狂宴以上饗宴未満
体が重かった。錘をつけられているようだ。ともすればおぼれそうになる。だがおぼれない。水の中ではなかった。陸の上だ。というか、ベッドの上だ。そう認識できるくらいには中里の頭は働いていた。とりあえず起きなけりゃどうにもならねえ、と思うことができるくらいには、意識は正常だった。
軋む関節を無理矢理動かして上半身を起こす。部屋はそう明るくもないが暗くもない。体のそこかしこが痛いので、どこが痛いのかはっきりしない。喉はからからだ。疑いようのない二日酔いだった。ベッドの下を見ると、床に布団が敷いてあり、そこに男が一人寝ていた。誰かは分かる。慎吾だ。昨日ほろ酔い加減で家にやって来た。缶ビールを1ダース担いでだ。スロットで当てたと言った。その土産を飲んでいるうちに、今になった。記憶はそれしかない。
中里はとりあえずベッドの上で伸びをして、肩や腕や足の関節を適当にほぐしてから、床におりて電気をつけ台所に行き、水を飲んだ。ついでに顔も洗って、面倒なのでシャツで拭き、部屋に戻ると、布団に寝ていた慎吾が起きていた。下着姿で、寝起きそのままの顔をしわくちゃにしている。その顔を見て、「うわ」、と中里は驚き半歩後退っていた。
「……あ?」
顔に作ったしわを軽くして不可解そうな声を上げた慎吾は、途端、「いって」、と頬を手で押さえ、「いってえ」とまた呻いた。それもそのはず、慎吾の右頬はまばらに青黒くなっていた。
「おい、どうしたその顔」
「どうしてる、俺の顔は」
「あざできてるぞ、右。こっち側。いやそっちだ」
「痛えな、クソ。覚えてねえよ。お前殴ったんじゃねえのか」
「俺じゃ、いや、俺かもしれねえけど、俺も覚えてねえ」
飲んでからの記憶がどこかに飛んでいた。もしかしたら殴ったのかもしれない。慎吾がわざわざ自分で自分の頬を殴るとも思えない。だが何せ記憶がないので確かなことは言えなかった。
「俺もお前も覚えてねえんじゃどうしようもねえな、ったく。今何時だ」
「何時だ」
「俺が聞いてんだろ」
言って慎吾はあくびをした。殴ったか殴っていないかは不問にするらしい。中里はテレビの上の置時計を見た。この明るさで朝ということはないだろう。
「四時半」
「昨日、飲んだの、十時くらいか」
「……だったような、気もする」
そもそもそれが昨日であるかも定かではなかった。記憶が曖昧だ。部屋の隅に寄せたテーブルの上の携帯電話を手に取る。開いて確認した。昨日は昨日だった。そして今日は、
「待て、おい、何時からだ」
「何が」
「飲み会。斉野の家の」
「五時だろ。日が暮れる前に始めるっつってやがったから……」
頭をボリボリかきながら億劫げに言っていた慎吾は、そこで言葉を止めた。中里は携帯電話を持って立っていた。慎吾が中里を向いた。相変わらず寝起きそのままの顔である。右頬には青あざ。
「遅刻五分で五千円か?」
「……行くぞ!」
中里は叫んでいた。だが立ったままでいた。一方慎吾は中里が叫ぶ前から立ち上がり、あくびをしながら歩いた。中里は慌ててその後を追った。
「おい、お前、どこ行くんだ」
「便所。ついてくんなよ、便所ごとき」
「そんな悠長なこと言ってんじゃねえよ、慎吾」
「俺、着替えっからよ、お前車あっためとけ。鍵はかけとく」
言うなり慎吾は便所の戸を閉めた。それから間もなく放尿の音がし出した。慎吾は下着姿だった。中里は服を着ている。ジーンズにシャツ。なぜ外出着のまま寝ていたのかは思い出せないが、時間を考えれば具合が良い。遅刻五分で五千円が恒例の決まりだ。十分なら一万円。飲み会開催地の斉野の家まで急がねばならなかった。
中里はその場で髪を何度かかきあげながら、手に持ったままの携帯電話をジーンズのポケットに入れて、壁にかけてあるブルゾンを着た。それから携帯電話をジーンズのポケットからブルゾンに移し、今度はジーンズの前ポケットに入れて、意味もなく部屋を見渡してから、テーブルの上の財布と車の鍵を取った。そこで動きを止めた。
テーブルの上には酒の缶が散乱している。始末は後だ。その酒の缶の中に一台デジタルビデオカメラがある。必要な時は車に積む。必要ではない時にはケースに入れて棚にしまっておく。それがここにある。使ったということだ。中里はビデオカメラを持ち、データを呼び出した。液晶モニタに動画が表示される。慎吾が写っていた。かなり酔っていることが分かる。慎吾がへらへら笑うのはかなり酔った時だけだ。
「何やってんだ」
音量を上げようとしたところで、不愉快そうな声が後ろからした。中里は振り向いた。慎吾が立っている。
「昨日、俺、これ使ったか?」
「覚えてねえよ。使ったんじゃねえの。それより車に行けっつったじゃねえか。遅刻しても俺、金出さねえぞ」
人の家でも遠慮なく慎吾は動く。堂々たるものである。中里はビデオカメラの電源を切って、記録メディアを抜き取りブルゾンのポケットに入れた。おそらく撮影者は自分で、あの後にでも慎吾を殴ったのだろう。そんな動画なら暇つぶしくらいにはなるはずだ。つまらなかったら見るのをやめればいい。走行中の動画は既に提出したので罰金一万円は回避されている。これは単なる遊び心の表れだった。
◇ ◆ ◇
一年の紆余曲折喜怒哀楽を、酒で洗い流すために奔走すること脱兎の勢いたる時期である年の瀬、妙義山を勝手に根城にしている走り屋チーム妙義ナイトキッズでは例年三つ忘年会が行われる。
一つは居酒屋にてほとんどのメンバーが揃ってのねぎらい合いと二次会三次会無制限馬鹿騒ぎ。一つは都合のつくメンバーだけが集まって開くアルコール耐久選手権。一つは主要メンバーが集まってのチームの前途考察会および車にまつわる動画の鑑賞会という名のアルコールに漬かる会だ。
慎吾は今年ナイトキッズに入ったので、チームの恒例行事など一つも知らなかった。忘年会もだ。三回も年忘れてんじゃねえよ酒好きどもが、と思わないでもないが、ほとんどのメンバーが揃う飲み会以外は希望制だ。趣旨で分けられており効率的とも言える。
時間と金の都合がついたので、半強制的である無制限馬鹿騒ぎに続いてアルコール耐久選手権にも慎吾は参加した。ただし選手としてではない。ナイトキッズにはザルが多かった。多すぎた。そんな奴らに飲み比べを挑んでも敵わないことはこれまでの飲み会でよく分かっている。出自の知れない優勝賞品もあるが命の方が惜しい。会はさすがにチームの酒豪が集まっただけ見ごたえのあるものだった。アルコール耐久選手権は忘年会というより格闘技さながらの熱い戦いで、優勝した奴はそれでもあまり酔っていなかった。つくづく走りだけで構成されているチームではないと感じられたが、それでいいのかお前らとも思った。
