投資
二月。春の気配はまだ遠く、夜の峠では寒風が猛威を振るい、時に雪や氷が路面を覆う。過ごすにも走るにも厳しさの強い環境では、山を行き交う車も少なくなる。それでも週末ともなれば走り屋もちらほらはいるもので、今日も中里は走り屋がちらほらいる峠の駐車場を思い浮かべながら、愛車のR32を操っていた。そのため走り屋がわんさかいる峠の駐車場に入った際に、俺は道を間違えたんじゃないだろうか、と一旦は疑った。
中里は妙義山に無意識にでも到着できるという自信を持っている。実際家を出てから峠に降り立つまでの記憶がすっぽり抜けていたことも何度かある。通った信号の色を思い出せなかったことが何度かある。それでも山には無事着いた。だから自分が道を間違えることなどありえないと中里は思う。思うが冬の週末、走り屋がわんさかいるという光景をフロントガラス越しに見ると、別の峠に来ちまったんじゃねえか、と疑わざるを得なかったのだ。
だがその疑念はすぐに払拭された。わんさかいる走り屋は総じて男で漂う雰囲気はむさ苦しい。清潔感のある装いの人間もいくらかいるのにむさ苦しい。そんな徹底的なむさ苦しさを醸し出す集団は、中里の属する走り屋チーム、妙義ナイトキッズに他ならない。
群馬県内でも高い知名度を有しているナイトキッズは、同時に高い不人気度も有している。このむさ苦しさがゆえである。更に言えば大半のメンバーは柄が悪い。むさ苦しくて柄が悪い。人気の上がる要素はない。メンバーたちも意図せぬ不評が県内に蔓延し始めた当初は好感度アップ大作戦として、礼儀正しく人に優しい走り屋を気取ったりもしたものだが、元が紳士分を一割程度しか持たない野郎衆だ。ぎこちなさは満点で大方の根気も続かずに、走れるんなら別に人気なくてもいいんじゃね、と作戦中止は満場一致で可決された。以降メンバーは周りの目を気にせず走り屋生活を満喫する派、黄色い歓声ではなく黒っぽい歓声が飛んでくる現状を悟りの境地で受け入れる派、自分たちが模範的な一般市民であることを認めない世間は認めない派などに分かれつつ、チーム全体は変わらずむさ苦しい。
そんな特徴的なむさ苦しさを持つナイトキッズのホームは妙義山だ。ゆえに連中の集っているここが妙義山であることを、中里は確信した。
しかし次には別の疑問がわいてきた。なぜ今日これだけの人数が峠に来ているのかということだ。その答えを考える前に、丁度前方にいるメンバーが手招きどころか全身で招かんとしてきたので、中里はひとまず峠に降り立って、そちらへ向かった。
「遅いじゃないスか毅さん、シューケイ終わっちまいましたよ」
全身招きを果たしたグレーのニット帽を被っているメンバーが、いの一番に口を開く。満足げに笑っているそのニット帽のいる四人の輪に加わってから、何の話だ、と中里が聞く前に、
「別にいいだろ、こいつは所詮ゼロ近辺だ」
ニット帽の左に立つ、庄司慎吾が口を挟んできた。長い茶髪と淡いピンクのマフラーでも消せない辛さを持った面構えのこの男は、チーム内でも飛び抜けて走りが速く態度が悪い、中里にとっては微妙に迷惑な存在である。妙義山のダウンヒルを果敢に攻める赤いEG−6のドライバーは、走り屋として無視できないだけの実力を有するが、無視してしまいたいほどの毒舌も有している。その上顔に似合わぬ無視をしがたい繊細さも有していて、無視をしたいが無視しがたい、などと思ったところでそもそも無視の仕様もない、そんな微妙に迷惑な存在なわけである。
「何言ってんだお前」
