消毒



 平日の夜だ。時間はあるが金がない。ガスもない。走れない。というわけで、俺は毅の家まで自転車で行こうと思い立った。何でそんなことを思い立ったかといえば、まあいわゆるあれだ、青春の暴走だな。んな歳でもねえけど。ともかくウォークマンでニルヴァーナを聴きながら五年もののチャリキを漕いで向かったアパート。毅の部屋にはお手頃に電気が点いている。ウォークマンをしまい、ここで俺は考えた。ピンポンダッシュかチャイムの連打、どちらがオツか。考えて、面倒になったんで部屋のチャイムを連打したら、ドアの向こうから何かがぶつかるような倒れるような音がして、それが静まったと思ったら、ものすげえノロさでドアが開いた。
「慎吾、何やってんだお前は」
 出てきた毅は濡れた髪で、パンツ一丁でそう言った。
 うん、何つーか、
「そりゃこっちのセリフだ」
「丁度風呂上がったところだったんだよバカ野郎」
 バカ野郎とはご挨拶な、と言い返したかったが、そうするとこいつはネチネチ文句を言ってきそうだったので、立ち話は近所迷惑だと先手を取ってやると、不承不承ながらも俺を中に招き入れた。靴を脱ぎながら、覗き穴押さえてやりゃあ良かったな、と思う。お、語呂いいじゃん。
 部屋に入り、俺は堂々と毅のベッドに腰かける。勝手知ったる人の家ってなもんだ。
 俺の格好はショートパンツにTシャツ。夏場としてはごく普通。毅はパンツ一枚のまま床に座ってテーブルの上にあるコンビニのおでんの大根を口に入れている。まあ山ほど着込まれてても暑苦しいけどよ、パンツだけってのも何だかね。風呂上がりにしてもシャツくらい着てくれよ。むさ苦しい。俺が多少げんなりしていると、大根を口の中に入れたまま、毅は特に気にした風もなく、何の用だ、と聞いてきた。
「いや、暇だから来ただけだ」
「何だ、なら走り行きゃいいだろ」
「金がねえんだ。給料入んの明日なんだよ」
「あ? 車で来たんじゃねえのか、オイ」
「チャリでヒーコラ漕いできた」
「健康的だな」
「素晴らしいぜ、地球に優しい」
 冷蔵庫に向かいながら言うと、350頼む、と声をかけられる。飲み物を盗んでやろうという魂胆は見え透いていたらしい。まあ毎回来るたび勝手に取ってるからな。せめて用事言い渡さないとやってらんねえのかも。
 350ml入ったビールをテーブルの端に置き、俺はベッドに座り直してウーロン茶の缶を開ける。腕を伸ばしてビールを取った毅が、不意に妙な顔をして、ビールの缶で俺を示した。
「お前、それどうした」
「お前の冷蔵庫からいただいた」
「違う違う、指」
「指?」
「親指だよ」
「ああ」
 俺の左手の親指には現在バンソーコーが巻かれている。巻かれているというか、縦に張り付けてるっつーか。
「まあ話すと長く、はならねえな」
「包丁で切ったのか」
「ナイフだよ。バタフライナイフ」
「は? お前そんなモン買ったのか」
「ダチのだ、そいつよく絡まれるから、自衛のために買ったんだと」
「自衛ってな」
「通用はするらしいぜ。ただお巡り見てキョドんなくなるのが難しいってよ」
「それで、何でお前の指が切れたんだ」
「記念だ」
「はあ?」
 毅が大げさに顔をしかめる。俺は肩をすくめた。
「どんなもんだとそいつが見せてくるもんだからよ、ここは一発切れ味試してみねえとって思うじゃねえか、優しい俺としては」
「何だそりゃ」
「まあそれで、爪切ろうとしたら、手ェ滑った」
「……お前、バカだなあ」
 毅は顔をしかたまま、しみじみと言った。笑って言われるのも腹立つが、これも何かムカつくな。
