春だから
空気が温まり、雪は融け、鳥はさえずり、虫はわき、花粉は飛散し、世間では桜の下で酒に溺れる者どもが出没し、山では暴走する野郎どもが出没し始めている。あらゆる人間の身を凍らせる季節は裏側に引っ込んで、一部の人間の身を晒させる季節のお出ましである。春だ。
時折まだ冷気をはらむ風が吹く夜の山で、全裸になる男はさすがにいないが、上半身裸になる男は数名いた。そんな野郎の集まりと、それを軽くスルーする野郎の集まりの複合体が、妙義ナイトキッズである。構成員はすべて走り屋だが、コースレコードだのバトルだのに命をかける者は数名のみであり、総じて野郎のため、走り屋チームではなく、むさ苦しい集団と見なされることが多い。
その中では慎吾は少数派の、コースレコードだのバトルだのに命をかける側に入る。車のスピードを極限まで緩めずコーナーを突っ切ることに、無上の快感を覚えるから、峠を攻める。遅いドライバーの欠点を徹底的に知らしめることに、無上の歓喜を覚えるから、バトルをする。どの季節でも裸になりたがる、馬鹿話に花を咲かせたがる、車と真面目に接したがる、走りに命をかけたがる野郎どもとつるむことに、無上の幸福を覚えるから、チームに所属する。そして、裸の野郎どもは軽くスルーする。
夜半、ふもとの駐車場には十台ほどの車、十人ほどの野郎がいる。うちの数名は上半身裸で、他はジャケットやら長袖シャツやらトレーナーやらを着ている。慎吾はパーカーを着て、服を着ている野郎数名と車について話しつつ、二メートルほど離れた位置、服を着ている他の野郎数名を眺めている。その中の、一人の男の、うなじを眺めている。その男、中里が慎吾に背を向けた形で、他の野郎と話しているから、自然とそれを見てしまったのが、始まりだった。
ファミリーカーにスポーツ性を持たせたいならSUVにすればいいし、スポーツカーにユーティリティを持たせたくてもSUVにすればいい、つまりSUV最強、というようなことを横の男が語っているのを、聞くでもなく聞きながら、慎吾は中里を見ている。中里のうなじを見ている。刈り上げられた黒い髪と、黒いシャツの襟との狭間の肌が、車のライトに照らされて、真っ白に浮き立って見える。
最初は何となく、視界に入ってきたから中里を見ただけだった。だが、一度それを見ると、目を離せなくなった。中里の、白い首筋。実際はそう白くもない、すぐに赤みが差す、白い肌。そこから慎吾は目を離せない。
ランクルは盗まれそうだからいけない、男はトヨタのセダンじゃねえか、男のセダンは日産だ、日産はクーペだ、なぜそこで俺の三菱を外す、三菱は俺のだ、という話の合間、男は黙ってホンダだろ、と呟きながら、慎吾はやはり中里の首筋を見続ける。白いうなじ。そこに唇を寄せて、吸いつくことを想像する。舐めて、後ろから体を抱えて、股間を尻に押しつけることを想像する。想像して、春だな、と思う。今まで山で、そんなたわけた想像をしたことはない。
慎吾が中里と一般的に言えば肉体関係を結んだ、露骨に言えばホモ行為に及んだのは、去年の初冬からで、その頃も慎吾は山で中里を数え切れないほど見ていたが、その中里の首筋に吸いつくだの舐めるだのという想像はしなかった。山は山、車は車、走りは走り、性交は性交だ。慎吾が欲情したのは、山から下りた中里毅という一人の男だった。その身分が、同じチームのライバル的走り屋であっても、それはそれ、これはこれだ。山で中里の尻に突っ込みたくなったことはないし、キスをしたくなったこともなかった。
だから、春だな、と思う。山で、何の変哲もない中里の首筋を見て、今までしたこともなかった、性交の過程を想像し、勃起しかけているのは、変態だ。変態が出るのは春のせいだ。だから、春だな、と思う。俺も変態だ。それは去年、自宅に招いた何の変哲もない中里に欲情した時点で、十二分に自覚した。凛々しいというよりもくどい顔をした、うんざりするほど男臭い野郎に欲情して、突っ込みたくなる自分は変態だから、変態らしく生きようと決めた。ただ、山で、中里の首筋をはたから眺めるだけでむらむらするほど、変態になった覚えはない。だから、春だな、と思う。春に、変態が呼ばれたのだ。
