欲望の勝者



 俺の部屋に来た当初から慎吾の顔色は変だった。青いというか赤いというか白いというか、まあ要するに体調不良そうだった。こういう場合、何かあったのかとか体調悪いのかと訊いたらうるさいうざい鬱陶しいの三コンボを食らわせられるので、俺は何も言わずにデータ整理をやっていた。慎吾が来てから小一時間ほど経った頃だろうか、床にうつ伏せになってスポーツ新聞を開いていた慎吾が、
「なあ毅」
 沈んだ声で俺を呼んだ。
「何だ」
「性欲と食欲と睡眠欲、どれの優先順位がトップで順番だ」
 話は唐突で、日本語は怪しかった。この体勢からでは開いたスポーツ新聞に頭をつけている慎吾しか見えない。寝言かとも思ったが、俺はとりあえず言った。
「個人によって違うんじゃねえか」
「お前のでいいよ」
「……寝て、食ってからヤるかな」
 寝なけりゃ体力は回復しないし、食わないと命が絶える。抜くのはその後だ。なるほどな、と慎吾は言った。
「単純明快、お前らしいぜ。人間の本能を完全無視したその理論。けど今俺はだな、モーレツに腹が減っていてモーレツに眠いけど、勃ってんだよ」
 俺は目の前にあった机の角に頭をぶつけた。かなり痛かったが、それよりも話の突拍子のなさに頭をやられた。額を押さえつつ慎吾を向く。
「イキナリ何だ、お前は」
「仕方ねえだろ、金もなけりゃ時間もない、腹が減っては戦ができぬ、睡眠不足は事故のもと。だから運送業界は厳しいんじゃねえか。切り捨て反対。しかし貧乏暇ナシってのは本当だな、カツカツだ。けど金持ちなら暇はあんのかな。いや生粋の金持ちはもとが金持ちだからな、暇で暇で暇なんだろうな、一千万くらい振ってこねえかな、クソ」
 慎吾は抑揚のない声で早口に喋り立てた。俺は半分くらい聞き取れなかったが、何となく聞き取れたことを使って言葉を返した。
「金持ち皆が皆暇ってわけでもねえだろ。それにお前、暇がねえなら何でわざわざここに来る」
「何でってお前、恋人との心温まるひと時を過ごそうと」
 さらりと言ってのけた慎吾を、俺はまともには見られなかった。勿論まともな言葉を返せるわけもなかった。
「……言っててむなしくねえか、それは」
「ツッコむな、俺だってそうやって自分に言い聞かせてねえとやってらんねえんだよ。あーチクショウ、金が欲しい」
「そうか」
「空から宝くじでも降ってこねえかな。いや、それよりおい毅、お前俺に金を貸せ。二万でいい。三倍にして返す」
「そう言って一万持ってって、マイナス一万になったヤツはどこのどいつだ」
「いいじゃねえか、返しただろ。二ヵ月後キッチリ耳そろえてよ」
「信用ならねえんだよお前は、そんなヤツに虎の子の二万を誰が分けるか。大体お前借りる側だってのに何でそんな偉そうなんだ、せめて『貸してください』くらい言え」
「二万ごときで虎の子かよ、お前もケチだな」
「そこかよ。ケチで悪かったな、勝手に言ってろ。大体眠いなら寝ろ、食いたいなら食え。ウチに来てまで愚痴を垂れるな」
「だからヤらなきゃ眠れねえけど眠いから動きたくねえし、腹減ってるから頭が回らねえんだよ」
「そうか、じゃあ一生そうしてろ」
「お前には人を哀れむ心がないのか。人がこうして死にそうなくらいに苦しんでるってのに無視か。そうかそうかそうですか、あんたそういう人だったのか」
「うるせえな、自業自得だろ」
「だから二万貸せっつってんだろ」
「だから寝ろ、今すぐ寝ろ、さっさと寝ろ。ベッド使っていいからとにかく寝ろ。黙って寝ろ」
「分かった、じゃあお前抜いてくれ」
 俺は再び目の前の机の角に頭をぶつけた。額が切れて血が流れるのが分かった。俺はとりあえずティッシュを傷口に当て、言い返した。
「自分で抜けよ」
「体力ねえんだよ」
「だからって何で俺がお前の、オナニー手伝わなきゃいけねえんだ」
「いつもやってんじゃねえか、俺だってお前の咥えたことあるだろ。ありゃそんな飲むもんでもねえけどよ。お前もだからな、ボランティアだ。世の中ボランティア精神だろ。奉仕だよ。いいか、互いに持ちつ持たれつギブアンドテイクだ」
 話が飛んでんだか飛んでないんだか分からないんで、俺は聞いてみた。
「お前、自分で自分の言ってること分かってるか?」
「おお分かってるさ、っつーかマジ眠い。分かった寝る。だからベッドに運んでくれ」
 慎吾は床に突っ伏したまま唸った。俺は仕方なくその足をベッドまで引っ張り上げて、落ちている上半身も端っこに乗せると、蹴り飛ばして真ん中に寄せた。いて、と慎吾が声を上げてベッドの上で一回転し、うつぶせになって枕を腹に抱えた。
「クソ、人をモノみてえに扱いやがって。今に見てろ、お前も俺も、じゃねえ、俺もお前をモノのように扱ってやる」
「分かった分かった、いいから寝ろ。三時間経ったら起こすから」
