本当のこと



 目が覚めた時、ベッドの上に毅の姿はなかった。部屋にはあいつの気配すらなかった。つまり、毅はいなかった。
 というとシチュエーション的に俺がヤり逃げされたような感じもするが、実際は俺がヤってんだからそりゃあない。いやあるか。棒だけ拝借したらハイサヨナラ。ギブアンドテイク、日本社会の闇、ハートブレイク。いやねえよ。
 そもそもここはあいつの家だ。俺から逃げるにしても賃貸契約結んでる自分の部屋まで捨てるほど、あいつも頭はわいちゃいねえだろう。いやわいてるか。元々考え方が真っ直ぐに見えてどうしようもねえほどねじ曲がってる奴だから、大体の行動は予想できても最後の最後で何するか分かんねえ。あいつほど頼りになりそうで信用できない奴もいない。存在が迷惑だ。
 カーテンが閉め切られて、電気を点けていない部屋は暗いが、少し色々考えているうちに目は慣れて、元々覚えてる部屋の構造の中に自分がいることを把握する。人間の体温しか残ってないシーツに尻を落として、ベッドの端から足を落とす。フローリングむきだしの床は冷えている。足元から寒気が頭までのぼってった。パンツとシャツだけでも十分空気は暖かいが、まあつまり、生理的なもんだ。いや、心理的か。いやいや生理的か。いやいやいやそんなことどうでもいいんだよ、思いながら俺は足から頭一個分離れた前にあるテーブルの上、ビールの空き缶やらケータイやらテレビのリモコンやら雑誌やら何かよく分かんねえビニールやらがある中から、自分の煙草の箱とライターを取った。一本咥えて火を点けて、煙草セットをテーブルに戻してから、そのごちゃごちゃした大地をじっと見てみる。毅のケータイはある。煙草もある。財布は、テーブルに置いてなかったな、隙あらば俺が札抜き取るなんてケッタイな疑いを持ってたから。失礼な奴だ。
 とすればこれは、春の夜風に当たりに行ったか何か用事を思い出したかコンビニにでも行ったのか、何もかもを捨てた蒸発かだろう。俺をも捨てて。車は捨てるか? 何百万かけてんだか分からねえ、あのスカGを。まああいつならやるならとことんやっちまいそうだよな。そして人知れず死ぬんだろう。
 基本的に無遠慮な割に遠慮しいな奴だから、たまにひでえくらいに自分一人で何もかもを片付けようとする。悪いクセだ。自滅確率が高い。俺も人のこと言えた義理じゃねえけど、俺の場合はまだ若えし、加減も知ってるし。あいつはダメだ。優しくされればすぐ信用するし、おだてられればすぐ舞い上がる。見通しも甘い。クビにされてないってことは仕事じゃそんな浮ついた奴にはなってねえかもしれねえが、それなら走りでもそうしとけっての。あいつの場合はいくら技術がついたって、抜けどころありまくりの思考のルーチン変えねえとどうにもなんねえだろ。一発当たればドカンとくるけど、それがバトルで出なけりゃ意味ねえし。
 ってこりゃ本人に言うべきことか。でも言ったって変わらねえだろうしなあ、あいつ。変わってもらっても困るしな。俺が抜かしてやれねえし、あいつに欠点がなくなりでもしたら、近づけなくなるだろう。あの誰にでも見せる無防備さがないと。俺にでも見せていた。だから俺にしか見せないものにしたくなった。レースゲームで最短タイム狙うみてえに。俺は本当に完全なものにゃあ手なんて出す気もさらさら起きねえけど、穴があるものは徹底的にぶち壊したくなっちまう。度胸がないからだろう。いいんだよ、根拠のねえ自信あるよりはマシなんだから。くそ、何で自分に言い訳してんだ。むかつくな。