しかし一年近くもくさされ続けてきていれば、くさしてきているかどうかくらいは手に取るように分かるものだ。ただその内容について分かるかどうかはその時々によるもので、今回中里が抱いた感想はそれだった。直後に慎吾があからさまにせせら笑い、
「ね、毅さんもゼロですよね! ね! ね!」
その笑いを消し飛ばすほどの勢いで、モアイ像によく似たメンバーが脇から突如、必死の形相で同意を求めてきた。両手を握られ長い顎を迫られたところで、話は見えない。中里は仰け反りかけつつ、おい落ち着け、とまず制した。
「ちょっと離れろ、声がでけえ」
「ゼロって言ってくださいよ!」、モアイ似はそれに構わず絶叫した。「俺だけがゼロだなんてこんなの不公平ですよ、俺のどこがゼロに相応しいってんですか!」
「いや普通に全体的にゼロっぽいだろ」、とニット帽が至極当然の態で主張して、「義理チョコすらも貰えねえ人間の代表って感じだな」、と同期の男が頷いて、中里はああと得心し、「おめーら菓子メーカーの回し者だな!」、と吠えたモアイ似に、一応確認してみた。
「チョコの話か」
「そうですよチョコですよチョッコレートですよ! 今日はバレンタインデーですよ! すべてはアメリカの陰謀です、みんな洗脳されちまってるんですよ!」
顔をこちらに戻し訴えてくるメンバーは、最早怒りの形相だ。言われてみれば今日は二月十四日のバレンタインデー、女性からチョコを貰える可能性のある日だが、陰謀がどうのという話はよく分からなかったため、その辺はよく分からねえが、と中里は答えた。
「俺はゼロじゃないぜ」
「何てこった!」
途端、両手で頭を抱えたモアイ似は崩れ落ちるように地に膝をついた。気持ちは分かる。俺も去年はゼロだったな、悲哀に満ちた思い出に浸りかけた中里を、毅、と穏やかに呼ぶ声が現実に引き戻した。
「一個貰えたくらいでそんなに威張るなよ。虚しいぜ」
諭すように言ってきたのは、薄ら笑いを浮かべた慎吾である。見当違いも甚だしいその指摘を、「誰が威張るかそんなことで」、と中里は一蹴した。
「大体ゼロとイチとは違うだろうが、それが一緒じゃ二進数は存在しねえ」
「お前今うまく例えたとか思ってんだろうけど」、慎吾は急に真顔になった。「一個しかチョコ貰えなかったってこと、否定できてねえからな」
真顔で真面目に言われてみればその通りだと思えるが、そもそも今日貰えたチョコレートといえば社長の奥さんからの一個きりだ。それを否定するつもりもない。では堂々と胸を張って貰ったチョコはたった一つだと肯定するか、しかしその場合、先の慎吾のお門違いの諭しに正当性を与えるような気がしてならない。否定も肯定もしがたい以上、この話はここまでにするのが適切である。
「そう言うお前は何個なんだ」
気持ちを切り替えて中里が聞くと、スルーかよ、と慎吾は顔をしかめながらも、それ以上難癖をつけてはこずに、問いに答えた。
「俺は貰わねえし」
「貰『え』ねえんだろ」
「貰『わ』ねえんだよ、そういう主義だ」
「主義ィ?」
女の子からチョコレートを貰うか否かというだけで、また大層な言葉を引っ張り出してくるものである。顔をしかめた中里を億劫げに一瞥した慎吾は、女なんてのはな、と中空を睨んだ。
「義理チョコをローリスクハイリターンの甘い投資だとしか思ってねえ。だから元本割れもしてねえのに利回り高くねえからってブーたれて、ケチだ何だ勝手な風評ばら撒きやがる。そんなてめえ勝手のがめつい奴らに誰が利用されてたまるかよ、こっちは慈善事業やってんじゃねえんだチクショウが」
早口に語る慎吾の顔は憎悪に支配されていた。その言い分を半分ほど理解できないまま、何がこいつの元から悪そうな根性をここまで捻じ曲げちまったんだ、と中里は訝ったが、これ以上理解しづらいことをまくし立てられても面倒なので、チョコレートを貰わない主義を持っているのは理解したという意味で、そうか、とだけ言っておいた。