やはり車は産業として成立してこそ趣味の品にもなるわけで、日本人はもっとSUVに乗るべきだ、と話に一応の妥協点を見つけた周りの野郎どもは、もう夜も遅いから、というかもう明日が今日になりそうだから、と解散し、車に乗って各々帰路に着いた。慎吾は車に乗り、峠道に出た。まだ走ろうとする慎吾に、相変わらず人生かけてるな、と帰り際言ってきた男には、命をかけてんだよ、と返したが、走れば性欲もどうでもよくなるだろうという思惑だった。車中で一発抜くのは気が引ける。青姦する奴らの気は知れない。山は山、車は車、走りは走り、性交は性交だ。
上って、下り終えた慎吾は、峠を攻めるのは、そこに無上の快感があるからだ、と改めて実感した。道路の感触を確かめながら上っているうちに、萎えたものが、超速度で下るうちに、完全に勃起してしまった。春だな、と思いつつ、ベルトを外し、運転席には座ったまま、目を閉じ、煙草を吸う。ドライビング中、下腹部に血が行き渡ることはままあったが、パンツが盛り上がるまで硬くなったことはない。春だ。春だから、コーナーを抜けた直後に中里の首筋が思い出され、走行でも想像でも興奮し、勃起もするというものだ。
これは春だから、認識を変えるべきだろう。煙草を吸いながら、慎吾は真面目に考える。もう勃起はしてしまっているし、頭の中の中里はエロいし、変態だ。山だの車だの性交だの何だのとこだわっていないで、一発抜くべきだろう。何せ春なのだ。桜が舞い、酒が舞い、裸が舞う春だ。精液が舞ってもしかるべきだ。
だが、その前に、まだ冷気をはらむ風に、体温を奪ってもらうのもいいかもしれない。慎吾は煙草を吸い終わってから、運転席のドアを開け、外に出た。空気は冷たく、ガスの匂いがする。肌に浮いた汗が冷やされて、しかし勃起はおさまらない。目の前に、中里が立っていたからだ。黒い髪、太い眉、大きい目、厚い唇、硬い顎、白い首。想像より実物の方が、良いに決まっているので、勃起はおさまらない。
慎吾はシビックのドアを開けたまま、若干の驚き顔の中里と相対した。閉めると、どうやっても股間を隠せない。変態だという自覚はあるし、変態として生きるのも構わないが、この山で、中里に変態であることを見せつけても、どうしようもない。
「何やってんだ」
中里の乗る黒いスカイラインは、離れた場所にある。歩いてここまで来たはずだが、なぜ中里がこちらに歩いてきたのか、分からなかったので、慎吾はドアに身を隠しつつ、そう問うた。
「いや、お前、停まったまんま、動かねえからよ。具合でも悪くなったのかと」
決まり悪そうに、中里は答える。ここに駐車してから降車するまで、慎吾はシートに身を預けたまま、春に煽られた性欲とその処理方法について、真面目に考えつつ一服していたので、動きはしなかった。具合でも悪くなったのかと、心配されるだけの時間は経っていたらしい。それにしても、心配りを直接知られるのが決まり悪いなら、無視を決め込めばいいだろうに、関わりたがるなど、相変わらず情が深く、不器用な男だった。春だ。春だから、相変わらずの中里を目の前に感じるだけで、性欲が煽られる。
「ちょっと、考え事しててな。別に具合は悪くねえよ」
大雑把に答えながら、慎吾は周りを見た。中里以外、誰もいない。明日が今日になりそうだから、忙しい野郎も忙しくない野郎も、一旦去ったのだろう。ナイトキッズのほとんどは、山で明日を越えたがらない野郎どもだった。地上で明日を越えてから、山で今日を過ごしたがるのだ。慎吾と中里は、山で明日を越えても構わないので、よく二人きりになることがあった。今日もまた、そうらしい。
「そうか。ならいいんだが」
