お節介
さて、ある日ある時、いつもの場所でいつもの二人である。もう散々語り尽くしてきているために仔細は不要であろう。黒い三連敗と赤いデンジャラスだ。同じ山によく出没する同志たち――夕日をバックに浜辺を走って心の汗を流すほどの親しさはないまでも、大衆居酒屋で割り勘の酒を飲む程度に交流のある男たち――からは、「っつーかあれは仲が良いのか悪いのか?」とふとした瞬間不思議に思われる、例の二人組だ。そしてその度、「まあ明らかに良い方だけどそれ直接言ったら五回くらい轢かれそうだからほっとこう」と思われている、例の二人組だ。
本日黒い方、中里毅はとにかく黒かった。黒い髪に黒い眉毛に黒い目、は生粋であるから除くとしても、黒いシャツ、黒いズボン、黒いスニーカー、黒い腕時計、ひたすら黒尽くしである。白いのは肌と白目くらいなもので、装いあまりに地味すぎ怪しすぎたが、本人常にいたって自信満々に山を闊歩しているため、親切心から指摘する人間も出にくい現状だった。そもそも山での中里の同志のほとんどはファッションセンスなど糞食らえ、明らかに間違った服装も我が道として突き進んでいく粗暴な野郎どもだったため、他人にケチを付ける権利を持つ人間、もとい他人にケチを付けるほど心の狭い人間もいなかった。車に乗っちまえば格好なんて分からない、という楽観的かつ停滞的思考によって、一般的な美を重んじる人間の感覚も徐々に侵食されていき、結果、昼日中町に溢れる好青年を見慣れたギャルたちから自然遠ざかっていることを男たちが知ることもなく、まさに手がつけられないのである。それでも稀に、「何かあれって、何か結構アレだよなあ」と少ない語彙を駆使してその奇妙さを他人と分かち合おうとする者もいたが、「まあアレかもしんねーけど、でもアレもアレでイイんじゃね?」と指示語乱れ飛ぶ意味の不透明な返答によって、「まあそうかもしんねえなあ」と納得して終了、というケースが十割であった。
しかし中には例外もいる。腐ったミカンも皮をむけば一房くらいいい按配で熟したものがあることもある。原色乱れ飛ぶ布で身を覆いながらも客観的視覚は失わない者もいる。そしてそれが庄司慎吾だった。誰が呼んだかFRキラー、または事故生産器、あるいはホンダ党。寝ても覚めても本田宗一郎を愛する男である。
本日の慎吾は汗が染みるとすぐ分かる色落ち激しいイエローなシャツ、片膝部分は抜け落ちて自転車に乗ると糸が確実に絡まるほどに裾のほつれたブルージーンズ、裸足と変わらぬほどのフィーリングを与えてくれる白いスニーカーという、貧乏を全面に押し出して同情票を集めるとともに「ただ者ではない」と思わせるだけの威力も備える、理に適った格好だ。何も趣味だけでやっているわけではない。その証拠に、慎吾の極悪色の強い目からは、相変わらずな姿で周囲に存している同志たちが一様にツッコミを求めているように見えた――「お前は一体何を目指しているんだ」と。しかしそこで優しく丁寧に「君、その格好は一体何を目指しているんだい?」と聞くようなお節介さ持ち合わせているような慎吾ではない。聞くのならばそのものずばり、
「お前その格好は、職務質問されたいのか」
「……お前に言われたかねえな」
と聞くわけで、そしてそう聞かれてもそのものずばり返してくる素朴さを持ち合わせているのが、中里毅君である。だからこそ慎吾はその男にだけは言わないことはない。玄人ぶった切り返しをされることがないというのは、何とも極上な安心感があるものだった。
「俺とお前を一緒にするなよ。一般人と不審者って違いがある」
「誰がどう見たって、人を刺しそうなヤツっつったら絶対お前が選ばれるぜ」
「誰がどう見たって密室に女と二人きりになったら勢い余って犯しちまいそうなヤツは、絶対お前の方だぜ」
中里の太い眉がピクリと上がった。事実を言われてキレかけるのがこの男の特徴だ。芸はないが何度繰り返しても似たような反応があるというのは、やはり甘くとろけるような安心感があるものだった。
が、そんな中里も脳みそが発泡スチロールだなんてことはなく、柔軟な思考、ケースバイケースによる対応も人並みにこなせる男であり、
「お前」
そして大概の始まりはそれによるのであった。
「風邪引いてんじゃねえのか」
眉間のあたりにしわを寄せ、中里は確信を持った目と声を向けてきた。図星を突かれた屈辱恥辱は既に彼方にあるらしい。それもこの男の特徴だった。自分本位と他人本位の切り替わりがとかく、早い。これには安心感よりも不安定感が煽られる。慎吾はつい鼻をすすり、慌てて中里を睨みつつ言葉を投げた。