「ってお前もゼロじゃねえか! 何しれっと俺だけむなしい0組にしてんだよ、この卑怯者!」
いつの間にか立ち直っていたモアイ似が、慎吾に吠えた。凶悪面の慎吾は、「あァ?」、と低めた声でモアイ似に言い返す。
「貰えねえお前と貰わねえ俺を一緒にするなアゴ野郎」
「アゴ言うなやクソハゲが!」
その叫びののち、二人によるアゴとハゲの応酬が始まった。それをニット帽と同期の男はおかしそうに観戦しているが、このまま不毛な非難合戦を聞いていても埒は明かない。おい雅人、と中里が呼ぶと、いや、と同期は涙を拭いながら寄ってきた。
「毅クン、やっぱこいつらの漫才は楽しいな、うん」
「……俺には単なる欠点の言い合いにしか見えねえけどよ、楽しんでられるのも、火の粉が飛んでこねえうちだけだぜ」
慎吾が苛立ちのピークを迎えると、完全防御無視体制での無差別口撃が開始される。残酷の一語に尽きる精神虐殺が行われる。とても笑えるものではない。
「相変わらず通だねえ」
その恐ろしさを知っているくせに、同期の男は余裕たっぷりに笑っている。タフだ。いくらこちらが慎吾通ではないと怒鳴ってもしつこく認定してくるだけはある。このタフさはなかなか打ち砕けないが、通じゃねえよ、よく知らねえし、と一応いつも通りに否定して、中里は本題に入った。
「ところで、何でこんなに集まってんだ?」
場をざっと見ただけでも、チームの七割はいるようだ。そのほとんどが一部でまとまりいつも通りのむさ苦しさを漂わせつつ騒いでいる。何をやっているかは不明である。
「いや、お前までボケてくれなくていいぜ、いつもの天然分で足りてるから」
「はあ? お前がボケてんじゃねえか?」
「いやそれ地味にきっついツッコミ……」
笑いながらそこまで言った同期が、不意に笑みを強張らせ、「え?」、と首を傾げた。「何?」、と中里は顔をしかめ、「マジ?」、と顔をしかめ返してきた同期に、「何だ」、睨むように尋ねる。
「何って……まさかお前、今日の話、聞いてねえの?」
尋常ならざる慎重さに覆われた同期の顔を見ながら、中里は薄ら寒い予感を覚えた。この予感はおそらく正しい。できれば今からでも知ったかを決め込んで、この話題は打ち切りたい。しかし免許取り立ての頃からつるんでいる同期相手に意地を張っても仕方がない。その上よりにもよってこんな時に慎吾は特有のナイーブさを発揮して同期の尋常ならざるオーラを感じ取ったらしく、モアイ似との言い合いを止めてこちらの様子を窺い出していた。そうなるとモアイ似とニット帽とも何事かとこちらを見てくるわけで、近場の全員に注視されては、開き直るしかないものである。
「今日ここで何かやるとかって話なら、俺には回ってきてねえな」
言うと、若干の驚きを顔に載せた慎吾を除いた三人が一斉に顔を見合わせ、え、と寄せ合った。
「待てよ何で誰も毅さんに連絡してねーの」
「ってかいっつも雅人さんがツーカーじゃないスか、固い絆的な」
「いや俺はイッシーがみんなに話してるもんだと」
三人による小声での短い会話の後、重苦しい沈黙が広がって、中里は予感の正しさを知った。
「どうやら俺はお呼びじゃねえ、ってことらしいな」
卑屈にならないように軽く笑ってみるも、一人仲間の輪から外れていたという現実の前で自嘲の色を入れないことは不可能であった。
「いやいやいや」、焦った風にニット帽が両手を振り立てる。「まあほらアレッすよ、毅さんならいつでもどこでも現れてくれるっていうこの、俺たちなりの無言の山のアレの信頼感的な?」