「アホ、これはな、不可抗力だ、不測の事態だ。俺の頭の問題じゃねえ」
「無駄なあがきはやめとけ」
「何が無駄だ、マヌケめ」
「しかし痛くねえか、それ」
 あっさり話題を変えられるスキルをこいつが持ってたことに俺は少々驚きつつ、アホだのマヌケだのいつまで言ってもしょうがねえから、問いには答えてやった。
「痛くねえとは言わねえけど、慣れたな。風呂入ると染みるけどよ」
 力はまだそれほど込められない。痛みは強い。しかしまあ、んなこと言ったってどうしようもねえ。
 ふうん、と頷いた毅は相変わらず顔をしかめたまま、俺の左手あたりをチラチラ見ている。
「見てみるか?」
 興味がありそうなんで聞いてやると、口を歪めた毅は思い切り首を振った。
「やめろ、俺は傷には弱いんだよ。特に小さい切り傷とか」
「嫌がられると見せたくなるだろ」
 と言いつつ俺は立ち上がって、はんぺんを食っている毅の横にベッドからおりた。
「引けよ、人間として」
「いや、これは俺の性分だ」
「嫌な性分してるな」
 俺は腰を下ろすと、バンソーコーを剥がし、毅の前に傷口を突き出した。剥がす時に少し痛みはあったが思った通り血は出ていない。膿が少し出ているだけだ。爪は四角形。
 毅は変な顔で大げさに体を引きながらも、結局傷口を覗き込んできた。
「……見事に切ったな、お前」
「新品だっつってたからなあ、アレ。買ってからマグロしか切ってなかったらしい」
「何でナイフでマグロなんだよ」
「肉だからじゃねえの」
「魚じゃねえか」
「魚肉だから肉だろ。っつーかその辺は俺もよく分からなかったけど、まあ追求するほどでもねえし」
「痛くねえかのか」
「さっき答えただろ、話聞いてないな。痛いのは痛いんだよ、でも慣れた。別にこれに塩塗りこむわけでもなしに」
 ふと真面目な顔つきで指を見据えた毅が、塗り込んでみるか、と呟いた。俺は想像して身震いした。
「バカ野郎、毅、俺を殺す気か」
「冗談だよ。いや、ちょっとやりてえけどな、酒につけるとか」
「やるなやるな、ムリだ絶対。死ぬ。死ねる」
「嫌がられるとやりたくなるだろ、お前」
 毅は持っていた箸を置いた。酒はまだ開いてない。シラフでこういうバカを真面目にやろうとするバカが、こいつだ。
「そのフレーズ、さっき聞いたような気がするぜ」
「人としてな、引くべきだろうが、やりたくなるのは性分だ。お前の言うこともよく分かる」
「お前は分からなくていい、全然」
 不穏なことを言いながら毅が俺の左手首をその右手で掴んできて、俺が引いて抜こうとすると一気に力を入れられた。
「イテ、毅、力入れるな力、折る気か」
「このくらいで折れるなら、お前の骨が弱いだけだ。牛乳飲め」
「そういう問題じゃねえだろ」
「片手でも運転はできる」
「左手イカれたらギアが握れねえ」
「根性だ」
「肉体の問題を根性で片付けるな」
 こいつは握力だけは強いから繊細な体を持つ俺としては不利なんだが、右手を投入するタイミングが掴めない。睨み合ってるから意識を他にやると確実にバレる。
 不意に掴まれている手の力が緩まった。俺は思わず一息吐いて、しまったと思った。俺が手を引く前に、毅が素早く俺の手を引きやがったからだ。こういう小さな読み合いで、こいつはたまにやたらと強い。一体何をするのかと思えば、毅は自分の顔の位置は一切動かすことなく、俺の手をその口元に持ってって、唇を開くと俺の親指の傷口を、舌の先端で、舐めた。
「ぐおおッ」
 俺はやっと毅の手から左手首を抜いて、その場で自分の右手で左手首を掴んだまま、のたうった。神経に直接触られたみたいな痛みに、涙がにじむ。
