散歩
たまには健康的な休日を過ごしてみる。ひたすら動かないでぐだぐだしていたらたまたま出たネタだ。健康的イコール散歩って直結の式が正しいのかどうかはいまいち分からないが、思い立ったら吉日ってことで早速外をぶらつくことになった。
が、それはよりにもよって真夏の真ッ昼間に思いつくようなネタじゃあない、と気付いたのは外へ出て五分くらい経ってからだった。五分。引き返そうと思えば簡単に引き返せるが、すごすご引き返すのも損な気がしちまう何とも微妙な時間だ。そして俺たちは何というかまあ意地で生きてるようなもんで、慎吾のヤツも家に戻って冷えたビールでも飲んでぐだぐだしてるのが最善だって思ってるはずなんだが、戻ろうかなんてことは当然、一ッ言も口にはしない。先に帰ると言った方が間違いを認めたことになるし、忍耐不足で負け、みてえな感じもあるわけだ。だから会話もないでひたすら歩くことになって、時たますれ違う人々は俺たちから最大距離を取って過ぎていく。散歩しているってよりも、これから女をめぐって公園で決闘するっつった方が信じる人間は多いかもしれない。
太陽がじりじり頭を焼いてくる。帽子を被るべきだった。さらされてる首の後ろのうぶげが焼け縮れるようにも思える。汗が鼻の頭に浮いている。髪の下に溜まった汗はこめかみを落ちていく。靴の裏が熱い。シャツが肌にはりついている。出てくる唾はぬるくてねばっこい。視界に光がありすぎてくらくらしてくる。気に食わないが、もうそろそろ俺が折れるべきか。これは何かの罰ゲームか。っつーかこっちの方が不健康じゃねえのか。自殺するため歩いてるわけでもないだろ。でも多分寿命縮まってるぞこれ。
俺の思考が別の方向にさまよい出した頃、目の前にはっきりとした小さく白い物体がちらついた。
「お、蝶」
慎吾が声をあげた。ひらひら不安定に飛んでる白い、だからこれはモンシロチョウだ。横を見ると庭に畑のある家がある。そこに寄りついていたってことか。俺たちは立ち止まってそのまま蝶の軌道を見守っていた。俺は歩きっぱなしで頭が少しわいてたから休憩がてらの鑑賞、みたいなもんだったが、慎吾は違った。俺の左隣にいた慎吾の右手がおもむろに前に伸びて、なめらかに左に振られた。胸元に着いたその手がゆっくり開かれる。案の定、人差し指と親指で羽根をつままれた蝶があった。
オッケー、と呟くと、慎吾はその手を再度振って捕らえていた蝶をあっさりと乱暴に放って、両手をはたいた。俺はその早業に素直に驚いた。
「よく取れるな、お前」
「あ? ああ、昔よくやってたんだよ。慣れだ」
慎吾が足を進めたので、俺は一歩遅れてついていきながら話を続けた。
「昆虫採集か」
「まあそれもやったけどよ。今のは挑戦だ。飛んでるもんを取れるかどうかっていう」
「昆虫を」
「そうだな。あれだ、ハエも一時期は取れたんだけどよ、取れるようになったら飽きちまってなあ。何年前だありゃ、もう十年くらいか。やめちまったからな、それは今はもうできねえ」
「取れてたのかよ」
「取れてたぜ。ハエってのはこう、直線的に進むからな。よーく見てて規則的になってきたところで、見計らってな、進行方向に気配殺して手ェ伸ばしてやると、丁度激突するんだよ。あれも慣れだな」
「へえ」
こいつは昔からちょっと間違った方向に熱意を注ぐ人間だったのか、と俺は納得した。ならガムテープも極めようとするわけだ。あれも普段で速く走るコツみてえなもんも感じ取れるやり方だが、あれで誰にも負けなくなったところで普通の走りで誰にも負けなくなるわけでもない。つくづくマイナー制覇を目指すヤツだ。
「ガキの頃はな、くだらねえことに熱中してたよ」
慎吾は道に落ちてた小石を蹴り飛ばしながら妙な感じで言った。この感じは何だ。そうだ、ノスタルジック。似合わない。俺は足を止めた。熱さでにじむ視界の中、モスグリーンの背中が尚更くすんで見える。
「……お前にも子供の頃があったんだよなあ」
しみじみ言うと、慎吾はかかとの踏まれたスニーカーで地面を擦って、何だよそのしみじみさは、と不快そうに振り向いてきた。
「俺にだってな、あったんだよ。ええありましたとも、ピュアな少年時代がね」
「自分で言うなよ、疑わしいぜ」
「疑っとけ。お前に信じられても俺の思い出がけがれちまう」
「分からねえ理屈をまた」
俺が下を向いて息を吐くと、俺が分かるからいいんだ、と慎吾もまた息を吐いた。アスファルトには自分の影がくっきりうつっている。一度止まってしまうと動く気がなかなか起きなかった。慎吾が動く気配もなかった。頭の汗が顎まで伝って下に落ちた。濡れた感触が嫌になって手首で顎からこめかみにかけてをぬぐった時、慎吾がぽそりと呟いた。
「考えてもなかった」
「あ?」
「ガキの頃、こんなことになるなんてな」
顔をあげると、慎吾は眩しそうな顔をして気持ちが悪いほど真っ青な空を見ていた。太陽の直下だからそりゃ眩しいだろうが、それだけでもないようにも見えた。ノスタルジック。似合わない言葉を思い出させるその慎吾の顔にも、玉の汗が浮いていた。
「考えてたらそれはそれで、イヤじゃねえか」
俺が言うと、慎吾は首を落としてまた息を吐いて、それもそうだ、と右手で目をふいた。
「夢も希望もありゃしねえって感じだな」
言って慎吾は右手をシャツでぬぐうと、そのまま靴を引きずって俺の横を普通に通り過ぎていった。
「おい」
「もういいだろ。帰ろうぜ、暑すぎる。帽子もなしでこんな炎天下歩くなんてバカだ。っつーか無駄だ。回れ右、帰るぞ」
言いながらどんどん元来た道を歩いていく慎吾に遅れない程度についていって、今更気付いたのか、と声をかけてやった。
「何が」
「このバカさ加減を」
慎吾は歩きながら呆れたように首を振った。
「最初から気付いてたっての、お前と一緒にしてんじゃねえよ。俺はもっと鋭いんだ」
「俺だって気付いてたよ。同じだろ」
「微妙に違うんだよ。センスとか」
「何でそこでセンスなんだよ」
「感性、いや才能だ才能。それが微妙に違うんだ、そしてそれが俺とお前の格の違いだ」
分かるような分からないような理屈をさも正しいみてえに言い切る慎吾に、俺は苦い笑いを感じた。このまんまのガキだったらこいつは随分憎たらしかっただろう。でもこいつの言う通り、案外少年時代はピュアだったのかもしれない。まあ今だってそれを上回る悪知恵があるだけで、語感は悪いがピュアっちゃあピュアとも言える。
しかしこいつの顔ほどピュアって言葉が似合わないのもねえだろう。純真というより邪悪だ。後ろから見る歩き方も下品だ。このあたり、外見から人間の性格ってのは判断できるようでできない、ってことか? なかなか考えさせられる。
「まあ、無駄ってばかりでもねえか」
俺がそう独りごちてみると、慎吾は足を止めてわざわざ俺が横に並ぶのを待って、まあビールはうまくなるな、と小難しい顔をして言った。
……これも純真、で、いいのか?
(終)
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