「そうです毅さん」、モアイ似はモアイのようにどっしり構えながら言った。「毅さんは空気みたいな存在なんですよ。っつってもそりゃあって当たり前の大切な存在って意味で、空気みたいにスルーしたくなる存在って意味じゃありません」
こちらを励まさんとする心意気は二人ともから感じられる。ただ前者は説明を焦りすぎで、後者は説明を付け足しすぎである。これをどう受け取ったものかと中里が逡巡した間隙を縫って、「そうヘコむなよ、毅」、と慎吾が肩に優しく手をかけてきた。
「お前はハブられたんじゃねえ。ただ存在感が奇跡的に薄かったってだけの話さ」
見れば横にはわざとらしい爽やかさが毒々しさを生み出している嫌らしい笑顔があった。「お慰めありがとよ、慎吾」、中里はできうる限り爽やかに笑い返しながら、肩に置かれた手を外した。「心に沁みるぜ」
「そうだろう、俺の心の広さに感謝しろ。そんで土下座の一つでもしてみせろ」
笑みを保ったままの慎吾に「ほざけ」と言い捨て、中里は自分の存在感の濃度について考えざるを得ない状況を正確に把握するため、詳しい事情を聞くことにした。
「言いだしっぺは合原なんだけどな」
話によれば、チーム内でも女性絡みの行事を取り上げたがるそのメンバーが、晩飯を共にしていたメンバーと貰ったチョコレートの個数を競い合っていたらしい。それが白熱した末にチーム特有の連絡網が駆使されて、即席で第一回バレンタインデーモテ王者決定戦が峠で開かれる運びになったという。相変わらずやり出したら止まらない奴らである。またやり終えても止まらない奴らである。
「んじゃ俺は失礼します、またそのうち」
「皆さん、後でヨロシクー」
戦を終えたメンバーは、車で横を通りざまに挨拶してきて山を降りるなり峠へ上がるなり場から徐々に散っていく。連中のこの過激なほどの突破力やら行動力やらが何年経っても走り屋としてのスキルアップに結びつかずにいることが、中里には不思議でならない。妙義ナイトキッズ七不思議の一つである。
「まあ今日来てるのも全員じゃねえし、あんま気にすんなって」
話を終えた同期は、軽薄な調子で言ってくる。元々この男は浮ついた体質だ。それでも今は事態を深刻ににさせないようにという配慮があると感じられる。その思いは素直に受け入れて、「俺は何も気にしちゃいねえよ」、中里は軽々しく笑った。「チョコの数を競うつもりも端からねえしな」
「競えるほど貰えてねえもんなァ」
そこで敢えて深刻な調子を入れてくるのが、庄司慎吾というへそ曲がり体質であった。その深刻さに反発するにあたって作り笑いを持続するか中止するか、中里は咄嗟に決めかねて、その間に「ういっす」と前方から一人のメンバーが入ってきたので、慎吾に言い返す機を失った。
「ミヤタケ、これ逆王者への賞品だって」
人懐こい笑みが素顔のようなその茶髪のメンバーは言ってモアイ似に右手に持っていた掌サイズの箱を手渡した。モアイ似はそれを両手で持って頭上に掲げた。
「これだけか!」
「これだけ。要らないなら返してもらうけど」
「要らないのは同情だけですはい」
掲げた箱をダウンジャケットのポケットにモアイ似が強引にねじ込んだ。笑顔のメンバーはそれを見てから中里を向き、左手に持っていた両手分サイズの紙袋を差し出してきた。
「で、これは俺から毅さんにってことで」
流れに乗れず中里は、その濃いピンクの紙袋に目を落とし、常時喜色満面状態の男を見て、聞いた。
「何だこりゃ」
「チョコっす」
チョコレートの個数を争う会が開かれていたのだから、この場にチョコレートがあるのはおかしくもないので、チョコか、と中里はとりあえず言った。しかしなぜこのメンバーに渡されそうになっているかは分からなかった。
