耳をちぎる
俺と毅が二人で酒を飲むってことは、まずない。互いの家に泊まり合っても飲むのは家主だけ、客はシラフのままひたすら煙草を吹かしてる。
一度だけ毅の部屋で、二人きりで飲んだことはあった。両方とも酒が入って意地の張り合いも行動の限度も見えなくなっていたみたいで、次の日の部屋の惨状は目も当てられねえモンだった。みたい、というのはサッパリ覚えてなかったからだ。俺も毅もその間の記憶が見事にポッカリ抜けていた。その上経緯不明の打撲の跡やら噛み付いた跡やらが互いの体に大量に残っていて、一体俺らは何をやってたんだって、毅はともかくさすがの俺でも途方に暮れたもんだ。覚えてりゃまだ思い出に浸ることもできるが、覚えてないと逃がした魚が大きかったようなやたら損した気分になって、何のやる気も起きなくなる。あれは最悪だった。
それから一人が飲んでる時は一人は飲まないって、どちらともなく決めていた。だから俺らが二人きりで飲むってことはない。つったところで片方が飲むのを止めることもないから、相手が酔ってやったことの責任は全部シラフの奴が被ることになる。今でいえば、この俺がシラフなわけだ。
ところで俺たちが初めてヤッた時、どっちが突っ込むかでモメたことがあった。後から考えりゃ別に途中までやるだけで突っ込む必要もなかったと思うんだが、多分その時はもっと確実なモンが欲しかったのと、そういう関係を持て余してたんだろう。何せそれを決めた手段がジャンケン一発勝負だったんだ。三回勝負とかなら手順も読めるから勝率は上がるが、一発勝負となるとただの運だ。それでも俺は自分が勝つと信じ切っていたから、勢いってのは恐ろしい。今でも狂気の沙汰としか思えねえ。
結果は最初の一回で無事俺が勝ったが、たまに負けたらどうなってたんだと考えることがある。その度、絶対に俺はこいつを殴ってでも上になっただろうって結論が出ていた。俺がやられたところで慣れりゃ気持ちイイだろうし、それでよがってるこいつも見ものだろうが、結局俺が見たいのは俺の下で泡食ってうろたえる毅だ。普段堅苦しいこと並べ立ててるこいつと、俺に流されちまってるこいつのギャップにこそ興奮する。
だから今現在、毅からキスをされて押し倒されてしかもその舌の動きにホンロウされてる状況は、俺としては不本意極まりない。やってることに不満はないっつーか体は正直に反応しそうになってるが、主導権を握れないのは結構な屈辱だ。そろそろ形勢逆転のため、舌を噛むか頭突きをかますか股間握ってやるか首締めてやるか、その他いくらでもある手段のどれにしようか俺が考えていると、毅の奴は予兆も何もなく突然唇を離した。
俺の頭の両隣に両手をついて、逆光の中見下ろしてくる毅の目は思ったよりもまともで、顔はやたら真剣で、出てきた声も真面目そのものだった。
「こうしてみると、お前相手でも何でもできそうな気がするな」
毅はしみじみと言って、自分で頷くと俺の腹からすごすごと降りた。
「……はあ?」
何だってんだ。俺が思い切り顔を歪めて睨みつけてやると、ばつの悪そうな顔をした毅がガリガリと頭を掻いた。
「いや、お前が普段、どういう気分であのポジション取ってんだか気になってな」
それを聞いて、俺は確信した。こいつはバカだ。ただそのポジション取るために不意打ちでキスしてあの態勢にまで持ち込んだんなら、バカの極みだ。
俺はなけなしの唾を飲み込んで唇を中指でぬぐってから、毅に忠告してやった。
「なら最初からそう言えばよ、俺だって素直に押し倒されてやるぜ。イキナリやるんじゃねえよ、耳ちぎるところだっただろ」
「耳?」
毅が首をひねった。俺は自分の耳をつまみながら説明した。
「形勢ひっくり返すために、引っ張ってやろうとな」
「……ちぎるのか?」
「下手すりゃな」
「お前、俺の無事はどうでもいいのかよ」
「自業自得だろ」
言ってやると、少し口をつぐんだ後、毅は肺にあるありったけの空気を使ったようなため息を吐いた。
それでもこいつが言い返してこないのは、間違いじゃねえって分かってるからだ。例えば俺がこいつを押し倒した結果、こいつが俺を殴ってきたって、その行為は正当で、恨みっこはなしだ。そういう対等さを、俺たちは持っているはずだった。
「まあそりゃいいけどよ」
右手で顎を撫でながら、毅が言う。
「臨場感を出すためだよ、何も言わなかったのは。いや、そもそもはただキスしたかったからなんだが、その前に思いついたんだ。お前の上に陣取ったら、何か変わるのかって」
今さらっと心臓に悪いことを言われたが、俺は聞かなかったことにして、「で?」とテーブルの煙草に手を伸ばしながら話を促した。取りざたすには今のはいくら何でも自然すぎる。
毅はちらりと俺を見て、今度は軽く息を吐き出した。
「何でもできそうな気はしたんだがな。でも結局、俺にはできそうもねえ」
「何だそりゃ」
「俺にはお前の耳はちぎれねえってことだよ」
そう言って俺に顔を向けてきた毅が、片眉と片頬を吊り上げて、まあでも、と愉快そうに笑った。
「お前もああして大人しくしてると、可愛いもんだな」
この顔とこの余計な一言がなければ、俺も今日のところは大人しく引き下がった自信がある。毅にしても少しは酔ってるから、肝心なことをどうでもいいように言って、どうでもいいことを肝心なように言うのかもしれないが、要するに自業自得だ。俺は取った煙草の箱をテーブルに戻して、ニヤついている毅になるべく柔らかく微笑みながら、一応の優しさで、やるぞ、と宣言してやった。
耳はちぎれない。
それは多分、俺が例えば無理矢理こいつをやったとしても、そういうレベルの抵抗はできないってことだろう。こいつはそこまで俺を許しちまってるんだ。最初の頃から比べたらずいぶんな進歩だ。いや、退化か。ああでも、と俺は左手で毅のわき腹を撫でたまま、根拠もなく思う。
こいつはもしかしたら、最初から、くだらねえことでモメたあの時から、俺をそこまで許していたのかもしれない。
終わらせてから聞いてみようか、それとも途中で聞いてみるか。さっき毅が俺を見ただろう位置から息を荒くしてる毅を見下ろしながら、俺はどっちにしようか考えていた。
(終)
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