歩み
こたつに置いていた携帯電話が鳴り、晩飯の支度を始めようと冷蔵庫内の状況を改めて確認していた中里は、単調な呼び出し音が四回響いたところで、電話に出た。
「あ、毅さんですか。竹井ですけど」
若干聞き取りにくい、拡声器を通したような潰れかけの嗄れ声は、液晶に表示されていた通り、チームのメンバーである竹井のものだった。スーパーの鮮魚担当で、質良く維持されているCB5の扱いは並の並だが、魚介類の扱いはべらぼうに巧いその男の声を聞くのは、一ヶ月ぶりくらいかもしれない。
「おう、去年以来だな」
「っすね。まあ一つ、今年もご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます」
濁った声で仰々しく竹井が言い、電話の向こう、遠くから無遠慮な野太い笑い声が聞こえた。誰かと一緒なのだろう。何笑ってんだてめえら、と遠くに言う、べらんめえ口調が特徴の竹井に、中里も笑いは堪えられなかった。
「お前、変に畏まってんじゃねえよ、似合わねえぞ」
「いや、一応挨拶はきっちりしとかねえと、と思いましてね」
「そうか、まあ、俺の方こそよろしく頼むぜ。で、どうした」
松の内も過ぎているというのに、今更挨拶のためだけに、電話をかけてきたということもあるまい。聞くと、あー、と話の流れを作るような間を置いてから、竹井は窺ってきた。
「今って時間大丈夫っすか?」
「別に、大丈夫だ。飯作ろうとしてただけだからな」
「んじゃ晩飯まだっすか」
「まだだな」
仕事帰りに馴染みのチューニングショップに顔を出し、スーパーとドラッグストアでの買出しを終えると、午後八時を回っていたが、食材を補充しておいて、一人で無駄な金も使いたくなかったから、空腹を満たさず帰宅したのだ。
「そりゃ丁度良いや」、巻き舌気味に竹井が言う。「今からグッチ励ます会やるんですよ、毅さんも来ません?」
「原口ィ?」、中里は呆れて、思わず声を裏返していた。「あいつ、また何かあったのか」
メンバーの大半からグッチと呼ばれているのは、原口という、妙に不幸な男だった。野良犬に尻を噛まれたり、一時停止で正確に停まったら横から自転車に追突されたり、万引き犯と間違えられたり、見知らぬ人間の痴話喧嘩に巻き込まれたりと、度々災難に遭っているのだ。常時快事を求める他のメンバーが、頻繁に原口のマンションに押しかけて、原口の身に起きたそういった災難を肴に馬鹿騒ぎするのも、原口にとっては災難と言えるかもしれない。前回原口宅で会った原口は、垢抜けない顔に悟りの笑みを浮かべ、一人で暗くなるよりはいいですよ、と悟りの言葉を吐いていたが、本心かどうかは不明だ。
「ありましたね」、竹井は嗄れ声に愉快そうな抑揚をつける。「俺らも今日知ったんですけど、っつーか今日あったんすよ。出来立てホヤホヤ、産地直送っす」
「おい」、中里は看過もできず、一応声を低くした。「何があったか知らねえけどよ、あいつのこと、あんまり苛めてやるなよ」
「苛めるなんてとんでもない」、心外そうに竹井は言った。「あいつから連絡きたんですって、ひでえことになったって。そりゃ構われたがってんでしょ、明らかに」
確かに、どんな事態が起ころうとも、他のメンバーが笑い者にしてくるだけと、これまでの経験から理解しているはずの原口が、それでも自ら連絡をしてきたというのならば、同情も共感も得られずとも、ただ誰かに話を聞いてほしがっているのだと考えられる。
「そうかもしれねえがなあ」、と中里が曖昧に肯定すると、
「なもんで」、と竹井は勇んで言ってきた。「毅さん来てくてたら、あいつ喜ぶと思いますよ。こういう時にまともに慰めてくれんの、毅さんくらいっすからね、ははは」
そこで笑うのはどうなんだ、お前。思ったものの、こういうノリがあるからチームには、仲間割れにつながるような深刻な内輪揉めも生まれないのかもしれないとも思え、中里はともかく、笑いという餌を食い尽くさんとする猛獣どもの中に原口を放置するという、可哀想な決断はしないことにした。