「はい」、目の前の茶髪は、あくまでも人懐こい笑顔を浮かべている。「俺の本命は、毅さんですから」
紙袋に手をかけた状態で中里は動きを止め、しかしすぐに再開させた。チームに入って二年は経つこのメンバーは、冗談を言いっぱなしで処理しない体質だ。会って間もない頃、真意を測りかねて後から確かめてみたことがあるが、今と同じ他意のなさそうな笑顔でもって、「そんなの冗談に決まってるじゃないっすかー」と思いきり背中を叩かれた。以来この笑顔の男の言うことを、中里は深く考えないことにしている。
「そうか、まあ、ありがとよ」
一応礼を言って紙袋を受け取ると、いえいえ、と笑いながら首を振ったメンバーが、あ、と思い出したようにえくぼを深めた。
「ホワイトデーのお返しは毅さんのナビで上り下りの全力アタックを体感する権利とかが嬉しいですけど、ぶっちゃけ毅さん本体でもオッケーっす」
何がぶっちゃけでどれが本体でどのようにオッケーなのかは知れないが、それについて知らずともおっ死ぬわけでもないとは知れる。隣に乗りたきゃいつでも言えよ、と中里が言うと、ういっす、とにっこり笑ったメンバーは、それじゃと元いた方へと去っていった。
「さすがチャンプ、貫禄あるねえ」
その後姿を腕を組んで見やりながら同期の男が感心と揶揄が半々の調子で言い、「チャンプ?」、意味を解せず中里が聞き返すと、
「藤井なんスよ、一番チョコ貰ってたのが」、ニット帽が目を細めて補足してきた。「確か百十二個とか」
百十二個、と中里は一度呟き、百十二個の女の子からのチョコレートを想像しようとして三秒で挫折して、「百十二個ォ?」、と声を裏返していた。
「あと一個少なかったらぞろ目だったのに、って悔しがってたよな」
「その一個お前に回ったんじゃねえの、ミヤ」
「マジか!?」
「さあ」
他の面々が話す間に中里は再度百十二個のチョコレートの想像に挑み、十秒で目眩がしてきたので止めて、ひとまず渡された紙袋に目を落とした。中には紙袋と同等の大きさの薄い箱が三個入っている。どれも包装は黒を基調としたものだ。手に取ってみようとしたところで、
「良かったじゃねえか、三個も貰えてよ」
突然耳元で粘っこさと滑らかさの入り混じった声がした。驚き横を向けば、慎吾が人の手元を覗き込んでいる。勝手に見られるのは気に食わないが、隠すほどのことでもない。チョコレート自体はあれば食べるし、メンバーから貰えたということは少なくとも存在を忘れられてはいなかったということでもあるから、良かったと言えないことでもない。まあな、と中里が少し胸を張ると、慎吾は鼻で笑った。
「まあこりゃどう見ても、藤井が貰った義理チョコの流用だけどな」
これはどう聞いても嘲弄であり、無視するのが一番だ。中里は知らん顔を努めて箱の一つを紙袋から半分出し、不意に閃いた。これが寄越してきた人間が自ら買った品ではなく、女の子から貰ったチョコレートだとしたら、その構図を適当に省略すれば、
「俺が女の子からこれを貰ったということに……!」
「ならねえよ」
心の叫びが外に漏れていたようで、慎吾が素早く言葉を被せてきた。無視もできなくなってきて、ろくに見もせず箱を紙袋に戻してから、中里は慎吾を睨んだ。
「いちいちうるせえ奴だなお前は、もう少しその口閉じて大人しくしてろ」
「いちいちやること全部に無駄な動きをつけやがる奴が、何偉そうなこと言ってんだ」
「何で俺がわざわざそんな、無駄な動きをつけなきゃなんねえんだよ」
「素でそうやってんのに存在感が薄いってことは、無駄以外の何でもねえだろ」