「引いてねえよ。咳もくしゃみも熱も関節痛もない。鼻水だけだ」
「どうせ引き始めだろ」
見え透いているように言われ、はらわたが煮えくり返って千切れそうになり、慎吾は更に中里を睨みつけた。
「俺の体のことは俺が一番よく分かってんだ。風邪を引きそうか引きそうじゃないかってことも。お前に言われることじゃねえ」
「さっさと家帰ってあったかくして寝ろ。風邪は引き始めが危険なんだ」
「お前は人の話を聞け」
「夏は汗をかくからな、冷えやすいし、油断もしやすいから、引いたっておかしくはない。帰れ」
腰に手を当て背筋を伸ばし命令口調を貫く中里は、どこぞの軍人のようにも見えた。だがそれでへこたれる慎吾ではない。弱者をくじき強者を無視する、それがモットーだ。そしてこの場合、中里は前者に該する。咳払いをし、こちらも負けじと演説口調で抵抗する。
「毅、俺がその程度のことを分からないとでも思うのか」
「思う」
中里は即答した。瞬間生まれた武力に訴えかけようかという気の迷いを捨て、慎吾は鼻をすすり、「まあ」と抵抗を続けた。
「そのくらいはだな、俺も考えたさ。何が大事かってお前、この身は唯一無二だ。大事にするに越したことはない。でもいざ、さあ今日は休んで明日はトコトン遊びまくるぞ、と思って布団に入ってみろ。これがまったく! まったく眠れやしねえ。むしろ眠れるどころか頭はぐらぐらしてきて目が痛いし暑苦しいし息苦しい。ここは牢獄かってくらいだぜ。そして思い立って山に来たらあなたどうですか、空気はうまいし鼻は通る。解放だ。これで家に帰る気が起こるヤツがいるなら、俺はそいつを尊敬するね」
「そりゃあ、言ってることは分からないでもないが、気が起きようが起きまいが、休むことが最善に変わりはねえだろ」
言葉を選ぶようにしながらも、中里は揺らぎなく言い切った。何だこいつは、何て物分りの悪いヤツだ、何でこんな鈍感頓馬が速く走れるんだ、世の中おかしいぞ。型通り世俗を恨んだところで、慎吾は中里の無知さを同情するよう心がけ、少ない慈悲をより集めて何とか笑顔を提供した。
「いいか、休むべきなのは、体が休息を要求している時だ。求められてない時に休んだって、それは休息にはならない」
「なら言い方を改める。風邪の菌をまき散らすな」
「お前はああ言えばこう言うヤツだな、クソ、大体風邪は移せば治るんだよ」
「迷信だ。っつーかそれだけはお前には言われたくねえ。マジで」
最後を強調した中里を睨んだままにしつつ、久しぶりに分の悪さを慎吾は感じた。鼻が詰まっているのは事実だし耳の聞こえも多少悪いが、風邪の兆候にしては軽すぎる。よって抵抗は正義の名のもとに行なわれている、というような感じのことに慎吾はしている。少なくとも自分に落ち度があることは信じない。けれども本日の中里は慎吾以上に己に落ち度のないことを確信しているようで、元来の頑迷さに磨きがかかっている。なかなか手強い。が、所詮相手はこの男だ。「分かった」、頷き、慎吾は考えるよりまず口を動かした。
「そんなに言うなら民主主義的解決をしようじゃねえか。多数決だ。ここにいる奴らの半分以上が俺の早期撤退を望むなら、俺もまあそこでお前みたいに意固地になるほどガキでもない。みんなの意見に従おう。さあ決を取れ、議長はお前、車掌は俺だ」
慎吾が両手を広げつつ大仰に提案すると、中里は五秒ほど硬直した。長くもない間であったが流れは止まり、ペースはどちらにも転がりかねた。鼻から大きく息を吐いた中里は、腰に当てていた右手で落ちかけている前髪をかきあげ、単純な顔に複雑な表情を乗せながら言った。
「……あのな、別に俺は、お前がいんのが迷惑だからこういうことを言ってんじゃねえんだよ、慎吾。お前のこと考えて言ってやってんじゃねえか」
「考えて、言ってやってる。そりゃあどうも、すんばらしいくらいのお世話焼きだ。大概にしてくれ、俺がいつお前に俺のことを第一に考えてアドヴァイスをしてやってくださいお願いします、とか頼んだんだ、西暦何年何月何日何時何分何秒に俺がお前にそんなことを言ったわけだ」
慎吾の早口に中里はばつが悪そうに目をさまよわせたが、優位性を残す強情さによって足場を固定すると、確実に焦点を合わせてきた。
「それで風邪が悪化したら、どうせ俺に文句言うだろうが、お前は」
「誤解するな。俺はいついかなる時でもお前に文句を言うようにできてんだ」
何でそんなことになってんだ、と憤慨に満ちた悲鳴に似た声を上げた中里に、白々しく慎吾は返した。
「神のお恵みだよ」
「何の神だ。車か、木か、林か、森か。山か海か大地か空か」