その後に開かれる主要メンバーが集まってのアルコールに漬かる会は、貴重な車関連の動画も見られるが人生相談会の様相もあるという前評判があったので、出る気はなかった。愚痴り合いは鬱陶しい。しかし慎吾の気を一変させる要素がそこにはあった。主要メンバーが集まる会には毎年中里が参加していた。今年も参加するという。あれが一番気楽なんだと中里は言った。楽しそうな顔でだ。そんな風に言われて出ないわけにもいかない。酒が入るなら尚更だ。中里は下戸ではないが、自分の限界を見極められていない。限界を越えると暴走する。言っていることが支離滅裂になったり笑い転げたりするのはまだいい。誰彼構わず甘え始めたりすることがいけない。中里は野暮ったい男だ。顔の輪郭は硬く眉が太い。そんなむさ苦しい男に甘えられて嬉しい男は普通いない。まず引くだろう。だがナイトキッズに集まる男は普通ではない。中里をアイドルを見るような目で見ている美的感覚が狂っている男もいれば、気持ち悪いものを面白がっていじり倒す男もいる。そんな奴らの中に中里を放置するのは許しがたい。だが主要メンバーが集まっての恒例行事というなら無理矢理止められるものではない。よって慎吾も誘われるままにそれに参加することにした。
実態は前評判通り各個人の赤裸々な生活が暴露されたが、湿っぽさのカケラもない、誰がどれだけ苦しんでいようが笑うしかしない奴らの集まる異様な会だった。開催地は個人の家だ。一軒屋。チームに斉野という男がいる。自称二十代後半で金持ちの祖父母に溺愛され財産をほぼ譲渡されたという。それで株をやり家を建て一年の半分は遊んで暮らしている。半分は他の都市に出稼ぎに行ってるらしいが詳しいことは誰も知らない。借金の塊だという者もいる。知識も実力もありチームに長くいる。フォード愛好者だ。頭の大事なネジを五本ほどどこかに落としているような男だった。それでも気は利くので煙たがられてはいない。用意された料理も酒もうまかった。ただやはりどこかイッている男だった。例え恋愛相談人生相談が繰り広げられようとも、そういうイッてる男が幹事であり、そんなイッてる男とも普通に付き合える男が参加者という会が湿っぽくなる方が無理があるとも言えた。
何畳あるか知れないフローリングの居間だった。木製の塗装が剥げているテーブルと明らかにメーカーも製造年数も違う三人掛けのソファが二つある。部屋の片隅には薄型プラズマテレビ、それは下ろされたスクリーンに隠れて見えない。そこにプロジェクターにより各人の秘蔵の動画が映し出されていたが、それもあらかた出終わり、秘蔵の酒もあらかた飲み尽くされると、皆はでき上がり地球上には存在しないような言語で話す者も出だした。中里など延々と舟を漕いでいる。笑い転げるくらいで目立った暴走はなかった。部屋の照明は落とされているから寝やすい環境だ。このまま寝ていてくれればいい。この調子ではまた記憶をなくすだろうが問題はない。他の奴らとの楽しい記憶などむしろ消滅すればいい。
慎吾は飲みすぎで記憶をなくしたことがほとんどない。飲みすぎることがほとんどないのだ。自分の限界は分かっていた。分かっていても度を越してしまうことがある。気分が良い時だ。昨日は小遣い稼ぎの目的だったスロットで小遣いと家賃を稼いでしまった。酒を飲みながらタクシーで中里の家に乗りつけたのは思いつきだ。幸運をおすそ分けしてやりたかった。見せびらかしたかった。会いたくなった。だから1ダース分の缶ビールを持って会いに行った。気分が良かった。飲みすぎた。記憶をなくした。だが頬の青あざが中里が殴ってきたためだということは可能性が高いと思う。そして中里に殴られたということは、おそらくやることはやっていない。酔いすぎると慎吾は投げやりになるのだった。殴られてまでやろうとするとは自分で考えられなかった。それにやっているなら中里が少しはどこかしら痛がっているはずだ。これだけピンピンしていてがっつりいただいたということもあるまい。
ワインなんだかジュースなんだか分からないものを慎吾がジョッキで飲んでいると、舟を漕いでいた中里がはっと顔を上げ、頭を振り、カーペットの上でほふく前進をし始めた。夢でも見てるのかと思えば、着てきたブルゾンに辿りつき、ポケットを探り、ゆらりと立ち上がる。
「俺、コケるのに五十バレル」
「じゃあ俺途中で何しようとしたのか忘れんのに五十セント」
などと床に座って隣で飲んでる二人が囁き合った。お前は、と装着しているメガネ以外にスタイリッシュさのない男が聞いてくる。赤いセーターが目に痛い。
「トイレ行くのに五十リラ」
慎吾は答えた。中里はよろよろとコケないまま、ソファに座り膝の上に置いたノートパソコンのキーを叩いている染めムラのない茶髪の元に行った。茶髪が気付いて顔を上げ、にやっと笑う。
「毅さん、俺に何すか。貢ぎますか。俺に」
「いや……これ、あれだ。何か入ってるから」
中里は茶髪に何かを渡した。茶髪がそれを変な顔で見た。
「何入ってんすか」
「多分、何か……撮ってある」
「毅さんが撮ったんすか?」
「覚えてねえんだ……けど、まあ、俺、多分、あいつ……ほら、あの……うん、あいつ、殴ってると思うから……まあ、それで、勘弁してくれ」
「いや、別に勘弁も何もねえっすけど」
「俺、トイレ」
茶髪から離れて、中里はよろけながら居間から出て行った。さっすが、とメガネが慎吾を見てくる。慎吾は肩をすくめてから茶髪を見た。茶髪は同じくソファに座っており氷をガリガリ噛み砕いている斉野に声をかけた。
「片言っすけど、大丈夫っすかねあれ」
「眠いだけだろ」
「トイレで寝そうじゃね?」
と言ったのは床に転がっている前衛芸術家的なくせっ毛とヒゲを持つ男だった。着ているシャツの破れっぷりも前衛芸術的だった。斉野は山篭りをしていたような顔に得意げなしわを浮かべて言った。
「うちのトイレは暖房完備だ、安心しろ愚民ども。カカカ」
「リアルで愚民とか言うのお前くらいだぜ、斉野クン」、と前衛芸術家風。
「毅の命は預かった! 俺の前でひれ伏せ貧乏人!」
立ち上がって斉野が叫ぶ。茶髪が前衛芸術家風に言った。
「酔いまくりっすか、斉野さん」
「いつもこうだろ、斉野クン。バカに金はやっちゃいけねえって見本だよな」
「そこ! くっちゃべってねえで毅の何かよく分からんブツをセットしろ! そして俺を崇めろ! 奉れ! おら、そこの三人もだらけてんじゃねえよ!」