「分かった、俺も行くぜ」
どもっす、と明瞭に言った竹井が、おい、毅さん来るってさ、と遠く言うのが聞こえた。それより遠くから、おー、という野郎どものざわめきが聞こえる。竹井がどこにいるかは知れないが、他のメンバー幾人かと一緒なのは、間違いないようだ。だから自分にもお呼びがかかったのかもしれない。チームのメンバーは、二人三人と集うにつれて、行動力が増していく。そういう時には、突発的な飲み会が開かれたりもする。道徳心や倫理観に欠ける面もあるが、瞬間瞬間の人生の楽しみ方を、よく知っている奴らなのだ。
「それじゃ、集合場所なんですけどね」
電話口に戻った竹井が指示してきたのは、原口の住むマンションの近くにある、潰れた服屋の駐車場だ。比較的広く、街灯が傍にあって明るく、封鎖もされていないため、原口の家に車で行く者は、大抵そこに停めてしまう。中里も二度利用したことがあり、場所は知っていた。なぜいつものように原口宅に現地集合ではないのか、少し不思議に思いもしたが、特に不都合もなかったのでそれは口にせず、十分くらいで着くと言って、中里は竹井との通話を終えた。
寝巻き用の服を脱ぎ、ジーンズとトレーナを着てジャンパーを引っ掛け、諸々のポケットに、鍵と財布と煙草とライター、携帯電話とを入れる。腹は変わらず空いているが、今から晩飯を準備するよりは、これまでの流れからいって、既に原口宅にて開始を待つばかりになっているだろう宴会に参加する方が、早く食事にありつけるに違いない。酒を入れなければ、帰りに峠も流せる。風呂に入ってなくて良かったな、思いながら中里は、部屋の電気を消し、玄関に出た。冬の最中、風呂上りに出歩いて湯冷めをして、風邪を引いても困りものだ。
靴を履き外に出て、ドアを閉めて鍵をかけ、駐車場に置いてある32まで、乾燥しているアスファルトの上を進み、ふと、慎吾の奴は来るんだろうか、と思った。雄介あたりが話は回しているだろうが、大勢のメンバーでの馬鹿騒ぎは、あまり好まない奴だ。来るかもしれないし、来ないかもしれない。もし慎吾が来るとすれば、今年に入って初めて会うことになる。赤いEG−6を見ることになる。いや、あるいは車では来ないかもしれない。そもそも、来ないかもしれない。結局のところ、来るも来ないも本人の気分次第で、今の慎吾の気分がどういうものなのか、中里には分からない。
ただ、そんなことを考えながら歩くうちに、自分の気分が落ち着かなくなってきたことは分かったため、駐車場の32の前に立った中里は、まあ関係ねえか、俺には、と思考を切り捨てて、鍵を開けた運転席に掛け声とともに乗り込んだ。
横からでも、駐車場にいる集団は見えた。誰か彼か手を振ったり頭を振ったりと、体を動かしている。五十台ほどは停められそうな敷地内に、右折して32を入れ、およそ十人強という集団の近く、見慣れた青いS13の横に、一台分空けて停める。休日前だからか、面子はある程度揃っているようだ。降車して、冷たい外気に肌が馴染むまでの少し、目を散らした限りでは、赤いEG−6は視界に入らなかった。
「毅さーん! あけおめ! ことよろ!」
服装も容貌も体格も髪型もまちまちで、性別だけが一定の集団の中、軽薄さの目立つメンバーがご挨拶な挨拶を飛ばしてきた。すぐに他のメンバーから、毅さんにことよろとか略してんじゃねえよ、っつかもう寒中見舞いのシーズンだろ、と合いの手が入り、下品な笑い声が起きる。
「あんまでけえ声出すんじゃねえぞ、近所迷惑だからな」
一応注意をし、しかし気安く笑いながら、中里は男たちの集団に入った。他の面々と再会に際しての言葉を交わすうちに、左斜め前方の、ベージュのボーダーセーターから生え出たような首の上に、老成した顔を積んでいる雄介と目が合い、片頬を上げ合う。直後、その奥にいる慎吾とも目が合って、中里は一瞬うろたえたが、こいつが来てても、何もおかしいことはねえ、とすぐに気を取り直し、上げた頬を正確に下げて、ごく小さく顎を下げた。
