には巨大な空白が訪れた――巨大すぎて、あらゆる部分を圧迫したそれは、慎吾の脳内の大事な神経を確実にくたびれさせた。すなわちこれ、未体験領域への突入である。
「お前が俺を好きになってからだ」
 自分の口が勝手に動いたことを慎吾は意識したが、自分の発言に違和感も恐怖も覚えなかった。それはまさしく、正しいことに感じられた。目の前にある中里の顔は、バトル前でも見たことがないほど強張っており、声は均衡を失った。
「慎吾」
「何だ」
「お前、俺の言ってること、聞いてるか?」
「そりゃこっちのセリフだ、お前こそ、俺の言ったこと、聞いてたか」
「いや。俺は、聞いてねえ、何も」
 中里は信じがたいように首を横に振った。いいか毅、と慎吾はその中里に人差し指を突きつけた。
「お前が俺を好きになんねえと、俺はお前とバトルしねえぞ」
 中里に聞き逃したなどと言わせぬよう、しっかり口を動かしゆっくりと聞き取りやすいように、そして一切己を疑わずに慎吾は言い切った。中里はあらゆるものを疑っているようなしかめ面で、再び小さく首を横に振った。
「お前、それは……どういう意味だ?」
「俺はお前とは、条件イーヴンじゃなけりゃバトルする気にゃならねえ。それだけだ」
 他の走り屋とならばこちらに分が悪かろうがそこで叩き潰してやることが快感につながるが、この男が相手では話が別だ――車の性能や運転の熟練度など関係ない、互いに好調で全力を出せる条件でこそ本来の優劣が定められる最高のバトルができる、そこまで張り合える特別な相手なのだ。だというのに現在自分はその相手に男同士としては悪質な好意を持っている。一方的にだ、これは対等ではなかった。無論慎吾とてその理屈が正しいと信じているわけではない、平時ではバトルの条件に好意を加えるほど色恋沙汰に夢を見てはいない。ただ今は未体験領域に入っており、道理に合っているか否かよりも、いかなる形なれど高まりつつある欲求を無視か相殺か解消かをできる、それでいてささやかな期待を現実に染み出させる行動を取ろうとしているのだった。
「……ちょっと来い」
 しばらく深刻げに顔を歪めていた中里は、言うや否や慎吾の手を取り他の連中の目につかぬ方へと進み出した。慎吾は抵抗しても目立ちそうであるしここで会話を絶つのも未練が残るしで、大人しく手を引かれるままに中里についていった。手を離されたのは、一分ほど歩いてからだった。あと二歩進めば山の斜面から峠の懐へと飛び込むことが可能な自然の危険性を示すために放置されているような縁だった。喧嘩をするにも愛を交わすにも立ち位置をいちいち確かめねばならない不都合な場所だが、そのため用足し以外でわざわざ近づこうとする奴も滅多にいない。つまり、二人きりの空間だ。
 背を向け腰に手を当てた中里は、頭を掻いてから、振り向いた。慎吾は半ば捨て鉢な気分で、半ばこの現状をどう処理すべきか思いつかず途方に暮れた気分で、カーゴパンツのポケットに両手を突っ込んでその中里の前にただ立っていた。中里は何かを言いたげに口を開き、だが何も言わずに目を閉じて、両手を幾度か振り、そして目を開くと、慎吾を見据えながらようやく口から声を出してきた。
「お前は、俺が好きなのか?」
 疑念と不安とが隠しようもないほど皮膚に染み出ている顔貌がそこにはあり、だが真剣で熱のこもった眼差しが慎吾に向けられていた。強い目だった――何を話しても、何をしても大丈夫だと思わせられる、人の高尚な悩みを有無を言わさず掻っさらっていく、嫌な目だった。ぞくぞくしていけなかった、手は相変わらずその顔を殴るための拳を作ろうとはせず、いつでもその顔に優しく触れられるようにと開いている。差し迫った欲求を慎吾は感じ、それを紛らわせるために敢えて大きく手を動かし、声に抑揚をつけた。
「可能性について言ってやる。俺は、お前のこと考えてオナニーできるぜ」