うわこっちにまで飛び火した、とひねくれ者の坊主が大げさなリアクションを取る。慎吾は叫び返した。
「だらけてねえよ! てめえが氷食ってる間にこっちは人生の辛酸について語らってたんだ、金持ちが!」
「おう、俺は金持ちだ! 金さえあれば世の中どうとでもなるんだぜ、諸君! ははは! どうだ、羨ましいだろう! 妬め妬め!」
「いやお前妬むくらいなら俺東尋坊から飛び降りるよ」
メガネが笑いながら言う。何だと、と斉野が今にもメガネに飛んでかかっていきそうになった時、「映像出ますよ」、と茶髪が言った。
慎吾が映っている。カーペットの敷かれた床に座り、へらへらと笑っている。奥には台所が見える。明るい部屋だ。
『何撮ってんだよ、お前』
慎吾が言った。色の浅く抜かれた長い前髪が小さく揺れている。変わらずへらへらと笑っている。嫌らしい笑みだった。
『お前、あれだな、慎吾』
中里の声だった。姿はない。撮影者が中里だと思われた。
『どれだ』
『カメラ越しだとよ、お前、より一層、むかつく顔立ちだな』
しみじみとした物言いだった。その場で笑わない奴はいなかった。慎吾ですら苦笑せざるを得なかった。中里の言い分はもっともだった。映像の慎吾は確かにむかつく顔立ちであった。
『そりゃ、お前の主観だろ、毅』
『お前もこれ見りゃ、そう思うぜ。お前、むかつくよ』
『自分の顔でむかつくかよ、バカ』
『殴りたくなってくんぜ、これ。なあ、殴っていいか』
『ああ?』
画面が揺れ、脇から素早く伸びた手が慎吾の右頬に当たり、慎吾は床に倒れた。中里の笑い声がよく聞こえる。画面も揺れた。右頬を押さえた慎吾が起き上がる。笑っている。
『お前よ、マジで殴るかよ、ここで』
『おい、お前、あれだな、慎吾』
『だからどれだ』
『殴るのに、ピッタリの顔だぜ、お前。スカッとした。金、取れるんじゃねえか』
『殴られ屋かよ。嫌だね』
笑ったままの慎吾の手がカメラに伸びた。めまぐるしく絵が動き、中里が映った。真っ赤な顔に薄笑いを浮かべている。中里が今度は画面に手を伸ばしてきた。
『おい、返せよ』
『おお』
視点が高くなる。中里が追ってくる。ベッドにのぼっていた。
『この』
笑みを消して向かってくる中里を、カメラは避ける。中里はベッドに転がった。カメラから伸びる腕が仰向けにさせる。中里は笑っている。笑いすぎて息が苦しいようだった。
『慎吾、おい』
『人殴った挙句よォ、んな笑ってんじゃねえよ、毅ちゃん』
丁度馬乗りになって見下ろしたような映像だった。慎吾の声にも笑いが混じっている。中里はまだ笑っている。
『撮ってんじゃねえよ、お前』
『お前が先に撮ったんじゃねえか。撮るもんじゃねえだろこれ、酔っ払いなんか』
『お前、重いよ』
『お前よか軽いぜ、俺は』
中里は笑いの余韻を顔に残したままカメラを見ている。呆けのようだが正常な思考能力が窺える程度の締まりのある顔だった。しばらくかすかな呼吸音だけが続いた。
『お前、カメラ越しでもエロいな』
慎吾の声だった。中里はまたにやにやと笑った。
『何言ってんだァ、お前』
『いいぜ、これ』
画面の脇から現れた左手が、中里の耳に触れた。指が耳介をなぞっている。中里が笑みを消して眉間をわずかに強張らせた。
『ん』
小さな声が上がる。指が耳から顎を伝っていき、上唇から下唇をゆっくりと撫でていく。二回繰り返されると、中里が頭を振り、ぎこちなく笑った。
『やめろよ』
『いいだろ』
『くすぐってえよ』
『したくなるだろ』
『何』
『キス』
目を閉じた中里が、薄く笑ったまま曖昧に頷く。慎吾の低い笑い声がする。
『何だよ、それ』
『聞くなよ、お前』
『してえの、キス』
中里は薄く目を開きこちらを見る。笑みが消えている。目が再び閉じられた。代わりに口が開き、舌が覗いた。赤い舌が唇の上に乗る。喉が見える。映像が揺れた。中里の顔にカメラが近づき、接触寸前で避け、シーツが映った。ちゅ、という音がする。音が続いたまま、壁が映る。それから、くるりと回り、ベッドが映った。ベッドの上にカメラが置かれている位置だ。男が二人、上下になっている。下が中里で、上が慎吾だ。キスをしている。どう見ても濃厚だった。くちゅくちゅと下品な音が鳴っている。
慎吾は自分に突き刺さる視線を感じていた。動画では自分と中里が抱き合ってキスしている。罰ゲームや悪ふざけでは済まない親密な雰囲気がスクリーンから漂ってきている。室内が暗い分だけより淫猥に見える気がする。言い逃れはできそうにない。
「お、お前、これ、どういうことだ」
しばらく動画のディープキスの音と中里の小さい鼻にかかった声のみが場に流れていたが、そんな嫌な沈黙といえない沈黙を、ソファに座っていた茶髪が破った。誰もが聞きたいことに違いなかった。慎吾はその茶髪を睨んだ。
「何が」
「お前、何でお前が毅さんと、これ、キスしてんだよ。殴らる、殴れ、殴られただけじゃねえのか」
「記憶がねえ」
「記憶がねえのにキスするか! 毅さんと!」
「キスした記憶がねえんだよ! それに俺とあいつは付き合ってんだ、キスして何が悪いクソったれ!」
慎吾はそう喚いていた。きっかり五秒後、
「えええッ!?」
と、その場にいる慎吾以外の者すべての絶叫が響いた。途端、メガネと坊主と茶髪の三人が慎吾に押し寄せてきた。
「いつから!」
「どこから!」
「どこまでえ!」
三人とも信じられないように顔がゆがんでおり、目はぎらぎらと輝いている。アルコールに漬かりきった慎吾は、もうどうにでもなれという気分だった。
「うっせえうっせえ、何でんなことお前らに言わなきゃなんねえんだ」
「お前、毅さんだぞ!?」、と茶髪が叫んだ。「俺の、俺? いや俺らの? いや、ナイトキッズの毅さんじゃねえか!」
「何で毅がチームのもんなんだよ! っつーか俺と毅の個人的なことにチームが関係あるか、このVシネ顔が!」
「屁理屈言うな、バカァ!」
慎吾の首を絞めにかかった茶髪を、どうどうと他の二人が抑えた。その間も動画は流れていた。慎吾に押し寄せなかった四人のうち斉野と前衛芸術家風の二人は慎吾と三人のやり取りを見ながら笑っており、一人は舟を漕いでおり、残り一人は他に見るものもないのでとりあえず動画を見続けていた。キスの合間に慎吾も中里も服を脱いでいる。中里の服は慎吾が脱がせたと言える。そして中里の両手はタオルで括られていた。タオルはベッドの横のテーブルの上にあったようだった。そのタオルが中里のシャツでベッドのパイプに括られている。腕が戒められた状態になっていた。裸のままキスが続いている。
「っつーか、お前らいつからそういうことになってたんだ」