 思いながら灰皿に煙草をねじ伏せる。これで三本目か。我ながらペースが速い。焦ってる? 焦ってるな、うん。いくら何を考えても、根っこにあるのはこれだ――帰って来ないんじゃないか。それがありえるからむかつく奴なんだ。日常の権化って感じのくせに、ある日突然ふっと消え去りそうな感じっつーの? ふざけんじゃねえよ、この俺を焦らすなんてお前は何様だ、毅。大体俺よりお前の方が寝つきは良いし眠りは深いし、どう考えたってお前が途中で起きるより俺が途中で起きる確率の方が高いじゃねえか。それを何で俺を置いて外へ行ってやがるんだ。ああ待て俺、これじゃマジに捨てられた女みてえな考えだぞ。まあ落ち着け。煙草を吸って、煙を吸って、吐いて………………普通に考えて、帰ってくるに決まってるじゃねえか。バカバカしい。そんなに俺は不安なのか? 四本目を灰皿に預けて、どう動くかを考えずに立ち上がる。そんなに俺は信用できないのか? するすると歩いてく。けど信じて痛い目見るより、信じないで痛い目見る方がマシだよな。玄関に出て、靴につま先突っ込んで踵は潰す。要するにだぜ、多分、いや、俺の中ではかなりの確信があるわけだ。ドアを開け、外に出る。鍵はかかっていなかった。あいつは俺を見捨てないだろう。アパートの階段をカンカンと下りる。アスファルトの上に立って、電灯のない辺りを見回し、道の向こうへ目を凝らす。人影はない。何となくその場に立ったまま、つまりだ、と思った。だからいつか俺が、あいつを捨てるだろう。俺が我慢できなくなるだろう。そしてそれでもあいつはそんなに文句は言わないだろう。そういう奴だ。人を人じゃねえみたいに言ったり罵倒してきたりして、最後の最後は許すんだ。諦めるみてえに。いや、諦めて。
 少しの風に足と腕を撫でられて、ふと自分の格好が一歩間違えたらコートを開いたらバーン、というような奴になることに気がついた。ありゃ確か春に増えるんだしな。ここでパトカーでも巡回してきたら言い訳きかねえ。さっさと部屋に戻って服を着て、そして俺こそがヤり逃げしてやろうか、と考えたところで、それでも未練がましく見ていた道の向こうに、人が見えた。闇にまぎれる黒い下のジャージのせいで、白いシャツを着た上半身がやたらまぶしい。右手には小さめのビニール袋。これで人違いだったらやっぱ俺変態だよな、けどまあ女じゃねえしいいか、と思っていたが、人違いじゃあなかった。髪が下ろされたガキくささが残る顔が判別できた時、それが意外そうにゆがんだ。
「慎吾? お前……何やってんだ、そんな格好で」
 ジロジロと人の姿を眺めながら、毅は何とも関わりたくないような声を出して近寄ってきた。露出狂ごっこだよ、と俺が答えると、ますます関わりたくないように顔をゆがめた。顎まで引いてやがる、失礼な。
「バカな真似してんじゃねえよ。部屋入れ、こんなところ誰かに見られたら、俺まで変態だと思われる」
「お前こそが変態だろ。さっきまで俺に入れられて出なくなるまでイッてたくせに」
 毅は唖然としてから、すぐにその顔が暗くても分かるくらいに赤くなった。おーおー早いね、健康だね。惜しむらくは前髪が下りてて顔全体が出てなかったことだが、まあわざわざ外に出た甲斐はあった。俺はその顔を目におさめてから、さっき下りた階段をまた上がった。慎吾ッ、と殺した声が勢い良く俺を呼ぶ。
「てめえ、それは、さっきじゃねえだろッ」
「確かにな、何時間か前のことだけど、毅、お前ツッコミどころ間違ってね?」
「他にどこをツッコめってんだ、こんな状況で」
「俺のケツはやめてくれよ、俺そういう趣味はねえし」
