とどまる場所



「旅に出てえな」
 畳の上で浜にあがった魚みてえにぐったり転がっていた毅がそう呟いた。俺はテーブルの上に置かれてた財布から千円札二枚を抜き取ったところだった。
「何?」
「何でもねえ」
 仰向けで手足をぶん投げて目をつむっている毅は、角度によっては死人にも見える。実際鍵の開いていたこの部屋に入り込んでこの体勢のこいつを最初見たとき、俺はこいつ死んでんのかと思ったが(ポックリ逝くのが似合いすぎる奴だ)、すぐに毅は目を開けて生きてることをアピールすると、「人の部屋に入るならまずノックしろ」とだけ言って目を閉じた。ノックでいいのかと思いつつ俺はそれに微妙に安心して、安心した自分がすぐ嫌になって、ともかく目的である当座をしのぐために金を拝借することにした。
「旅ったって、どこ行くんだよ。沖縄か」
 毅は何も言わなかった。俺も何も言わず、ジーパンのポケットから抜いた自分の財布にぺらぺらの千円札二枚をしまい、ポケットに戻した。これで当面の食糧危機は脱出した。さっさとここからおさらばしよう、そうも思ったが、何かひっかかった。
「一人旅かよ。だったらバイクがいいよな。車もいいが狭い道は走りづらい」
 立ったまま声をかけるも、毅は目をつむったままだった。起きてるに違いないが、寝てんじゃねえかと思うと喋るのにためらいがなくなった。
「電車でもいいけどよ。お前だったらいつでも行けんじゃねえのか、金と暇ならあるだろ」
「うるせえよ」
 舌打ちの後に、くぐもっていてるくせによく響く声が続いた。イラついているのがよく分かる。これ以上構ってもどうせ当たられるだけだろうが、夏の終わりにパンツ一枚で畳に寝転がって、人が勝手に金取ってっても何も言わないで、いきなり旅に出たいなんて呟くようなセンチメンタル野郎を放っておくのも気が引けた。
「何イライラしてんだよ」
「用が済んだんだったら帰れよ。お前に関係ねえだろ」
「それ言ったらしまいだろうが」
「うるせえな、放っといてくれ。俺は疲れてるんだ」
「だから旅に出たいってか」
「ちげえよ。いや違いもしねえが」
「まあたまにはいいんじゃねえか。世俗を忘れてゆったりするのも」
「悪いか」
「今のが悪いっつってるように聞こえたか」
 なるべく優しく笑ってやると、閉じていた目が震えながら開いた。いい感じだ。何がと聞かれても答えづらいが、悪くはない。近づいてる。緩まってる。
「お前はホントに……」
 多分しつこい奴だとでも毅は言いかけて、その後を笑いに紛らせた。濡れているような乾いてるような、人を馬鹿にしているような自分を馬鹿にしているような、自己完結している笑いだ。悪いもんじゃないんだろうが、俺は少しムカついた。笑ってんじゃねえよ、と腹に靴下ばきのかかとを軽くめり込まる。息を詰まらせてみっともなくなった顔を見たら気が晴れた。
「腹を、踏むな」
「分かった、今度からは踏まねえ」
 信用なるか、と毅はうめくように言って目をつむった。腹に両手を当てて、浅く呼吸を繰り返している。みぞおちには入っていないと思ったが、軽くといっても手ごたえは結構良かったから、それなりに痛いのかもしれない。まあ人を笑った罰だ。
 帰る前に俺はゆっくりしゃがみこんで、左手を畳につけて、毅の額に唇をつけた。離すと丁度目が合った。何か言いたそうだったが、何も言ってはこなかった。
「また来るよ」
 立とうとすると、左手首を掴まれた。顔で何だと聞くと、また目を閉じた。しばらく間があった。
「少し」
 いい加減手を振り払ってやろうかと思った頃だ。
「すこし?」
「いてくれよ」
 こちらを見ずに、聞き取りづらい声で言ってきた。聞いていないフリもできただろう。しかしそうして俺に何の得があるとも思えなかった。今日は暇だし、飯にありつけられりゃあ言うこともない。言い訳はいくらでも立つ。言い訳しか立てられない。俺は掴まれた手をそのままにして畳に尻を落としてあぐらをかいて、死んでるような毅の顔を見ながら、いつ襲ってやるのが効果的だろうかと考えた。
(終)


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