慎吾に押し寄せた三人のうちメガネがそう問うた。慎吾は絞められかけた首を撫でつつ答えた。
「あいつが沙雪にフラれてからだ」
「マジで?」
「その前からやってたけど」
「その前からって、仲悪かっただろお前と毅クン」
「エッチがイイかどうかは仲の悪さとは関係ねえだろうが」
言って膝の横に置いてあるグラスの酒を飲んだ。ウイスキーだ。ますます投げやりな気分になってくる。聞いてきたメガネは微妙な顔になってそういうもんかねと首を傾げた。
「えー……ちょっと待てよ。何、お前、何つーか……どっちもどっちでやってんの?」
ひねくれ坊主が聞いてくる。ひねくれ者がこれほど曖昧な言い方をするということは、よほど衝撃的だったと推測できるが、この坊主の心臓にどれだけ負担がかかろうが慎吾には関係ないので、聞かれているであろうことだけに答えた。
「見りゃ分かるだろ。俺があいつに入れるだけだ」
「入れるって、貴様のその短小包茎を毅さんのお尻にか! このごく潰しが!」
聞いてきた坊主ではなく、首を絞めにかかってきた茶髪が叫んだ。慎吾は叫び返した。
「包茎だけど短小じゃねえのなら入れてるよ! 大体俺はごく潰しでもねえ!」
「何てこった! この狼藉者め! 俺が成敗してくれるわ!」
今度は慎吾に飛びかかろうとした茶髪を、坊主とメガネがどうどうと押し潰して抑えた。それを見ていた奴らのけたたましい笑い声が上がり、消え、そこで一時的に場の声が静まった。背景に流れている音は際立った。
『あっ、ん……』
抑え気味の、それでも耳に残る中里の声が響いた。大概皆微妙な気分で目をスクリーンに向けた。布に括られている腕、恍惚に緩んでいる中里の顔から筋肉が締まっている腹までが映っている。陰毛は見切れていた。画面の脇から伸びた右手が中里の右胸にかかっている。乳首を指でもてあそんでいる。
『気持ちいい?』
『ん……』
『乳首だけで、エロい声出るようになったよな、よく』
中里が目をつむったまま笑みを浮かべる。羞恥を紛らわすための引きつった笑みだった。笑いながら快感に曇った声を上げている。
何を親父くせえこと言ってんだ俺は、と慎吾は思った。この時はとことん酔っていた。何をやっていたのかまだ思い出せない。このまま見るのは恐ろしい。だがこの中里を見ないという手もない。酒で理性が緩んでいる。このまま見続けていたい。
「っつーかこれお前、やったのか?」
触れたくはなさそうだが好奇心を抑えられないといった様子で、茶髪を押し潰したままのメガネが横から聞いてきた。声を出している間だけ慎吾に目をやり、後はスクリーンだ。慎吾はメガネを一瞥するだけだった。後はスクリーンだ。
「だから記憶がねえんだよ。あいつも覚えてなかったし。じゃなけりゃこんなもんここで流すか、もったいねえ」
「それ、もったいねえとかいう話なのか」
「とかいう話だ」
「ならよ、これ、止めなくていいのかよ、慎吾クン」
「俺はやらねえ。めんどくせえ。止めたきゃ止めてえ奴が止めろ。データは寄越せ。俺が永久に保存する」
動画を止めようとする人間はいなかった。このまま進めば慎吾と中里の性交を見る結果になることは十分考えられる。今でも性交のようなものだ。キスをして体を触っている。男同士で性的に戯れている。言ってしまえばホモビデオだ。しかも同じ走り屋チームのメンバー同士の性行為である。それが大スクリーンに映ることを止めようとする男がいないというのは、通常では考えられない。皆アルコールに理性を奪われかけているのだ。一人は既に睡魔に意識を奪われている。中里がトイレから戻ってくる気配はない。動画を止める者はいなかった。
スクリーン上の中里は身をくねり、媚びるような笑みを浮かべている。峠でRがどうの自分の存在の偉大さがどうのと吠えている男が見せたことのない類の笑みだった。画面の脇から伸びている手は中里の左胸の乳首を淫猥に責めている。中里は笑ったまま、かすれた声を発する。
『慎吾』
『何』
『……なあ』
『何だよ』
『なあ』
『何だ』
『電気、消してくれよ』
『それじゃ撮れねえだろ、ちゃんと』
『撮んじゃねえって……』
『いいじゃん、お前、すげえエロいし』
『バカ野郎』
恋人同士特有の甘ったるい空気がスクリーンから流れ出てきている。むせそうなほどだ。慎吾は記憶を探りながらそれを見ていた。何となくだが思い出せてきた。このあとは確か、覆いかぶさり、股間を中里の尻に押しつけながら、右耳を舌でいじってやりながら、聞いたはずだ。
『欲しい?』
この時の中里の顔は見なかった。耳と髪しか見えなかった。カメラは捉えていた。眉根を寄せ、開いた口から物欲しげに舌を見せている中里が明瞭に映っている。小さい声を上げながら、中里は時折カメラを見、恥ずかしげに目をつむる。
『ああ……』
『俺に入れて欲しい?』
『うん……慎吾ォ……』
甘ったれた声だった。峠で出したらからかいの的にしかならない声だ。権威など一瞬にして失墜する。軽く酔っているだけの時でも、普段の性交時でも出さない中里の声だった。カメラを握っている自分が笑った。
『やらしい奴だなァ、おい』
中里の顔の斜めでのアップから、俯瞰に戻る。執拗に乳首をいじっていた指が中里の下唇を撫でる。中里は薄く目を開いたまま、薄く口を開く。人差し指と中指と薬指の三本がその口の中に入る。口内をかき回す音が立つ。中里はうっとりしているように薄く目を開いたままだ。時に口を荒らす指を舐め、吸っている。擬似的な口腔性交のように肉感的な行為だった。中里の顔には情欲が満ちていた。指が抜かれる時には物足りないような色さえ浮かべていた。
誰も声を発さずにその映像を見ていた。ある者は既に寝ており、ある者はくだらねえと笑っており、ある者は己の一物の位置を調節していた。場には動画に付随する音と衣擦れの音が立つだけだった。慎吾は記憶と動画の一致を試みていた。中里の唾液で濡らした指を、尻に持っていった。中里の股間から顔へと舐め上げるようにカメラ位置が移動する。中里の足は十分に開いていた。垂れている容積の小さいペニスも陰嚢も肛門も光の下で露わになっていた。グロテスクだ。客観的に考えれば罰ゲームの鑑賞物として相応しい。罰ゲームなど今は行われていない。それでも誰も動画を見るのをやめようとする者がいない。
『足開けよ』
慎吾がそう言うと、立てた膝を中里がより開き、尻を浮かせた。画面の下から出ている右手の中指が、中里の肛門の周囲を押す。収縮し、弛緩する様子が鮮明だった。やがて指が半ばまで肛門に入る。中里が甘い声を漏らす。指が動く。じっくりと中の具合を確かめるような動きだった。