大して良くもなさそうに、中里は口だけで言う。慎吾が中里に目を戻すと、中里はまだ決まり悪いのだろう、ぎこちなく顔を斜めにし、首を掻いた。大股で二歩の距離、その指が、爪が、首の皮膚を引っ掻く様が、よく見える。勃起はおさまらない。具合は悪くないが、一部が良すぎて、大して良くはないことになっている。さて、どうしたもんか。ドアに手をかけたまま、慎吾は考える。中里から、もう目は離せない。指に掻かれた首の皮膚が、わずかに赤らみ、それが陰になる。
「まあ、何だ。やっぱ、峠はいいよな。春になって嬉しいぜ」
場つなぎのように、中里が言って、よそを向く。そのうなじが、見えた。そう白くもない、赤みの差した、白い肌。そこで慎吾は、どうしたもんかという考えを、捨てた。シビックのドアを素早く閉めて、中里に向かって素早く歩く。たった二歩の距離、それを一秒で埋めて、背を抱え、想像通りのことをする。首筋に唇を寄せて、吸いついて、舐める。
「うわっ!」
慌てたような中里の声は、想像にはないが、構わない。シャツの裾から左手を入れて、直接腹を撫で上げて、右手でジーンズ越しに股間を鷲掴みにする。春だな、と思う。春は、変態を呼ぶ。俺は変態で、春に呼ばれたから、仕方ない。
「ちょっ、お前、待て、何だ!」
「春だな」
「はあ!?」
「春がきた。仕方ねえ。お前も、春になれ。春だからな」
「何言ってんだ、お前、おいっ……!」
乱れる声、赤らむ肌、黒く硬い髪、汗の味、ガスの匂い。やはり、実物の方が良い。両手首をそれぞれ掴まれて、肌やら股間やらをいじる作業を邪魔されても、慎吾は気にせず中里の尻に、張った股間を押しつけた。何となく、満足しつつ、首筋から離れて、耳を食む。
「ひっ」
中里は声にした息を裏返して、動きを止めた。刺激に弱い部分は、一ヶ月近く経っても、変わっていないらしい。素直な肉体の反応に、欲がくすぐられる。前回終えてから、なぜか性欲がなりを潜めたので、中里を自宅に招くことはなかったし、無論中里から誘ってくることもなかったし、山で中里と顔を合わすようになっても、山は山だから欲情はしなかった。今日までだ。今日まで一ヶ月、中里とセックスをするという選択肢は、頭から消去されていた。だが、今日、復元された。山でも、欲情した。春が呼んだ。あるいは、一ヶ月の空白が、呼んだのかもしれない。いずれにせよ、どうせ呼ばれた変態だ。生き様を見せつけてやるのは、今後のためにもいいだろう。
「春だから、やりたくなるんだよ」
このままいくと、春でも夏でも秋でも冬でも、山でも車でも走りでも、中里と性交するという選択肢は消去されそうにないが、今は春なので、とりあえず、動きを止めたままの中里に、そう囁いておく。途端、中里が、身をよじって逃れようとしたので、股間を掴む手に力を入れて、ついでに腹を撫でてた手で、乳首をつまんでやった。
「あッ」
かすれた高めの声が、背骨に響いてきて、うっとりしてる間に、掴まれていた左手首が解放された。自由になった左手は、胸から離し、中里の口元に持っていく。それを覆っている左手を、爪を立てて強引に引っぺがすと、中里は呻いた。
「やめろ、てめえ、峠で、こんな……」
「まあ、山は山だけどな。安心しろ、誰か来たら、やめるから。そこまで俺も、あれじゃねえし」
「今、すぐ……んッ」
右手で擦っている股間に、張りが出てきている。嫌われてはいない、と思う。嫌われているならば、最初にホモ行為を仕掛けた時に、拒まれているはずだ。突っ込んだ時に、よがっていないはずだ。自信がある。お互い、やりたいことは同じはずだ。そこには快感が、あるはずだ。二人だけの快感があるから、中里だって、拒まないし、直接触れてもいないのに、勃起もするというものだろう。
「たのむ、から、やめろ」
「無理だな」
頼まれると反発したがる傾向とは無関係に、やめろと言われても、やめられない。こういう時人は、野外プレイが好きではなくても、青姦に走ってしまうのだと、慎吾は理解した。今すぐ触れて、感じたいと思ってしまえば、場所も時間も関係なくなる。布越しの尻に、布越しの勃起しきったものをなすりつけてるだけでも、精神が充足する状態では、それを捨てる気にもならない。ジーンズに現れた膨らみを片手で揉んで、片手で掴んだ手を乳首を触れさせてやるだけで、肉体が充足する状態では、それを止める気にもならない。