 そう言ってから、下ろした手を再び上げて適当に動かしながら、やったことねえけど、と慎吾は笑った。所詮は仮定の話だが、その実現の可能性があるということがどういうことなのかくらい、この男にも分かるだろう。中里は変わらず不安そうな面持ちで、目だけで己の誠実さを主張していた。その目を見ていると、先ほどは冗談を言っているとでも思われたか、もしくは中里もまた空白に襲われたかで、あの婉曲すぎて正体が不明であった告白を聞かなかった振りをしていたのだろうと思われた。慎吾、と呼んでくるその声もまた、いつになく暗い、生真面目な、そして不安定な色を帯びていた。
「どういう風に間違えれば、そういうことになっちまうんだ」
 非難とも、純粋な疑問とも違う、何に根ざしているのか知れない問いだった。どういう答えを求められているかも知れなかった。したがって慎吾は、この状況下においてなぜか徐々に下半身に血液を送ろうとし始めている欲求を紛らわせ続けようと、一層演技めかせた動きをした。
「何が間違いかっていえば、俺がお前に恋したことだな」
 薄笑いを浮かべながら言ってやった。それは事実かもしれなかったし、嘘かもしれなかったし、願望かもしれなかったし、錯覚かもしれなかった。だが中里は事実と受け取ったらしく、五秒後、いきなり拳を振るってきた。
「うわっ、何だコラ!」
 慎吾は間一髪で顔に見舞われかけたそれを避けた。打撃を与えねば気が済まぬというように、中里は立て続けに殴りかかってくる。
「てめえはッ、気持ち悪いこと言ってんじゃねえ!」
 予備動作が大きくフェイントもしてこないので反射的にでも避けられるが、その分一発食らってしまうと意識は飛びそうだし、それ以前にここは一応崖っぷちである、足元を確認するだけでも一苦労だ。身の危険を感じつつ、慎吾は更に言った。
「お前の質問に俺は、誠意をもって答えただけだ、それを気持ち悪いとは何様だ!」
「誠意が、あるなら、そんな寒気のすることを答えるなっつってんだ!」
 一旦止まって言い返してきて、再び中里は拳を上げてかかってきた。身を横にかわしてそれを避け、勢い余ってつんのめっている中里の右腕に後ろから腕をかけ、引っ張る要領でこちらを向かせた。瞬間、何が起こったか理解できていない、呆けた顔を中里はした。中里の右腕の肘関節部分にかけていた腕を慎吾は外し、その手を自然中里の頬にやっていた。柔らかく優しく肌を触れ合わせる、そのための手が、そして顎を支える動きに移行した時には、唇と歯も触れ合わせていたが、それはぶつけたと言った方がいい勢いのある衝突で、唇にも歯の根にも鋭い痛みが走り、慎吾は手とともにすぐに中里のそれらと離れた。 大股一歩の間を置いて、一呼吸置くと、唇に残る生ぬるさと歯の痺れが脳に鋭く駆け上ってきて、それが刺激となったのか明晰に思考が回りだした。突然なる、未体験領域からの脱出だった。自分が今まで行ったこと、錯覚の正当化だとか婉曲すぎる告白だとかそれを察されなかったための八つ当たりの理不尽な要求だとか欲求を抑えられず距離を詰めたことだとかが一気に客観的に思い出され、それに対する気恥ずかしさが激浪のごとく全身を呑み込んで、クソ、と慎吾は傍にあった木を拳で軽く叩き、その鈍い痛みに手を振りながら、自分に向けて言った。
「誰か俺をここから転がせ、何だこりゃ、馬鹿か俺は。頭の蓋を一回潰しちまえ、クソったれ!」
 声に出してしまうと、八つ当たりしていることの滑稽さが自覚され、やけっぱちでもいられなくなった。叩いた木の樹皮に手を置いて、荒くなった呼吸を落ち着かせる。そして足元から視線を上げると、中里の視線とかち合った。
「慎吾」
 その声は何の意思も深みも感じさせぬ耳障りな音に過ぎないもので、上目で見てくるその顔には機嫌を窺ってきているような、謙虚さを通り越した卑屈な色があった。この男がこのように相手を気遣いながら警戒する、警戒しながら気遣う様子など今まで見たことがない。それだけ頭がおかしくなったものと思われたのだろう。まったくの誤解である。ついさっきまでは自棄になって多少道理に欠ける行動を取っていたが、そこから抜け出した今こそ平静だという自覚がある。そのため、気が狂い気味だと見られているらしいことに対しては苛立ちを抑えられず、おい、と慎吾は中里に指を突きつけた。
「お前、それ以上そんな顔で俺を見るな。何か勘違いしているらしいが、俺は今が一番賢い状態なんだ」
「イーヴンだろ」
「毅」