モスグリーンのニットパーカーのポケットに両手を入れ、背を丸めている慎吾は、漫然とした目で中里を見たまま、浅く色の抜かれた長い前髪の間にある尖った眉を、退屈そうに上げ、下ろした。そしてすぐ雄介を向き、ひねくれた笑みを浮かべながら、何事かを話し始める。そんな慎吾を見ていると、また気分が落ち着かなくなってきたため、逸らした目を、中里は前方にやった。
「こっちっすよ毅さん」
横向きに停まっているシルバーの車の前に立つ一団の中から、竹井が嗄れ声で呼んできた。筋肉質な体を、濃紺のハイネックとジーンズに押し込み、骨張った顔に、下衆な笑みを浮かべている。その横には、銀鼠のジャージに細身を包み、空虚に微笑む原口がいた。よお、久しぶりだな、となるべく優しく声をかけてみるも、ふふふ、と原口は生気の欠けた声を返してくるのみだった。
「で」、精神的に相当やられていそうな原口はひとまず置いておいて、中里は竹井に尋ねた。「何があったんだ」
「こちらでございます」
似合わぬ仰々しさで竹井が示したのは、その後ろにあるシルバーの車だ。5ドアハッチバック、吊り目のヘッドライトが特徴的な206は、原口のものに違いない。ただ、峠で見る時とは、明らかに違う部分があった。ルーフだ。材質が違うとか、色が違うとか、そういうことではない。違うのは、形状で、それも一部分だった。ルーフの丁度中央が、陥没しているのだ。
およそ四十センチ四方、深さにして十センチほどだろうか、見事にへこんでいる。夜でも目に見えて分かるほど、へこんでいる。それはもう、くっきりとへこんでいた。
「……何があったんだ」
先と同じ問いを、より限定的な意味で、中里は発していた。途端、竹井たちは至極おかしそうに笑い出し、微笑を一瞬にして消した原口は、「何がも何も」、怒りの形相で叫んだ。
「正月休み取れなかったんで、一昨日から実家帰って今日戻ろうとしたら、このザマですよ!」
何があってこのザマになったのかの説明にはなっていないが、あまりの原口の必死さに気圧されて、そうか、と頷いておく。すると竹井たち以外の連中も含めた爆笑が起こり、原口は顔を真っ赤にして、何やら喚き出すものだから、ルーフをへこませたものが何かは、まったく要領を得なかった。
へこんだということは、何かが落ちたのだろうとは考えられる。ならば笑わずにはいられないほど珍奇なものが落ちたのか、しかし他の奴が笑っているのはただ単に、逆上し日本語が怪しくなっている原口の、独特の滑稽さがツボにはまったためだけのようにも思える。
何が何やら分からぬまま、手がかりがないものかと眺めた206のルーフについて、こりゃ交換だろうな、と中里が習性で見積もりを出しかけたところ、
「自業自得だろうがよ」、一際よく通る、陰気で滑らかな男の声が、左手から飛んできた。「実家で雪庇にやられるなんざ、とんだ間抜けだぜ」
声のした方を見れば、せせら笑う慎吾がいる。「言うなよ!」、原口はそんな慎吾に向かって、痛々しい叫びを上げた。「休みに実家でぬくぬくして何が悪いんだよ! 悪くねえだろ!」
まあ悪くねえよな、悪くはねえな、でも間抜けだよな、間抜けだな、と他の連中が頷き合い、原口は呻いた。それを一笑し満足げに顔を背けた慎吾の言を、脳内で再生させて中里は、原口の206のルーフに落ちた物を、ようやく呑み込めた。雪庇だ。屋根に積もった雪は、重力や風に従いじわじわと端から張り出して、好天での融解と夜間での氷結と荒天での降雪とを繰り返すことにより、庇上の雪と氷の塊となる。溜まりに溜まったそれが、原口が実家にぬくぬくしている間に、融けるなり自重に負けるなりして崩落し、原口の206のルーフを直撃したというわけだ。
短い嫌みでその一件を説明してしまった男は、もうこちらを見向きもしない。事態を把握したというのに、またもや落ち着かない気分になってきた中里は、原口に目を戻した。
「くそ……こんなことなら、三月くらいに帰るんだった……どうせ正月終わってんだし……」
呻きの狭間、悔恨の言葉を漏らす原口の背中を、そう言うなよ、と軽く叩く。