「盛大だな」
 缶の開く音がして、毅がまたしみじみと言った。あ、こいつマジで腹立つ。
「てめえな、誰がやったと思ってる」
「俺だろ」
「威張ってんじゃねえよ」
「威張ってねえよ。いいじゃねえか、消毒だ、ほらよくあるだろ。ドラマとかで」
「人の口ン中にどれだけ菌がいると思ってんだ、てめえは。それにドラマに当てはめたら、俺が新妻だぞ」
 毅はビールを口に含んだまま、深刻な顔をして、飲み込んでから口を開いた。
「悪かった」
「お前の謝る尺度が俺には分かんねえ」
「いや、それはさすがに俺も厳しい」
「……イケるっつわれても俺も厳しかったな。マキロンどこよ」
「そこの棚の一番上、にあったはず」
 毅は何もなかったかのように卵を食い始めた。人の傷口舐めといて、よくもまあ普通に飯が食えるなこいつは。この鈍感さは分かんねえ。いや、初めてヤッた時も地味に平然としてたもんな。地味に底が知れねえのか。嫌な奴だ。
 俺は言われた通りの棚の一番上にあったマキロンで、正式な消毒を済ませた。染みる。しばらく乾かしておいた方がいいかも知れない。
「ったく、力技だな」
「何?」
 俺が立ったまま呟くと、おでんを食べ終えた毅が振り仰いできた。パンツ一枚で濡れ髪という条件はよく考えてみればなかなかオツだ。しかしそれを今の今まで俺に気付かせなかった上に、
「指舐めるなんて、ある意味絶好のシチュエーションだぜ。それをまったく色気を感じさせねえで、むしろ殺気を感じさせながら済ませちまったお前は、ある意味賞賛に値する」
「そうか。ありがとよ」
「誉めてねえよ。誉めてるけど」
 俺は毅の後ろに立ち、まだ濡れているこいつの髪を引っ掴むと、頭をぐりぐり回してやった。腹いせだ。
「や、め、ろ、お前、酔いが、回る、バカ野郎」
「ロクに飲んでねえくせに回るかボケ」
 そのまま毅の髪を離してやると、勢いで横に崩れかかっていたが、こらえ、この野郎、と俺を振り仰いでくる。俺はそんな毅を無視して毅の後ろのベッドに座る。毅はしばらくすると、舌打ちしてまたおでんを食い始める。俺はその毅の顎に、後ろから右手を回した。噛む動きが伝わってくる。飲み込む動きが伝わってくる。下唇に親指を伸ばした。肩は動くが抵抗はない。唇は濡れている。おでんの汁かビールかだろう。柔らかい。今すぐ食らいつきたくなる。
「慎吾」
 息が、指にかかった。
「何だ」
「お前、自転車に鍵かけたか?」
「……あ?」
「鍵」
 そういえばそんなものもチャリにはあったな。勿論かけていない。忘れていた。しかし、五年もののママチャリだぜ。タイヤの空気がしょっちゅう抜けるようなシロモノだ。それをこんな夜遅く、盗む奴がいるのかね。と思いつつも、俺は毅の顎から手を離して立っていた。俺は全然気にならねえが、こいつは絶対気にする。例えヤッてる最中でも。
「お前、そのまま帰るなよ」
 玄関に向かおうとすると、案外強い調子で言われて、俺はちょっと不意を突かれた。言った毅を見下ろすと、取ってつけたように缶に手を伸ばしていた。まあ、何だろうな、この人は。自然すぎて憎たらしい。
「さてな」
 だから腹いせに俺はそう言ってやったが、毅はその後何も言いやがりもしなかった。結局俺が戻ってくることは、見え見えなわけだ。畜生、あの自惚れ屋め。どうせ俺には時間がある。戻ったら、散々焦らしてヤッてやる。そう決意しながら、俺は外に出た。
(終)


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