「何だよその時間は」
「気分だ」
「俺の生命の休息時間を勝手にてめえの気分で、いやもういい。とりあえずこっち来い、添い寝しろ」
 慎吾は顔をベッドに押しつけたまま、右手で俺を呼び寄せた。俺は立ったまましばらくその動きを見た。
「慎吾、お前、熱あるんじゃねえか」
「あったらこんな空気悪いところ来てねえよ」
「お前の家よりゃ換気はなってる」
「何を根拠に言ってやがる。俺とお前の部屋の空気の性質検査をちゃんとやって比較したのか、ええコラ」
 慎吾の言葉には迫力が戻っていたが、寝ながら言っていたところでまったく威力がない。
 熱はない、ということは、眠いのと腹が減ってるのとで、錯乱状態になってるんだろう。放っておけば勝手に眠るかも知れないが、それまで何をイチャモンつけられるか分からない。俺はとりあえず慎吾を壁際に押しやって、渋々ベッドの中央に陣取った。背中を壁にぶつけた慎吾が、案の定噛み付いてきた。
「てめえは体力不足の人間を端っこに追いやって、何を自分は悠々と寝ようとしてやがる」
「ここは俺の家でこれは俺のベッドだ、どうしようが俺の勝手だ」
「ろくでなしのゴクツブシのひとでなしの畜生が」
「お前に言われたかねえよ」
「っつーかマジで添い寝なんかしようとするなよ気色悪ィ、大体やるならもっとちゃんとやれ、中途半端なヤツだな」
「やれっつったりやるなっつったり、お前の方こそ中途半端だろうが」
 起き上がって言った俺に、壁に背中をくっつけて寝転がったまま据わった目をしている慎吾が、右手を伸ばしてきた。
「やるぞ」
 俺はその慎吾の手とゾンビのように精気の抜けている顔を、交互に二回見た。
 何というか、
「色気ねえな」
「色気より食い気だ、ああダメだ腹減ったマジで。飯食わせろ。いや寝かせろ。いやヤらせろ」
「どれか一つにさっさと絞れ、その状態だと腕十字きめたくなる」
「分かった、やろう。うん、まず一発抜いてからだ。入れなくていい。面倒だ、体力がねえ。いややっぱな、人間色気より食い気だよ。更に言うなら眠気だ」
 慎吾の右手が俺の後頭部にかかった。引き寄せられるまま顔が近づく。だが慎吾の唇は俺の唇じゃなく、額へ行った。さっき机の角で切った場所だ。ティッシュごとぞろりと舐められて左頬に鳥肌が立った。
「傷、残るだろ」
「こんくらいで残ったら俺の顔は傷だらけだ」
 俺は慎吾のジーパンのファスナーを下ろしながら言った。こいつ、目的が最初からそれだってんならもっと脱がせやすい服を着てくるべきじゃねえか。何をこんな場所でまでファッションにこだわる。元々の顔がアレなんだから無理しなくてもいいじゃねえか。アレだからこそするのか。
 俺の額を執拗に舐めていた慎吾が、そうだ、と少しばかり清々しい声を出した。
「色気がねえならな毅、今とっておきの殺し文句を思いついたから言ってやる、心して聞け」
「てめえで言うか」
 慎吾は俺の傷口に唇を押し付けながら、くぐもった声で言った。
「もしも明日世界が滅亡するとして、俺が一週間不眠不休で水だけで過ごしたとして、目の前にベッドと豪華な食事とお前があったら、俺はお前を選ぶ」
 俺はその言葉を理解するために一旦動きを止めた。理解してからは止まってしまった。震えそうになる指を一度手の平に握り込んでから動きを再開して、俺は慎吾に言った。
「慎吾、一週間何も食ってねえで目の前に豪華な食事出されても、いきなり食欲は湧いてこないと思うぜ」
「じゃあカップラーメンだ、ああ食いてえな。いやこの際お前でいい。よし、どけろ」
 慎吾は一人勝手に納得すると、それまでの大儀そうな動きと打って変わって、ゴキブリのような俊敏さで俺との上下をひっくり返した。
「お前、俺でいいってのは何だ、俺はカップラーメンの代用品かこの野郎」
「お前がいいんだよ」
 慎吾はやはり大儀そうに俺の耳に口を寄せて言った。言葉はいいが口調が投げやりだ。やっぱ色気もムードもねえ。あっても困るがこれじゃあまりに実際的だ。しかし今更こいつをはねのけるにも、食欲と睡眠欲が満たされている俺の下半身は正直だった。慎吾がそれに気付いて笑った気配がした。こいつがハイになっている理由が眠たすぎることは確かだとは思えたが、その笑った気配は柔らかで、俺は本当にこいつは眠いのかと疑った。
 だが結局、ある意味物凄い盛り上がっていた途中で寝やがったんだから、慎吾は眠かったんだろう。俺は妙な虚しさに襲われながら一人で済ませて服を着て、裸で寝こけている慎吾の背中にエルボーをかましてから外へ出た。きっと今ごろ痛みにもだえているだろうと考えると、気分がいくらかスッキリした。快晴というのもおあつらえ向きだ。
 俺はそれでも眠るだろうヤツを起こすまで、三時間ほどあたりをぶらつこうと、車に乗り込んだ。
(終)


トップへ