「俺が神だ」
中里は瞑想するように両目を閉じた。普段から妙なことを言うものではない。場を和ませる美しい冗談も、こういう時に効力を発揮できなくなる。本気と取られかねないわけだ。慎吾は一円を落としたくらいの後悔をした。やがて目を開いた中里は、不審者を見るように慎吾を見て、悪いことは言わん、と病人に言うように慎吾に言った。
「お前、早く家に帰れ。帰って寝ろ。寝ちまえ」
「マジにすんじゃねえよお前、俺だってそこまで電波入ってるようなこと考えちゃいねえよ」
「分かってる。だから帰れっつってんだ」
真実分かっているかは怪しいものだったが、不審者を見るような目つきは、理解しがたいものを理解しようと懸命に努力しているような目つきにも見え、シャレの分かんねえヤツだ、と慎吾は思った。本心を出さないことこそが優美であるというのに。まあでも所詮は毅だ、と一人軽く頷いて、まあいいよ、と慎吾は片手をゆるく振った。
「そんな風にお前が色々言ってくれると、こっちも乗り気がなくなってくる。帰るよ」
「お大事に」
何とも判別しない感情を乗せて言ってきた中里に背を向けかけ、慎吾は咄嗟に思いつき、ああ、と中里を軽く指差しつつ、お前、と言った。
「俺がもし万が一、億が一、これから風邪引いちまったとしても、家に来たりすんなよ。そんな時にお前の顔見たら、俺は天に召されるぜ」
「行かねえよ」
「ましてやおかゆとか作るなよ、お前とラブコメなんてしたくはない」
「しねえよ、何で俺がお前にそこまでしなきゃなんねえんだ」
質の高い冗談を不当と見なす中里の旧態依然とした口調に、慎吾は己の中にごく僅かある道徳的見地からの反抗心をむしられ、続ける声に刺をたっぷりと植え込んだ。
「どうせお節介焼くってんならそこまでやってみろっつってんだよ。でしゃばりてえならどんどんでしゃばってみろ、付き合ってやるから」
「だから何で俺がでしゃばるんだそこで」
「往生際が悪いんだよ、いいか、やりたいことがあるなら最後までやり抜けと、当たり前のことを俺は言っているだけだ。そしてわざわざ付き合ってやるっつってんじゃねえか、ちゃんと綺麗に追い返してやるって」
「お前は人の話を聞け」
「それはお前には言われたくねえな、マジで」
「それで俺がいつどこで、お前が風邪を引いたら看病しに行きたいんだと言ったんだ?」
「お前が女ならまだ嬉しいもんだぜ、でもお前だぜお前、毅、男に心配されたってむさ苦しいだけだ。っつーかむなしくなる。それとも何か、俺の人生は男尽くしか?」
「そうか、それはお気の毒さまだ。俺が男で心配されるとむさ苦しい、よく分かった。それで俺がいつお前のことを心配したっつったんだよコラ」
「よし分かった毅、お前、性転換しろ」
それまで間を置かずに言葉を返していた中里であったが、これにはただ、「……はあ?」と疑問の声しか出さなかった。慎吾は勢いのまま言い立てた。
「それならまだ何とか、お前が俺のことを心配したって千歩譲って我慢できる。お前が女だと思えばまあ文句も一割くらいは言わなくなるだろう。俺たちの関係の平和維持のためにはそれが最善だ、迷うことはない。お前のその小指くらいのもんをバッサリ切り捨てちまえ」
中里は再度腰に手を当て、胸を張り、「五回轢くぞ」と厳粛に言った。慎吾は鼻の下を指でこすってからせせら笑った。
「お前な、こんなことマジで言ったら俺は自分から轢かれに行くぜ」
「来い。俺が直々にお前のシビックで轢いてやる」
「分かんねえヤツだな、ジョークだよジョーク、アメリカンジョークだ。ジョニー、隣の家に塀が出来たんだってさ。ヘイボブ、そりゃあへえってもんだね!」
「誰がジョニーで誰がボブだ」
そこツッコムのかよ、と唾を散らせた慎吾を最早何の希望も映し出さぬ目で見下ろし、絶対性を確立した態度でもって中里は言った。
「一生の頼みにしてやってもいい。帰れ」
「そこまで言われて帰らない俺だと思うか」
「思いたくねえよ」
慎吾はもう一度笑ってやり、「そのご希望は叶えてやるさ」とだけ残し、帰宅することとした。そんな慎吾を見送る中里の背には悲哀が満ちていた。「他の希望も叶えるようにしてくれ」、背中は叫んでいたが、実際に声を出して叫んではいないので周囲の同志の誰が気付くこともなかった。
さて、今後の展開は慎吾がタフガイであるか否かによって変わってくるわけだが、それはご想像にお任せしよう。どちらにせよこの二人である限り、何も変わりはしないのだから。
(終)
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