『やッ、あッ』
艶かしい中里の声が上がる。開いた足が震えている。戒められた腕をよじっている。指が動くごとにペニスが大きくなっていく。人差し指が追加されても勃起したままだった。
『元気だな』
『あっ……、や、あ……ん、んん……』
尻が動いている。足は開いたままだ。荒い息づかいだった。中里のものと慎吾のものだ。ペニスの上の腹が膨れてはへこむ。中里がカメラを見た。泣きそうな顔だ。
『慎吾……イく……もう、イきそう』
『我慢しろよ、俺入れるまで』
『やだ……無理……』
『無理じゃねえだろ、毅ちゃん』
『ひっ』
肛門から指が抜かれ、カメラが動く。ペニス、腹、胸をなぞり、中里の顔が大きく映る。画面の下から別のペニスが現れる。それが中里の唇に触れた。
『ほら。欲しいだろ』
『うん……』
『勃たねえと、入れられねえし、な』
手にも垂れた萎えているペニスの先端が中里の頬から口を撫でる。中里がカメラを薄目で見たまま口を開いた。舌でペニスの先端を舐め上げる。そして口内にペニスを招く。手が戒められているので口しか使えない。本物の口腔性交が始まった。寝ている状態のまま中里は必死に頭を動かし口を動かし舌を動かしている。舐めて吸い擦っている。顔は赤い。陰毛が中里の顔にかかっている。粘液のかき回される音が立っている。
「よおおし!」
と、突然大声が場に響いた。茶髪が立ち上がっていた。
「俺、トイレ行って抜いてきます!」
右手を上げて威勢良く宣言した茶髪は、走って居間から飛び出した。動画の口淫の音が響く中、たまらぬように斉野が笑った。
「はっはっは、コー君も一線越えちまったなあ、おい」
「庄司に続いてホモロード一直線か。前途有望だな」
ずっとスクリーンを見ていた短髪の酒豪がにやにやしながら言う。慎吾は酒豪を殺意をこめて睨みつけた。
「誰がホモだ、誰が」
「ホモだろ、中ちゃんとこんなことやっちまっててよお、ひゃははっ」
「そりゃこいつがエロいからだ。俺のせいじゃねえ」
スクリーンを指差しながら慎吾は言った。動画の口腔性交はまだ続いている。斉野と酒豪とメガネと坊主は笑い、前衛芸術家風は笑わなかった。
「っていうかさ、慎吾、お前いつから毅にこんなことしてるわけよ」
真面目な口調だ。酔うとこの男は感情の抑揚がなくなるタイプだった。慎吾は酒豪を睨んだまま前衛芸術家風の疑問に答えた。
「七月五日から」
「何でそんなにはっきり覚えてんだよ!」、と坊主が哄笑する。慎吾は酒豪を睨んだまま坊主を叩いた。
「あいつが俺に文句つけてきやがった。だから犯した。悪いかコラ」
「悪いよ! 普通そんなことしねーよ! 何だよお前! きめえよ!」
叩かれてもなお坊主は哄笑し、きめえきめえ、と皆げらげら笑った。慎吾は立ち上がってスクリーンを指差しながら叫んだ。
「俺がきめえならその俺にやられてよがったこいつもきめえってことだぞ! どうだ!」
「なーにがどーだだァ、おい!」
斉野が笑う。あ、と前衛芸術家風がそこで声を上げた。
「っつーかトイレって今、毅じゃねえの?」
無論中里がトイレであるという発言ではなかった。トイレに中里がいるということだ。その通りのはずだった。皆黙った。するとタイミング良く、どたどたと床を駆ける音が近づいてきて、茶髪が戻ってきた。ジーンズの前が開いている。
「すんません、トイレで毅さんが寝てるんですけど、顔射していいんでしょうか」
「していいわけねえだろーがァ!」
茶髪の深刻そうな問いに慎吾が答えて殴りかかろうとしたのを、坊主とメガネがどうどうと抑えた。斉野が爆笑しながら続きを答えた。
「お前、風呂場使え風呂場。お湯出るし、洗っときゃいいから。顔射はすんなよ」
「わっかりましたー」
茶髪は慎吾など目にも入らぬ様子でまた居間から消えた。慎吾は坊主とメガネを振り払って、その場にあぐらをかいた。遅れて座ったメガネがにやにやしたまま言ってくる。
「マジに取んなよ、慎吾クン。ありゃジョークだジョーク」
「あいつ、戻ってくるのに時間かかったろ」
「あ?」
「ありゃ寝てる毅見ながらやるかやらねえか考えてたに違いねえ。チャック下ろしたままだったし。俺だって顔射したことねえんだぞ、チクショウ」
そう言ってグラスを煽った。ウイスキーはもうなかった。残った氷を口に入れて噛み砕く。メガネは坊主に言った。
「顔射ってロマンか?」
「シチュエーションだろ、問題は。お、フェラチオ終わった」
動画では中里の口から充血しているペニスが抜かれていた。粘液的な光沢がペニスにも中里の口の周囲にもある。そのまま絵は引いていく。括られている中里の腕の半ばから足の半ばまで収まったところで止まる。下から伸びた片手が中里の膝を胸まで押し上げてその間に撮影者の体が入り込む。膝を押した手が撮影者のペニスを掴み中里の肛門に先端を押し当てた。
『じっくり見んの初めてだな』
独り言のようだった。少しずつペニスは肛門に押し込まれていく。呑み込まれていく。肛門の周囲のしわが伸びきっている。画面に入り込んでいる大腿の裏が痙攣している。スクリーンで見ると迫力が違う。本来こんな大画面で見るものではない。そのせいか記憶は戻ってきているが慎吾には自分が撮ったものだと思えなくなってきている。尻にペニスを咥えて喘ぎ始めた中里が、段々自分ではなく他の誰かに犯されているように見えてくる。嫉妬で腹が熱くなる。同時に倒錯的な興奮が背筋をしびれさせる。電気が走っているように身を震わせている中里が自分の名を呼ぶのを見るたびに、この相手が自分であることを実感するよりも、この相手に対する嫉妬心が増幅していく。それが自分であっても今の自分ではない。認識が狂ってきていた。中里はカメラをちらちら見ながら相変わらず甘ったるい声を上げている。
『んっ、ん……あ……慎吾、いいっ……』
『いい? 気持ちいい?』
『気持ちい、いい、すごい……』
『イきたい?』
『イきたい……』
頷いた中里の顔をおさめた映像が奥に動いた。中里の腕に絡んでいる布が映り、不安定に絵が揺れる。布が解かれタオルも解かれ、再び元の中里を見下ろす絵に戻る。画面の脇から伸びる手が中里の手を掴み、勃起しているそのペニスを握らせる。
『ほら、イけよ』
その声と同時に中里の肛門に入れられているペニスが動く。甲高い声を中里が上げる。ペニスに絡んだ手が動く。上下に強く擦っている。肉が肉に当たる音と粘液の擦られる音の上に荒い呼吸音が大きく被さっている。中里の声が時折それを上回る。
『あっ、あ、あ……や、もう、イく、イくッ……』