「これだけで済んで、まだ良かったじゃねえか。ここにあるってことは、走るのに問題はねえんだろ?」
ガラスや主要骨格まで傷つけば、修繕費用はかなりかさむ。ルーフのど真ん中に落ちたのは奇跡的な、不幸中の幸いだろう。だがそれも、原口の慰めにはならないようだ。再び空虚な笑みを浮かべ、生気に欠けた声を出す。
「近所の整備士さんに見てもらったら、へこんでるだけだって。へこんでるだけ」、そこで原口は、怒りを取り戻した。「でもへこんでるんです、へこんでるんですよ!」
確かに、へこんでいる。どうやら原口自身もへこんでいる。他に慰めようにも、サンルーフじゃなくて良かった、というくらいしか思い浮かばず、それも良かったのか悪かったのかは定かではないので、まあ、へこんでるな、と中里が同意すると、他の奴が「いいじゃねえか記念だ記念」と笑い、「何記念だよ!」と原口は元気に吠えた。
「何って、有馬記念?」
「あ、俺当たったぜ、単勝だけど」
「よし奢れ」
「いや無理もう使ったし」
「はえーなおい」
勝手に進むメンバーたちの会話に、「俺は外れたよ!」、と原口が叫びを入れる。少々うるさいが、これはこれでストレス解消になるのかもしれない。今日くらいほっといてやるか、と体を少し引いたところで、脇にいたメンバーに、じゃあ毅さんも、記念写真撮りましょう、と引っ張られ、中里は断る間も与えられずに、原口の206の前に座らされていた。隣には、原口も座らされていた。これまでの会話で、まともに慰めてやれた自信はなかったので、励ましの意を込めて、その肩に腕を回してみる。
「……りがとう、ございます」
他の奴らの笑い声に掻き消されそうなほど小さい声で、原口が言った。中里は、気にするな、と言う代わりに、原口の肩を引き寄せた。
「いきますよー。はーい、オグリキャッープ!」
おそらく有馬記念絡みの合図でシャッターが切られ、直後に他の連中は、写真を撮ったことも忘れたように、競馬談義を始める。原口も加わったその輪から数歩下がり、中里は一息吐いた。
峠では気にも留めない、会話も笑いも絶やさぬ騒々しい野郎衆の、強い活気に地上で触れると、一週間以内に会ったメンバーもいるというのに、強烈な懐かしさが胸に沁みてくる。だがこれほどやかましい中で、しんみりするのも場違いなように感じ、顔を撫でるついでに中里は、誰にも気取られぬように力の入った眉間を揉み、よそを見た。
見たのは左で、眼前には慎吾がいた。そして違わず視線がかち合って、中里は目を見開き、息を詰めていた。まさか慎吾が傍にいるとは思っておらず、不意を食うも、慎吾は平然としたもので、目を逸らすこともなく、どこか退屈そうなまま、常にすぼめ気味の口の中で、よう、と言う。その一言を受けただけで、体を支配していた緊張が解け、深いため息を吐きそうになり、中里は慌てて代わりに吐くべき言葉を探した。いつも通り、峠にいる通りに慎吾と向き合えるというだけで、安心した自分を感じるのは、落ち着かない気分を復活させるだけだ。ともかく空気を変えようと、ああ、と口を開く。
「元気だったか」
「人が元気かどうかくらい、見りゃ分かるだろ」
その通りかもしれないが、小馬鹿にするような言い方は憎たらしい。中里がつい顔をしかめると、無頓着に肩をすくめた慎吾は続けて、正月どうしてた、と聞いてきた。その自然な言動に、不愉快さを表す機は手もなく奪われる。
「実家に帰ってたぜ」、会話を拒む余地は、中里にはない。「婆さんが年末に倒れたから、ゆっくりはできなかったけどな」
「へえ、じゃあ喪中か」
納得したような慎吾の、存外な言葉を中里は、「勝手に殺すんじゃねえよ」、と急いで正した。「命に別状はねえんだ。まだ入院中だけど」
「はあ?」、慎吾は不愉快そうに、一重の目を吊り上げる。「生きてんならなら最初っからそう言えよ。倒れたっつったら普通、死んだと思うだろ」
「死んでたら普通、死んだって言うだろうが」