 言うことを聞かない奴だと思い威圧するようにその名を呼んだが、そうしてから慎吾は落ち着けだの頭を冷やせだのといった暴走している人間に対する常套句を中里が吐いたのではないということに気がついた。
「何?」
「イーヴンだ」
 中里は同じことを言ったようだった。どこか卑屈で、不愉快そうな顔をしながら、やり切れなさそうな声で、言った――イーヴン。
「はあ?」
 実に頓狂な声を慎吾は上げていた。それはその後すぐに咳払いをしなければ逃げ出したくなるほど調子の外れたものだったが、中里はその声を受けても表情を一つも変えなかった。額と目の下辺りが強張っている、どこか卑屈で、不愉快そうな顔だ。そのくせ目には力がこもっており、疑問を受け付けないような様相だった。この男とのバトルなら条件は対等でなければならない――互いに好調で全力を出せる条件でこそ本来の優劣が定められる最高のバトルができる、そこまで張り合える特別な相手、だというのに現在自分はその相手に男同士としては悪質な好意を一方的に持っている、これは対等ではない。先ほどまで合理性を欠いていた自分はだから、その筋の通らぬことを、場つなぎとして口にしていた――お前が俺を好きになんねえと、俺はお前とバトルしねえ。馬鹿げた理屈だ、普通なら取り合わない。今の自分なら死んでも言わない。だが中里は今、言った――イーヴン。会話の流れからして、条件は対等、すなわち好意については互いに持っているものが等しいと中里は主張していることになる。慎吾は気後れしかけながら、作った得意の嘲笑とともに言った。
「ちげえだろ」
「ちがわねえよ」
 一秒もあけずに否定してきた中里は、だが一向に変わらない。慎吾は作った嘲笑をどこへやろうか迷っているうちに消しており、その後にはどういう表情を用意するべきか分からず、顔に手をやったり半身になったり頭を掻いたりしながら、ただどうしたものかとまごついていた。その間も中里は、視線の位置を数秒置きに変えはしたが、表情も体の位置も動かさなかった。三十秒もそのままでいれば迷うのにも飽くもので、慎吾はとりあえず何かを言おうと立ち止まって中里を見た。中里は慎吾を見ていた。先ほどと同じだった。生きているのかと疑いそうになるほど変化がない。だが慎吾が中里を見たまま鼻の頭にしわを寄せると、中里は眉間にしわを寄せたので、生きていることは確かなようだった。慎吾はそして何かを言おうとしたわけだが、わざわざ声にするような言葉は思い浮かばなかった。ちげえだろ。本当か? 言うだけなら何とでも言える、言うのとやるのとでは大違いだ。欲求は肉体を通じて表れる。真実は常に意識の奥まで表す肉体に伴う。本当のことを信じたいならば、ただ感じるしかない。慎吾はその瞬間、頭から言葉を捨てた。動くままに体を動かし、眉間にしわを寄せたままの中里をかき抱いた。顔は見えない。ただ、強張ったのち柔らかくなった胴、背中に薄く当てられた手、ひそめられた呼吸を感じた。跳ね除けられないかと待ってみたが、いくら腕に力をこめても中里は身じろぎもせず、何も言わなかった。抱き合うだけだ。満足かと問われれば満足だと言えた、だが不満かと問われれば不満とも言えた。そこで慎吾は言葉を取り戻した。
「今のままじゃ、俺の方が分が悪い」
「……あ?」
 耳に囁くと、びくっと肩を震わせた中里が、呆けた声を出す。この男はそこまで考えていないに違いないが、好意にも程度というものがある。どれだけ自分が今、経験がないため可能性についてしか言いようのない欲求を募らせているか、中里は知らない。生身で抱き合うことなど、この男は求めていないだろう。それでは対等とは言えないのだ。
「互角にさせろよ。最低ラインだ」
 もう一つ、囁いた。その意味するところを慎吾ははっきりと想像していたが、中里がそれを想像できていたかは甚だ怪しかった。分かっていて、堅物で通したがっている男が、ああ、と簡単に頷くことなどあっただろうか? ――バトルしようという申し出ならともかく、セックスしようという申し出に。