「あ……、いっ、やだ……」
やはり、想像より実物だ。しゃがれた声は、上皮からも内皮からも伝わってきて、血をたぎらせてくれるし、耳に唇と舌で触れるたび、震えて汗を浮かし、赤みを増す頬を見ると、頭が茹だる。無上の快感、歓喜、幸福。それらは人生に、一つではないらしい。このままずっと、触れていたい。しかし、そろそろ射精はしたい。ただ、抜いてしまうと、気も抜けそうだ。さて、どうしたもんか。中里を追い詰めながら、慎吾は考える。いっそ、やめる代わりに咥えてもらおうか。そうすれば、触りながら射精もできる。一石二鳥だ。そのあとに、中里をいかせてやろう。何なら咥えてやってもいい。一度精液を舞わせてしまえば、性欲の波も引くし、それが戻るまでに、場所を変えれば、落ち着ける。性欲が戻らなければ、それはそれで、何も起こらないだけだ。問題ない。
「やっ、慎吾、ほんと……、ッ」
考えに没入していた慎吾にも、その時の、中里の声に表れた緊迫は、察せられた。今しがた出た、そろそろ解放してやろう、という結論は、別の考えのため、退けられる。まさか、キスもしていない、直接触れてもいない状態で、中里が達することなどあるのだろうか。あるのかもしれない。情欲と一体化している好奇心が、新たな結論を出す。もう少し、やってやろう。
「無理だって、我慢しろ。いや、するな。春だしな」
「いやだ、やッ……」
「春になって、嬉しいぜ、なあ」
股間は乱暴に、胸は丁寧に撫でつけながら、耳にそっと言い、髪の生え際に沿って唇を滑らせる。
「だろ、毅」
皮膚に囁いて、首筋を舐めた。春様様だ、と思う。思ってすぐ、中里に掴まれていた手首に、強い痛みが走った。
「あっ、あ……」
その際の、中里の全身の震えは、慎吾の全身にも伝わった。一瞬、自分が射精したのだと錯誤するほど、強烈な快感が腰にきて、力が抜けた。そして足を踏ん張ることに意識を向けた時、腕の中の中里に、肘で胸を突かれ、慎吾はバランスを崩し、踏ん張り切れず、尻もちをついていた。手がアスファルトの上を滑り、表面にひりつく痛みを生む。
「ってえ」
手についた小石を叩き落としながら、慎吾は目の前を見上げた。中里が、立っている。見下ろしてきている。陰になっていても、その顔が、泣きそうに歪んでいることは、分かった。肌は真っ赤で、眉頭が上がり、目が濡れている。それは反射的に笑ってしまいそうなほど、官能的な顔だったが、笑ってしまうと、蹴り飛ばされそうだと感じるほど、切羽詰まった顔でもあったので、慎吾は笑わずにいた。中里はその顔のまま、何度か口を開け閉めして、しかし何も言わず、後ろを向き、歩き出した。
「あ、おい」
立ち上がった慎吾がかけた声にも、反応を見せず中里は、途中から駆け出した。離れたところに停めてあるスカイラインまで、一心不乱、一直線だった。その運転席に中里が消え、ひと際大きくスカイラインのエンジンが空転してすぐ、慎吾は舌打ちして、シビックに戻り、ドアを開け、運転席に乗り込んだ。このまま、何もしてもらわないうちに中里に去られては、古傷のある手首を掴まれた甲斐もない。あの泣きそうな顔からすると、服の下で射精したのがよほど恥ずかしかったのかもしれないが、だからといって一人で勝手に帰ろうとするなど、都合が良すぎる。こうなったら家に乗り込んで、キスもせず、咥えもさせず、とことん突っ込んでやろう。とことんよがらせて、頼ませて、ねだらせて、無視してやる。ここまで発射せずにきたのだから、とことんやれるだけ、持たせてやる。考えると、勃起はおさまらないが、気が晴れた。
「春だからな」
春だから、みんな変態になっちまえばいい。発進した中里のスカイラインに遅れないよう、シビックを動かしながら、慎吾は呟いた。俺も、あいつもだ。
(終)
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