やがて擦られていたペニスから精液が飛び出し、中里は大きく喘いだ。途端に画面が引く。中里の全身が映ったのちにカーペットが映り、画面が揺れ続ける。やがて別の男の下半身とベッドが映る。男の下半身がベッドに向かう。足を開いたまま仰向けになっている中里に男が乗る。慎吾だ。性交が再開される。
「ああ、スッキリした」
茶髪が戻ってきて、うわ、と驚いた。
「何、始まってんすかもう」
「始まったっつーか、一回終わってんのかこれ」
メガネが首を傾げる。斉野と酒豪が笑う。慎吾は何も言わなかった。
「何すかそれ。ああ、惜しいことした」
「いや、お前はナイスタイミングだ」
立ち上がったひねくれ坊主が立ったままでいる茶髪の肩に手を置いて言った。
「よっしゃ、もームリだ。俺もちょっくらホモロードに行ってくる」
「お前もかよ」、とメガネがぎょっとする。俺もだ、と坊主が振り向き右手で拳銃を真似た。
「お前ら気をつけろ、落とし穴はすぐそこにあるぜ。あばよ!」
射撃の真似をして、一人満足そうに笑いながら坊主が居間から消えた。
「全然カッコついてねえぞ、お前!」
その背にメガネが叫んで、一人で笑った。斉野と酒豪は変わらずげらげら笑っている。慎吾はとうにスクリーンを見ていた。正常位で自分が中里を責めている。射精に向かっている動きだ。一体感は覚えられない。他人に見える。胸糞は悪いが勃起はする。
「おい、何真剣に見てんだよ、庄司」
ソファの足にもたれている酒豪が、イカれ気味に笑いながら言ってきた。
「お前よ、こんなもん、中ちゃんと毎日実際こんなことやってんだろ、うひゃひゃ」
「毎日やるかボケ」、と慎吾は酒豪を一瞥して言った。「っつーか、こんなことはやってねえ。初めて見た。いっつもこいつ、こんな素直じゃねえし。まあそっちの方が俺は好きだけど」
「普通にノロけてんじゃねえよボケ、犯してるくせに」
「こいつは俺が好きだからいいんだよ」
「だからノロけんじゃねえっての、キショイ奴だな。俺が中ちゃん犯すぞ」
「犯してみろ、てめえの家燃やしてやる」
「割合わねえっつの、お前それ、十回くらいやんねえとよ」
酒豪が言っておかしそうに笑う。その慎吾と酒豪の会話中ずっと笑い続けていた斉野が、あれだ、と突然言った。
「どうせこんだけ毅がスキモノなら、共有すりゃいいんだよ、俺らで。毅を。そしたらお前、よりどりみどりだぜ、毅も。どんな東京タワーも通天閣も選び放題、ハッピー淫乱ホモチームの完成だ、はっはっは。すげえな俺らのナイトキッズ、前代未聞の大盤振る舞いだ!」
斉野は最終的に立ち上がり手を広げながら叫んだ。慎吾も立ち上がり、斉野を指差しながら叫んだ。
「てめえのその言語感覚どうにかしねえとこの家から車まで全部燃やすぞ、斉野ォ!」
「燃してみい燃してみい! 俺がお前めった刺しにしてやっから! 俺寝るし!」
手を広げたまま斉野が言った。え、と前衛芸術家風が斉野を見上げる。
「寝んの、斉野クン」
「うん、俺明日から福岡行くの。ごめんね」
「福岡て、何すかそれェ」、と茶髪が妙な声を出す。
「人妻と逃避行だぜ、はっはっは。まあお前ら、後はご自由に。いい夢見ろよ!」
言うなり斉野は既に小さくいびきをかいている男を引きずり隣の部屋に引っ込んだ。布団が敷かれてあり、戸を閉めれば音は聞こえにくくなる。動画では既に慎吾が射精していた。抱き合いながらキスしている。
酒豪が言った。
「柳沢ブームか?」
「慎吾だからだろ。俺も寝るかな、明日残業確実だし」
前衛芸術家風は言い、もぞもぞと動き、隣の部屋に引っ込んだ。三人がいなくなり、居間には慎吾と酒豪とメガネと茶髪のみとなった。動画はまだ続いている。再び中里を見下ろす形になっていた。今度は後背位で、中里の締まった尻に後ろからペニスが出入りしている。首はタオルで括られている。端を撮影者が持ってたまに引っ張っている。中里の切れ切れの嬌声が流れてくる。
「お前さ、マニアックすぎじゃね?」
酒豪がにやにやしながら言う。慎吾は床に座り直してため息を吐いた。もう何もかも面倒だ。
「酔ってたんだよ。素面じゃやんねえ」
テーブルの上の誰かの煙草を適当に取り、咥えて火を点ける。メガネがワインをラッパ飲みしつつ言う。
「毅クンてさ、いっつもこんなんか」
「これがいっつもの奴と付き合うと思うかよ、俺が」
「っつーか毅クンと付き合うって思わねえよ、まず」
「そうだそうだ、俺の毅さんをどうしてくれる、お前は」
茶髪が口を挟んできた。煙を吐き出してから、慎吾は言った。
「お前の毅じゃねえだろ」
「俺のじゃねえけど、っつーか何でお前かなあ。俺の方が毅さんに優しくしてあげるのに」
茶髪がしみじみ言うと、今度は酒豪が口を挟んできた。
「お前コーちゃん、優しすぎんのもあれだぜ、こういう風に満足させてやれねえだろ、ひゃひゃっ」
酒豪が指差したスクリーンでは、絵が変わっていた。ベッドを前方から見ている。その中央に中里が座っている。開いた大股の下に別の男の足がある。背面座位だ。同時にペニスと乳首をなぶられている。かすれきった声を中里は上げている。
『やっ……しんご、しんご……あ、あ、イく、またイく、やだ、や……っ』
中里が悲鳴に近い声を上げて足をくねらせても、律動は止まらない。快感以外の何も含まれていないような中里の声が響き続ける。
「……まあ、確かにこれは……」
「だろ? 男にはよ、何つーかこう、アバンギャルドっつーかアルカイックっつーかセンセーショナルっつーかハードボイルドっつーか? 的なこう…………………………………………あ、俺も寝るわ、頭回んね。このままだと勃ちそうだし。あばよ!」
言って酒豪はひゃひゃっとどこか面倒そうに笑いながら、スクリーンの前を横切って隣の部屋へ移った。一人減ったところで、坊主が戻ってきた。うわ、と慌てたように座る。
「いつの間にこんな構図になってんだ。っつーかお前これAVかよ、えぐいよ」
「これさ、ソッチ系のやつに投稿したら金になんねえの?」
メガネが素朴に聞いてくる。慎吾は煙草を灰皿に捨てて言った。「知らねえよ、ソッチ系のやつの需要なんて」
「じゃあ俺にくれよ、千円出すから」、と坊主。
「あ、俺五千円出すよ五千円」、と茶髪。
「却下」
慎吾はその辺にある酒を取って誰のか分からぬグラスに注いで飲んだ。茶髪がその後ろから擦り寄ってくる。
「えー、四桁じゃダメ?」
「うぜえよお前。一回てめえのアコードに轢かれてから考えろ」
「コピーでいいからよー、俺ちゃんと編集してやるしー、それにほら、毅さんには見たこと黙ってっしィ」