 言いながらドアを開ける。もう毅は反論する気が失せたようだった。声がしない中、つま先だけを入れていた靴を脱ぎ捨て、何かかにかにつまづきながら構わずベッドに戻った。自分の尻跡が残っている場所にしっかりと尻をはめる。微妙に生ぬるい。後を来た毅が傍に立って、コンビニの店名が入ったレジ袋をテーブルに置くと、俺の左隣に座った。距離は空けている。見ると、顔に両手を当てて俯いていた。何となく退廃的な雰囲気だ。いや、そんな格好よろしい言葉はこいつには合わねえな。減給されたサラリーマン的な雰囲気でいいだろう。
「何買ったんだ」
 座ったはいいものの場を持て余して聞いてみる。毅は手を足の間に落としてこっちを見た。疲れと赤さが分かる顔だ。
「煙草だよ」
「まだ残ってんじゃねえの」
「急に切れそうになってたのを思い出したら、気になっちまってな。眠れなくなった」
 言って唾を大きく飲み込んで、毅はため息を吐いた。ご苦労なことだ。俺は毅から目を外して、帰ろうかここで寝ようかを考えた。今更帰るってのもタイミングが間抜けっぽいが、目が覚めちまっている以上、ここで寝られるかも分からねえ。っつーかこの状態だといじらずにはいられねえかも。
「お前、待ってたのか」
 考えていると、声を裏返しながら毅が言った。言ってから咳しても意味ねえだろ。俺は毅に目を戻して、なるべく真面目に言った。
「お前、俺がどこに行ったのかもいつ行ったのかもいつ戻ってくるかもしんねえ奴のことを、寒空の下待つと思うか?」
 別に寒くもなかったが、言うと毅は、確かにな、と頷いた。言葉が続けられたとしたら、待つわけねえ、ってとこだろう。そう、俺は待ってねえ。探してただけだ。
「慎吾、俺は……」
 そして毅は言いかけて、いや、何でもねえ、と、首を振った。俺は何も言わなかった。この流れでこいつの言うことなんて俺は予想できなかった。こういう時だ、俺がこいつを掴めていないと感じる時は。手放したくなる時は。あ、やべえ、またむしゃくしゃしてきた。腕がざわつく。仕方ねえ、俺は気持ちの流れを妨げないことにした。右腕を伸ばして、毅の顔をこっちに向けて、キスをする。抵抗はされなかった。乾いている唇を舐めるだけで終わらせると、目の端を赤くしている毅が、何とも言いがたい感じで見てくる。俺は笑わずに言ってやった。
「お帰りのキス」
「……慎吾、てめえな」
「もっとノーコーにしてやってもいいけど、お前もう打ち止めだろ?」
「打ち止めとか言うんじゃねえよ、お前」
「直接的に言ったら怒るじゃねえか」
「何だろうが下品なんだよお前が言うと」
「この上品な俺にそんなことを言わせるお前の体が下品だってことで、ハイ終了」
 一方的に話を打ち切って、俺はベッドにうつぶせになった。お前なあ、と毅は怒鳴りかけたが、途中で冷静になったらしく、それ以上は何も言わなかった。こいつは何を言おうとしたんだろうか? 何がしっくりくる? 慎吾、俺はお前が待っててくれて嬉しかったぜ。よし、パス。慎吾、俺はもう煙草ナシじゃあいられない体になっちまってんだ。微妙だな、パス。慎吾、俺は本当は、もう戻らないつもりだったんだ、だけど途中でお前の顔が浮かんでな……。よし、きめえからパス。
 てなことを考えてるうち毅が俺の横に寝て、布団を二人ともにかけた。結局分かんねえもんは分かんねえ。俺は考えるのをやめることにした。分かりたければその時に聞きゃあ良かったんだ。でも俺は聞く気がしなかった。ためらうことなら本当のことだ。本当のことなんざ、どうだっていい。横に来た毅を、うつぶせになったまま首をねじって見た。こっちに背を向けている。多分先に寝た俺に気を遣わせないためなんだろう。そう思うと、今までの考えがどうでも良くなった。少なくともそれは、俺の知っている毅だった。
(終)


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