本日思い知らされた痛いところを直接突かれ言葉に詰まる。歯噛みをしながら慎吾を一層睨んでみるも糠に釘だ。慎吾は余裕綽々の苦笑とともに外人風に肩をすくめてあからさまなため息を吐いてくる。それを見た他の三人がなぜか揃って噴き出したため、またしても中里は慎吾に言い返す機を失った。
「何笑ってんだてめえらは」
矛先を三人に変えれば一旦ぴたりと笑いは止んだが、数秒後には爆笑として復活した。ここまで笑われる覚えはない。覚えはないが、抱腹絶倒中にも関わらず意味深長に笑いかけてくる同期を見ると、この無礼な態度の糾弾のために事を掘り下げるのはこちらに不利な状況を招くのではないかと思えるもので、「もういい勝手にしろ」、と中里は攻撃的撤退を選んだ。
「俺は行くぜ。ここの最速が誰なのか忘れやがってる野郎どもに、一から教え込んでやる」
「まあ頑張れよ」、口先だけで言った慎吾が、片頬を上げた刺々しい笑みを向けてきた。「お前のその楽しい妄想に付き合えるほど暇な野郎はここには一人もいねえだろうけど、応援してるぜ、心からな」
他の三人は慎吾の言葉で笑いを深め、中里は怒りを深めた。この生意気千万なクソガキには、いっそ一発拳をお見舞いしてやりたい。だが走り屋たるもの暴力はいけない。やるなら正々堂々バトルで勝負だ。しかしバトルはやろうと思えばいつでもできる。今は今まで言い返せなかった分を今すぐ生身の状態で完済してしまいたいのだ。中里は怒りを爆発させないために出せない拳を握り締め、掌に食い込んだ紐に気付き、自分が今持っているものを思い出し、その活用法を思いついた。
「慎吾」
「あ?」
慎吾は人を既に行ったものとして半身になり、煙草を咥えかけていた。
「何だお前」、鬱陶しそうな口調で言う。「行くっつったらさっさと行けよ、自分の言ったことも守れねえようじゃあ……」
その御託を最後まで聞かずに中里は、紙袋の中の箱を一つ掴み出し、慎吾の胸に押し付けた。
「投資だ」
「……はあ?」
「お返しは」
箱は放して、顔を寄せる。
「俺を唸らせるような走りでいいぜ」
凄みを利かせて言ってやり、冗談めかして笑ってから距離を取る。眼前の慎吾は胸に箱を持ちながら、呆気に取られたように目も口も開いた頓狂な顔になっていた。何とも痛快な間抜け面であるが、じっと見ていて代わり映えのするものでもない。何か進むものでもない。
「じゃあな」
何だか居た堪れないものではあったので、中里は四人に別れの言葉を吐いて、踵を返した。直後後方で発生した爆笑を聞きながら32に歩いていると、つられておかしくなってくる。あの慎吾の驚きっぷりは傑作だった。チョコレートを貰わない主義を男である自分にへし折られるとは予想もしていなかったのだろう。元が流用チョコであっても女の子から貰ったことにはならないと否定してきたのは慎吾だし、これで逐一人を愚弄するのにも少しは懲りたに違いない。しかしあの負けず嫌いのことだから、近々全力でお返ししてくるはずだ。その時までに、妙義ナイトキッズの中里毅とR32の速さというものを忘れかけている面々にはそれを今一度知らしめてやらねばならない。限られた頂点を実力で競うからこそ決戦とは盛り上がるのだ。立場も誇りも命もすべて、ただ一人の相手のために懸けたくなるのだ。
「よっしゃ」
手始めに道を割って開くため気合を入れて運転席に乗り込んだ中里は、手持ちの紙袋を車内のどこに据え置くべきかという現実に直面し、それについては思索した。
(終)
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