ブランデーの瓶を持ちながら茶髪がバカのように笑う。この男は実際バカだ。慎吾はスクリーンを見ながら言った。
「毅がどうこうってのはてめえが言うことじゃねえ。あと十万積まれてもこれはやらねえ。百万なら考える。一括キャッシュで」
ケチだ! と茶髪が叫んで寝転がる。動画では騎乗位に移行していた。人の腹の上に乗り膝を立てて腰を揺する中里が下から乗られている者の目線で撮られている。メガネも寄ってきた。
「っつーかお前は抜かんくていいの、慎吾クン」
「俺がどうこうってのも言うことじゃねえよ、葦水」
「自分のじゃやっぱ燃えねえ? っつってもこりゃ、毅クンのか」
言ってとんでもなくおかしそうにメガネが笑って床に寝転がる。坊主もいつの間にか床に寝ていた。そして眠っている。一発抜いて気が晴れて睡魔にやられたらしい。寝つきの良い奴ばかりだった。腹立たしいほどだ。
『すげえ、いいよ。その調子』
動画の中の自分が言っている。言った記憶がある。記憶はあるが動画と感覚が一致しない。
『あ、あ……慎吾……うん……いい……』
『ああ、いい、すげえ。毅、好き』
『俺も……好き、大好き、しんご、好き……』
中里が自ら腰を揺らしている。ペニスを揺らしている。舌足らずな声で自分を呼んでいる。好きと言っている。下腹部は応え通しだが、頭では、ありえねえ、と思う。こんなものをよく撮れた。自分に拍手を送りたい。だが同時にこの自分を抹殺して乗っ取りたくもある。狂った認識が直らない。
いつの間にか動画の音といびきしかしなくなった。周りを見ると、生ける屍が三体転がっていた。飽きたのだろう。延々男同士の性交を見ていても代わり映えはない。動画の自分たちは正常位に戻っている。中里の甘ったるい声は止まらない。アルコールの効果は甚大だ。今後は中里だけしっかり酔わせねばならない。そう考えながら、慎吾はその場に座ったままスクリーンを見ながら自慰を行い、終わった動画は初めから再生させた。
◇ ◆ ◇
地震が起きたのかと思った。目が覚めただけだった。自分がどこにいるのか咄嗟には分からなかった。便器にすがっていることでトイレだと分かった。
中里はふらつきながら立ち上がった。寝ていたらしい。喉が渇いている。頭が重い。ここがトイレなのは分かったが、どこのトイレなのかが分からない。とりあえずトイレから出て、廊下を歩きながら考えた。飲んでいたはずだ。飲み会。ビール瓶をテーブルで叩き割って皆笑っていた。斉野の家。断片的に記憶が蘇る。だがいつトイレに行ったのかが思い出せない。壁にすがって歩きながら、居間にたどり着く。
明かりが漏れている。何か音がするような気はしていた。酔いに乱れた思考がそれを正しく拾い上げていなかった。今、視覚と聴覚がリンクした。中里は立ち尽くした。薄暗い居間の角にかけられているスクリーンが見える。そこに自分が映っていた。裸の自分だ。画面の下から、誰かのペニスが自分を貫いている。自分は大きくあえいでいる。それは紛れもなく性交だった。
部屋には三人床に転がっている。動かないから寝ているのだろう。一人起きている。座ってスクリーンを見ている。気配に気付いたのかその男が座ったままこちらを振り向いた。右頬のあざが黒々としている。慎吾だった。
「何そんなとこ突っ立ってんだよ」
不可解そうに慎吾は言った。中里は固まっていた。おい、と大きな声をかけられ、あ、ああ、と、慎吾の後ろまでようよう歩いてから、脱力して中里は座り込み、弱々しい声を出した。
「な……何だこれ……」
「昨日撮ったやつだろ」
「昨日……」
こんなものを撮られた記憶はない。そもそも性交した記憶がない。全身に痛みはあったが、酔いのためだと思っていた。こんなことをしていたなどとはまったく思わなかった。まだ信じられなかった。
「何で、そんなもんが、ここに……」
「覚えてねえのか?」
慎吾が眉をひそめる。ああ、と頷きかけ、いや、と中里は額を手で押さえた。
「持ってきた、俺が……お前のこと、殴ったのかと……」
暇つぶしにはなるかと思った。カメラから抜き取ったデータを上着に入れた。それが、なぜこうして映し出されているのか。誰かに渡したのか。思い出せない。ぞっとした。
「あ、あいつら、これ見たのか」
他のメンバーは既に寝息を立てている。残りは隣の部屋に移ったのだろう。これまでの行動は知れない。焦って問うた中里に、慎吾はにやっと笑った。
「何入ってっか分からねえもん、他の奴らに見せるかよ」
言ってスクリーンに目をやる。自分が他人のペニスに突かれながら自分のペニスを擦り嫌になるほど甘い声を上げている。中里はすぐに俯いた。動揺のあまり、うまく声を出せない。
「や……やめ、やめろよ、こんな……」
「いいじゃねえか、どうせどいつも寝てんだ。こんなんで起きるほど繊細な神経してる奴もいやしねえ」
「慎吾ッ……」
「お前が騒いだら、気付く奴もいるかもしれねえけど」
意味深に慎吾が眉を上げる。すぐ傍に寝転がっている奴がいる。高いびきをかいているからぐっすりお休み中だろうが、起きないとは限らない。中里は唾を飲んでから、流れ続けている音と関連する映像へ再び目をやった。慎吾と自分がベッドに上下重なって抱き合っている。キスをしている。合間に自分は高い声を出している。舌がうまく動いていない声だ。吐き気がする。だが体が熱くなっている。肉が熱いのか血液が熱いのか分からない。ただ芯が燃えている。酒の回っている頭はうまく働かない。動画の自分は後ろから責められ出した。相変わらず聞くに耐えない声を上げている。甘えている。むかつきが止まらない。思わず呟いていた。
「あ、ありえねえ……」
「何が」
傍で慎吾が囁いてくる。横にずれて慎吾から距離を取り、中里はよそを見ながら言った。
「こ、こんなの……お、俺じゃねえ」
「お前だろ。どう見ても。すげえエロかった」
寄ってきて囁く慎吾を睨む。慎吾は何もないような顔をしている。快楽に狂っている他人のような自分の声を聞きながらその慎吾の平然とした顔を見ていると、熱くなっている体まで他人の体のような気がしてくる。中里は慎吾から顔を背けた。すると慎吾は体をより一層寄せてきた。なあ、と、耳元で囁かれる。
「やってる声同じだから、今お前とやってもバレないぜ」
震えそうになる体を抑えながら、中里は再び慎吾を睨んだ。慎吾は視線を外さない。先ほどとは違う、真剣な顔で見返してくる。本気の顔だ。容易く分かる。他人の家で、チームのメンバーが寝ている中で、やる気でいる。冗談じゃねえと言うべきだと頭の隅っこの理性が言った。その声は小さすぎて、中里の思考に影響を及ぼさなかった。慎吾から目を離せなかった。その慎吾は、中里を見据えたまま、やおら愉しげな、興奮を隠さぬ笑みを浮かべた。距離がより縮まる。