そう返すも、どうだかな、と前髪のかかる高い頬骨を突き出すようにして、慎吾は言い捨てる。その相変わらずの小癪さにはむかつきを覚えるものの、中里の胸は妙にすっとして、気分が落ち着かないということもなかった。
他の連中とは、地上でも峠と同じように、何も考えずに付き合っていられるが、慎吾と接する時だけ中里は最初、戸惑ってしまう。どれだけ相手を損なう態度を取ったとしても、それを水に流してくれるもの、他の何が関わろうがすべてをさらっていく、走りという指針は、峠で常に最速を競り合う慎吾との間に無二で、地上には存在しない。だからこういう風に、走り屋であり走り屋でない自分の振る舞いを、意識で決定しなければならない場合、互いの関係を否定するような、重大な過ちを仕出かしやしないかと、中里は緊張してしまうのだ。
それでも存在を認め合えば、刹那にして峠にいる時と変わりもなくなり、露骨な会話を始めれば、悩む必要もなくなって、言葉は勝手に生まれてくる。
「お前はどうしてたんだ、正月」
少しの沈黙の後、中里が何の気なしに尋ねると、左の眉をわずかに上げた慎吾は、何の気なさそうに答えた。
「一応初日の出見て初詣はしたけど、まあそんくらいだな」
「雄介たちとか?」
赤いEG−6はないが、黄色が目を引く小型の5ドアSUVはある。何人かでただ出かけるだけなら、その雄介のHR−Vを利用するのだと、夏の終わり、海帰りで峠に来た慎吾が言っていた。今日も慎吾と他の連中は、それで来たのかもしれない。
「ああ」、浅く頷いた慎吾が自嘲するように、はっ、と短く息を吐く。「一日中あちこち動き回って、その後全員風邪引いたぜ」
「全員?」
「外れがいねえってのが神がかり的だろ。神様参って、何貰ってきたんだか」
「お前もか」、正月に風邪を引いた慎吾、という情景を想像できず、中里はつい問うた。
「全員っつったじゃねえか」、と慎吾はあからさまに眉をひそめ、「まあ」、と肩をすくめるとともに、億劫げな表情に変えた。「三が日で治ったけどよ、本調子に戻るまで時間かかっちまってな。目眩取れねえから、車もろくに乗れねえし」
今年に入ってから、一度も峠で慎吾と出くわさなかった理由を、慎吾が峠に来なかった理由を、そこで中里は知った。多少の体調不良ならば無理も利くが、目眩があっては運転どころか生活にも支障をきたす。峠を攻めている場合ではなかったのだろう。
今見た限り、慎吾に不健康なところはない。まとう雰囲気が多少陰鬱なのもいつものことだし、この男は、怪我や病気を押してまで、多数のメンバーとの交流を求めるような、素直な寂しがり屋でもない。それを分かっていても中里は、確かめずにはいられなかった。
「もう、大丈夫なのか」
「だから見りゃ分かるだろ、お前の目玉はビー玉か、毅」
容赦のない正論と皮肉でもって、人の心配を無下にする態度は、年が改まったところで、改まりもしないらしい。いい加減何か一つ反論してやろうと、息を吸い込むと同時に、「毅さん」、と脇から呼ぶ乾いた声が、水を差した。
「寄せ鍋やるんで、行きましょうや」
促してくるメンバーに、どこにと聞かずとも、行く先は知れた。原口を励ます会が開かれるのは、原口のマンションだ。その駐車場には何台も車を置けないから、住人の原口と、嫌がる原口の206に仲間という言葉を掲げながら押し入った竹井たち以外、ここからは徒歩となる。
雑然とした男たちが駐車場の脇に抜け、ぞろぞろと裏通りを行くが、不健康そうではない慎吾に、動き出す気配なかった。水を差されて情動も去った今更、食って掛かるのも大人げないように思え、中里は足を出す前に、一応尋ねた。
「お前も行くんだろ?」
「お前、当たり前のことは聞かないって抱負にしとけよ、今年の」
沈痛な面持ちをわざとらしく装いながら、言った慎吾はあっさりと、中里の横を過ぎる。虚をつかれる形で、中里は束の間呆然と、前を歩いていく猫背気味の後姿を眺めたのち、我に返り、唸るようにため息を吐いた。相変わらず、腹立たしいほど当意即妙な奴だ。減らず口、と言ってやるべきかもしれない。まったく変わらねえ、と思い、まあ変わっても変か、ともう一度ため息を吐いてから、中里は一人歩いた。