 解決が困難だと思われた事態に光明が差せれば、怒濤の勢いが生まれるものだ。その当日に慎吾が中里と性交を行えたのもそういった勢いがあったためだといえる。言い換えればそれは情熱と欲望であり、そういったものが高まれば常に理性は食らわれる運命となる。ともかく一旦理性を奪っちまえばこっちのもの、気がつけば朝日差し込むベッドの上、欲望の残骸が裸身を覆い独特の空気を放っているというわけである。勿論そこにたどり着くまでに苦労はあった――慎吾にしても男同士での性交に臨んだことはなく手探りな面が多かったし、中里にいたってはごく直前になるまで自分の尻が性器になることを自覚していなかった。そのような困難が続く状況で、自宅に招いて一枚ずつ服を脱がして尻を広げてペニスを突っ込むという一連の行為を、言葉と体を弄して事を進められたのも、ひとえに解決が見込まれたことによって生まれた無謀さ溢れる勢いのおかげであった。
 ベッドの上、屈服したようにうつ伏せになったまま動かぬ中里を見下ろしながら、慎吾はその気になれば自分が相当なたらしになって行為に及べることを実感した。そして自分がまだまだ性的に盛んであるということ実感した。いつもなら退屈しのぎの耐久力を試すがごとき自慰であっても日に三回が精々で、性交となると欲求不満の末であっても二回が限度だった。一回出せばある程度冷めてしまうし、性欲も疲労に白旗を揚げて二回目には途中で使い物にならなくなることもあった。だがその日慎吾は四回やった――つまり四回勃起して四回挿入して四回射精した。もう出てるんだか出てないんだか何が出てるんだかという状況で、中里は中里で腹やら胸やらに結構な量の精液を飛ばしていた。初めてにしては上出来すぎるほどだった。それでも好意が等しくなったのかは知れないが、互いへの注意については均等になったのではないかと慎吾は推測する。性的な事態にまつわる記憶を綺麗さっぱり抹消できるほど器用な男だとは到底思えないし、したがって中里は一生それを意識から完全には除外できないだろう。これでようやく対等だ――馬鹿げた理屈だが、実感のあることを信じないわけにもいかない。目的は果たされた。情動と欲望を抑えられなかった青臭い自分の振る舞いを思い出し自己嫌悪に陥ったところで、何の益もないのだ。慎吾は中里の背に左手を伸ばした。背骨を手のひらで撫で下ろすと、やめろ、と尻に着く前にうつ伏せのまま手を払われた。
「俺は今、猛烈に自分が嫌になってんだ」
 中里は、言葉によく似合うくぐもった暗鬱な声を出した。慎吾は払われた左手で額の皮脂を拭い、その手をまたシーツで拭いながら言った。
「ひでえ奴だな、お前は」
「……てめえが言うんじゃねえよ」
「やった相手が目の前にいるってのに、それで自分が嫌になってるとか言うのは、どう考えてもひでえ奴のすることだろ」
 少なくとも、思っていても言うことではないだろう。慎吾は言ってはいない。中里は黙った。慎吾はベッドの端から足を下ろして、テーブルの上の煙草を取った。悠々と一服してから、思いついて振り向いた。中里はまだうつ伏せでいる。ところどころで半狂乱になったことからの自己嫌悪に潰されているというよりは、思う通りにいかぬ現実に拗ねているように見えた。その現実を認めるための合理的な理屈を求めているように見えた。
「そんなに嫌なら、恋人にでもなるか?」
「ああ?」
 中里は肘をシーツについて上半身を軽く起こし、慎吾を向いた。歪んだ顔には好意的な感情が一つも浮かんでいなかったが、今更発言を引っ込めても余計に反抗的になられるだけだろうから、慎吾は言葉を続けた。
「そしたら普通のことだぜ」
「ふざけんじゃねえ。慎吾」
「俺は真面目だ。お前のこと、愛してるからな」
 かといってやりすぎも良くないようで、ゆっくりと身を起こしベッドの上に座った中里は、素早く慎吾の頭を平手で叩いてきた。いい音がした。
「いてえなクソ」
「黙っとけお前は」
「このくらいでキレてんじゃねえよ。わざわざ軽く言ってやってんのに。それじゃバトルは良くて来年だぜ」
 叩かれた後頭部を掻き、吸った煙草を灰皿に置いてから、慎吾は中里を見て言った。中里は驚いたように目を見開き、慌てた声を上げた。
「五分五分だろ、これで」
「俺の勝ち越しだ。明らかに」
「どこが」