「やっちまうか」
中里は唾を飲んでいた。慎吾は笑みを浮かべたままだ。かすかに引きつっている。興奮と欲望がその引きつりの中に窺える。その顔から視線を外せなかった。口が渇く。唇が乾いている。舐めていた。慎吾の目が下を向いた。呪縛から解放されたように、体が勝手に動いた。口付けていた。唇が触れて、舌が触れる。すぐに奥まで食われ、肩に腕が回ってくる。唇が離れ、後ろから抱かれるようになる。顔を上げると自然スクリーンが目に入る。首をタオルで縛られた自分が後ろから慎吾に突かれている。見るに耐えない。だが目を逸らせない。現実の慎吾の手がシャツの下に潜ってきて胸を撫でる。首に濡れた感触がして、耳に甘い痛みが走る。
「すげえ素直だぜ、あのお前」
その声をきっかけに、下腹部が一気に反応した。慎吾の強張りが先ほどから尻で感じられている。確かに映像の自分はひどく快楽に素直になっているようだ。好き放題あえいでいる。あんなことをしていた記憶はない。だが恥ずかしい。スクリーンを見ているのがとてつもなく居たたまれない。それが自分のためか慎吾のためかは分からなかった。ともかくもう見ていたくなかった。胸から腹をゆっくり撫でてくる慎吾の手をよけ、向かい合う。向かい合っているのも居たたまれない。目を合わせないまま、慎吾の股間に手を伸ばした。パンツのファスナーを下ろし、下着の中からペニスを引き出す。勃起している。なるべく何も見ないようにしながら、それを口に含んだ。慎吾が小さく笑った声がした。
「生のお前の方が、やっぱいいよ、毅」
言葉が脳に染み渡り、頭が一層熱くなる。自分が慎吾のペニスをこうして咥えているすぐ横には他のメンバーが寝ている。分かっている。分かっているが、止められない。髪を掴まれた。手助けするように慎吾が動く。奥まで入ってきて唾液がうまく飲み込めない。唾液だけでもないようだった。髪を掴む力が強まる。頭皮が痛む。息が苦しい。呼吸を妨げるように奥まで突かれて、止まった。慎吾が射精した。飲み下すしかなさそうだったが、ペニスはすぐに引き抜かれ、代わりに手が口内に入ってきた。精液を掻き出すような動きをする。反射的に吐き気がこみ上げ、すぐおさまった。口に残っている体液を飲み込み、口から垂れた分を拭うと、間もなく押し倒された。
「お前に入れてえ、今すぐ」
間近で慎吾が言い、引きつった笑みを浮かべる。中里は何とも言い返せなかった。ただちに慎吾がジーンズと下着を剥いで、尻の狭間に指を突っ込んできたので、何と言うべきか考える暇もなかった。入り込んだ指が中を擦っていく。痛みと快感が同時にわき起こる。乱暴にされているのに体が昂ぶる。慎吾の焦りが分かる。解消してやりたい。だが逃げ出したい。周りが気になる。本当に気になるのかは分からない。段々何が定かなのか曖昧になっていく。尻から慣れた快感が突き上げてくる。浅い呼吸で紛らわしていると、キスをされた。舌が絡む。唇が離れ、今度は耳に触れた。
「声出せよ」
興奮にかすれた、からかうような、それでいて甘えるような慎吾の声だった。閉じていた喉が勝手に開いた。一度開くともう閉じられなくなった。指が抜かれてすぐ、慎吾が入ってくる。部屋には自分のあえぎ声が響いている。自分が出しているのではなく、どこからか勝手に出ているような気がしてくる。
「やっぱ、お前、いいよ」
慎吾の声は目の前から落ちてくる。指の動きとは違い、ゆっくりと抜き差ししてくる。長引かない快楽を求めて大腿が動く。慎吾が笑っている。
「もっと声出せって」
「しん、ご……」
快感が思考を溶かす。出てくるものを抑えられない。顔が熱い。頭が熱い。体が熱い。内側を擦られるたびに声が漏れる。もう、自分が何を言っているのかも分からない。どれが自分の声なのかも分からない。
「やめ、やめろ、もう……」
目の前の体にすがる。慎吾がいる。慎吾の息が間近に触れる。愉しげな顔がちらちらと見える。
「イく?」
「やべえ……慎吾……」
「イきてえだろ、毅」
笑った慎吾が動きを強める。繰り返されるごとに体が跳ねる。限界だった。全身が勝手に緊張した。
「あ、あ、ああっ……」
びくびくと体が震えた。中里は射精していた。慎吾はなおも激しく動き、少し経ってから呻いた。出された感触がある。慎吾の荒い息が遠く聞こえる。思考が溶けている。何もかも溶けている。カーペットの上だ。錘をつけられたようだった。おぼれていく。やがて何もなくなった。
◇ ◆ ◇
斉野は午前中に旅立つということで、皆を叩き起こして掃除を命じ、当人は悠々と荷造りを開始した。各自ゴミを仕分けるなり食器を洗うなり床を拭くなり一服するなり半分寝るなりしている間、中里はずっと眉間にしわを作っていた。誰にどうしたと尋ねられても、考え事だ、としか言わない。実際何かは考えている様子だった。何を考えているかは誰にも言わなかった。
割れた瓶をまとめている最中、お前何かしただろ、と酒豪が声は潜めて酒臭い息は潜めず聞いてきたが、慎吾はするわけねえだろと一笑に付した。そこが怪しいんだよ、としつこいので脛を蹴飛ばしたら大人しくなった。平和だ。誰かしら何か勘付いているらしいが、何も言ってこないのにわざわざ何を言ってやることもない。言葉にしないことはないと同じである。汚れ物は洗濯機を回して綺麗にしたしデータは回収済みだし証拠も残っていない。片付けも終わり撤収が始まる最後、斉野が中里に対して人生山あり谷ありだから頑張れよ、と言ったあたりで何となく微妙な空気になったが、微妙なままで終わったので問題もない。冬に集合すると目的が何であれ皆で暴走したくなり危険であるため、どうせこのまま来年になって雪が消えるまでチームで集まりしない。その頃には誰もが自分の都合の良いように記憶を書き換えているだろう。中里にしてもあの現実を時系列に並べられるわけがない。第一前提は慎吾が既に改変している。真実は個々人の中にある。それぞれが真実だと思うことが真実で事実で、すべてである。思い込みは偉大だ。
今となってはあらゆることを覚えている自信はあるが、結局何が手に入ったところで慎吾にとっては、自分が体感する中里のみが真実であり、すべてだった。そうとしか思えないのだった。よって動画データは何重にも自宅に保存してある。それもまた中里であるからだ。
(終)
2007/12/29
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