住宅街の道路の上で集団を作るメンバーは、小突き合ったり、寒そうに首をすくめたり、跳ねるように歩き回ったり、我関せずに進んだりと、てんでばらばらに動いている。だが同じ方向に進み、総じてご機嫌な雰囲気を醸し出している面々を、後ろから見ているうちに、思いがけなくこみ上げるものがあって、中里は足を止めていた。
山から離れた場所でまで、計画的に寄り合わねばならないほど、チームはメンバーの人生に密着していないし、中里はそれに不満もない。峠では一体感をもって、純粋に、走りのために結束する他の連中の、それぞれの生活に干渉する必要など、どこにもありはしないのだ。
それでもこうして、どこでも変わらぬ面々の、自然な賑々しさを目の当たりにすると、その空気を作り出す、誰かの出し抜けな呼びかけに応じ、地上で集った走り屋たる男たちと、いつまでも関わっていたいと思える。ここに確かにあるチームと、ここに確かにいる皆と、同じ時を生きていたいと思える。それを、失いたくはないと思う。
中里は右手で目を覆い、鼻で深呼吸をし、気分を鎮めることを心がけた。明日チームが滅亡するわけでも、峠が消滅するわけでも、車が焼失するわけでもないというのに、こんなところで慣れない憂いに襲われるとは、身内が死にかけて、少し涙もろくなっているかもしれない。あるいは空腹のあまり、神経過敏になっているだけかもしれない。さっさと寄せ鍋を頂いて、走りに行ってしまおう。決心し、精神の動揺を抑え込み、もう一つ深呼吸をしてから、歩みを再開させてすぐ中里は、確保した視界の前方、十歩ほど先に佇む慎吾を見つけ、つまづきかけた。
慎吾は明らかに、立ち止まっている。その更に先を行く統一感のない集団に、加わったものと思っていたが、何か怪しいものでも目撃したのか、それとも目眩がまだ治っていないのか、訝りつつ少し歩幅を大きくして、その隣に並び、中里は聞いた。
「どうした」
何か不服そうに前を向いている慎吾は、別に、とすぼめた口の中で言うと、歩き出した。なぜ慎吾が止まっていたのか分からずに、歩く慎吾の後姿を中里はその場で眺めてみたものの、モスグリーンのニットパーカーの背中に書かれているのは、その答えではなく、デザインとしての英文だ。そのまま自分が止まっていても仕方がないので、遅れて歩き出す。
すると慎吾はまた止まり、中里はまたつまづきかけ、しかし歩き続け、隣に並び、解せない現象に少し苛立ちながら、どうした、とまた聞いた。
「今年の抱負」
前方に発せられた慎吾の、答えの意味も解せずに中里は、「あ?」、と顎を突き出した。慎吾が顔を向けてきたのはその時で、突然だった。きつく狭められた眉間は、不服そうなその表情を保つ手助けをし、妙に艶のある茶髪の間から覗く刺々しい目は、出した顎を中里に引かせた。唇を突き出した慎吾の口は、一層すぼまって見える。それを動かすことを厭うように、慎吾はぼそぼそと言った。
「当たり前のこと、聞くなよ」
数秒置いて、噛み合った視線が舌打ちとともに強引に外されて、慎吾は再び歩き出した。その靴底を引きずる鈍い歩みは、待っているかのようだ。先ほど二回止まったのも、待っているかのようだった。何を、誰を待っているかなど聞くまでもないように、そうすることが当たり前のように、慎吾は待っている。
思い至り、お前の方こそ、と何か言い返してやりたくなったが、慎吾ほど当意即妙になれそうにはなく、何を言っても気恥ずかしくはなりそうだった。結局中里は、開いた口から息を吐くのみにして、こめかみに染み出た汗を、冷える前に指で拭ってから、駆け足で慎吾の横に並んだ。歩きながら慎吾を見れば、何か不服そうな顔のまま一瞥してきて、歩みを速める。それに遅れないよう、中里は足を動かし、前の小うるさい集団に合流するまで、慎吾と二人、黙って並んで歩き続けた。
(終)
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