 問うてくるその顔を見たまま、開いている足の内腿を手ですっと撫でてやると、それだけで中里は座ったまま壁まで後退し、頬を赤らめた。慎吾は柔らかい肉に触った方の手を顔の前で振りながら、意地悪い笑みを見せた。
「どこの田舎のおぼこ娘だ、お前は」
「お前は、どこの飲み屋の親父だ」
「ふん。俺のサイドブレーキの握り心地はどうだった?」
 振っていた手でものを握る真似をしながら顔を少し寄せて問う。数秒不可解そうな顔をした中里は、その直後、この野郎、と拳を振り上げた。威嚇に過ぎないと分かっていたが、慎吾は開いた両手を胸の前に出して敵意のないことを示しつつ、ただ発言は控えなかった。
「お前はマジでシャレの分かんねえ奴だな、毅。この石頭め」
「てめえの、シャレなんて、分かりたくもねえよ! 第一俺がいつ握った!」
 いつ握ったのかは教えてやれた。だがそれを叫んだ中里がすぐに思い当たったように更に顔を真っ赤にし、それがあまりに赤く見えたので、あまり頭に血が上って卒中が起きても事であるから、慎吾はそれについては何も言わずにおいた。
「ま、今のお前とバトルやったら楽勝間違いねえだろうけど、楽しくもなさそうだからな」
 煙草を灰皿から取り戻しつつ、そうして話を戻すと、中里は苛立たしげに舌打ちした。
「人を馬鹿にしやがって」
「正当な評価だと思うぜ」
 煙を吐いてから、そっぽを向いたその顔を、下から覗き込む。
「俺もつまんねえバトルはしたくねえし。これからちゃんとしてやるよ」
 誠実さを売りにする気はさらさらないが――大体が誠実さとは無縁な生き方を選んできている――、信頼を得るには真摯な態度が肝要であるから、慎吾は笑いも繕いもせずに、中里を見上げたまま言った。中里は、気後れしたように一瞬だけ目を泳がせ、だが赤みを残した顔をすぐにうさんくさいとでも言いたげにしかめて、慎吾を見返した。
「ちゃんとする?」
「ああ。期待しとけ」
「しねえよ」
 言って中里は壁を向き、ベッドに横になった。振り返ってくる気配もない。一人肩をすくめ、慎吾は煙草を味わった。現状の精神面が及ぼす全体的な有利さを捨てることに未練がないわけではないし、完膚なきまでに叩きのめすことができることにも気は惹かれる。だが本来得られる快感を犠牲にしてまで有利さを得ても勿体ないし、それで勝利を収めたところで、人の速さに文句をつけたがる奴に中里の不調という最適な理由を与えることになる。チームメイトも峠に集う走り屋も、誰からも認められる勝利が欲しいのだ――無論、中里からも。それには、頑迷さを態度で表している傍の男に余計な不安を与えぬよう、こちらがちゃんとしなければならない。そう期待されたいのだと、説明してやっても良かったのだが、結局頑迷さを押し出していようがどうしようが、そこにいる中里を見れば、ひどい満足感に襲われてしまい、いちいち言葉にする気も消え失せてしまった。

 ◇◆◇◆◇◆◇◆

 冬の訪れまではまだ間があるが、皆途絶える時間を惜しむように間断なく峠に愛車で乗りつけてはそのまま暴走に明け暮れたり仲間同士会話を交わしたり金属バッドを持ち出して素振りを始めたりしている。慎吾は間隔も変えずにいつも通り気まぐれに峠に足を運んでいる。中里もだ。互いに週に一度は体をまさぐるようにはなっていたが、慎吾も本気で『ちゃんとしている』ため、表向きな関係の変化はなかった。ただし慎吾個人について言うならば、その態度にはかつてない余裕が生まれている。一日にして、数ヶ月もの間自尊心が否定したがっていた感情を認め欲求を消化し、それによって続けうる関係と付随する充足感を手にした人間のなせる業だ。最早、誰からの指摘もむきになって事実ではないと否定する必要はない――なぜならそれを事実だと認めても、不愉快ではないからである。
 だからこそ慎吾は、
「お前毅さんのこと好きだろ」
 にやにやしながらそんなことを言ってくるいまだ脳内の花々を散らしていない妄想過多の仲間にも、
「それはねえな」
 嘲るような悪意のある笑みをもって、そう自然に言い返せるのだった。
(終)

2008/05/14
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