今日も今日とて妙義山。秋に入り徐々に深緑は失われ、そんな季節の変化に目もくれない男達は深夜の峠を駆け抜ける。
 御多分に漏れず駐車場から威勢良く飛び出して行った赤のシビックEG−6が、だがいくらもしない内に舞い戻ってきたため、古参のメンバーたちとコーヒー片手に技術的な会話をしていた中里は、何事かとすぐ傍に止まったその車に意識を向けた。
 車から降りてきたその男、ナイトキッズ一勝負にあくどい男と名高い庄司慎吾は大きな音を立ててドアを閉め、その勢いで近くにあった柵を蹴り飛ばしに行った。ガシャン、と鉄の擦れる音がスキール音の間を縫って中里たちの元にも届いた。
「荒れてんなあ、慎吾の奴」
 メンバーの一人が遠い目をして呟き、もう一人が苦笑を浮かべながら中里の肩に手を置いた。
「リーダーさん、お願いしますよ」
 困ってるような哀れんでいるような楽しんでいるような複雑な調子で言った男を、中里は面倒くさげに見やる。
「猛獣管理は専門業者にやらせるべきだと思わねえか」
「あれの専門は毅さんしかいません」
 なったつもりはねえんだけど、と真顔で言うと、
「だって、毅さんの専門もあいつでしょう」
 と真顔で返ってきたので、中里は苦笑した。
「猛獣同士じゃれ合ってろってか、まったく」
「え? あ、いや、そういうわけじゃないっつーか、なくもないっつーか」
 しどろもどろになっている男にまだ残っている缶コーヒーを押し付け、別にいいけどよ、とため息混じりに呟くと、中里は軽くステップを踏み体勢を立て直している慎吾に声をかけた。
「おい慎吾、公共物を破壊するな」
「壊してねえだろ」
 慎吾は落ち着かない様子で体を動かし、憮然と言い放った。相当の機嫌の悪さである。峠に来た時点では週末ということもありテンションが高かったようだったが、さて何があったのか。
「どうしたんだ、一発とことん走って気分をスカッとさせるんじゃなかったのか」
「それができねえから戻ってきたんだ」
 苛立ちを包み隠さぬ声で言って、慎吾は右太ももをさすり出した。中里は首をひねった。
「だからどうしたんだよ」
「見りゃ分かるだろ」
「分からねえから聞いてんだよ」
「だからよ、痒くて走りに集中できねえんだよ!」
 慎吾は叫び、さすっていた太ももを平手で思いっきり叩いた。そして痛みにしゃがみ込む。
「……アホかお前」
「うるせえ言うな」
 呆れた中里に慎吾は涙目になりながらも律儀に噛み付き、右太ももを再びさすり始めた。
 中里は息を吐いた。何ともくだらない苛立ちの理由だ。くだらない。
 が、事故車両が道をふさいでるだとかタイヤがパンクしただとかよりも、断然平和な理由である。
 まあこれはこれでいいか、と中里は呆れによく似た安堵に胸をなでおろして、
「お前、一回下脱いで見てみたらどうだ?」
 と、ジーンズの生地の上からかりかりと太ももを掻いている慎吾にそう解決策を提示した。
 原因があれば取り除けるし、なくても直接掻けばスッキリもするだろう。いつまでも痒い痒いだの言われて八つ当たりされると困る。打算半分、だが親切も半分で中里は言ったのだ。
 しかし慎吾は納得したような面持ちを瞬時に消して、独特の片側の口角を吊り上げる笑みを浮かべると、
「なにお前、俺に公衆面前ストリップしろっての?」
 などとからかい十分で言ってきたものだから、中里は思わず肩を落とした。すぐ後ろでその光景を想像したメンバーたちが噴き出していた。
「やっぱよ、会った時から思ってたんだが、お前って変態だったんだなあ毅」
「……てめえな」
 しみじみ語る慎吾に中里は何か言う気力も奪われた。その後ろから、
「毅さんが変態かあ」
「ナイトキッズも末だなあ」
 という明らかにノッている発言が聞こえ、中里は頭を抱えてしゃがみ込んだ。慎吾は右太ももを変わらずさすりながらも、そんな中里を見ておかしそうにニヤニヤと笑っている。
 ああくそこいつめ、カンペキ八つ当たりだ。
 中里は罵詈雑言を言い立てたい気分を何とか押さえ込み、あのな、と人差し指を慎吾に突きつけると、
「誰がてめえのきったねえ足やら何やらなんざ見たがるんだよ、車乗ってやれ車乗って!」
 そう叫び、指を慎吾の後ろにあるEG−6に移した。
 ム、と唇を突き出した慎吾は、右太ももをパン、と叩くとその勢いで立ち上がり、品性を放り出した顔を作って中里を見下ろしてくる。
「俺の足が汚いってよ毅、見たことあんのかてめえは」
「見たことねえけどよ」
「見てもねえのに勝手に汚いなんて判断するような、てめえは人にレッテル張る低レベルな人間だったのか。なるほどねえ、そいつはまったく知らなかったぜ」
 鼻で笑う慎吾の挑発的な態度に触発された中里は、眼光鋭く慎吾を睨み上げ、
「勝手に納得してんじゃねえ、だったらお前見せてみろや、そのてめえのご自慢の足をよ」
 と下卑た調子で言い放った。
「上ッ等だ見せてやろうじゃねえか、その腐った目でよおーく拝みやがれ!」
 中里のはばかりもしない態度に挑発をし返された慎吾は、大きく息を吸い込み一息で言い立てると、一気に右足のジーンズの裾を膝まで捲り上げた。
 中里の目の前に現れた慎吾の右足のすねは、細いがしっかりと筋肉がついており毛が極端に薄かった。いや薄いのではなく、毛根が擦り切れているのだ。よほどこの部分だけ肌をこする動作をしたのだろう。全体的に色は白かったが、所々に大きく皮が剥けたような茶色の跡があった。
 顎に手を当てながら、中里は顔をしかめ、んー、と唸った。
「言うほど汚くはない」
 だろ、と自信満面で言う慎吾に、だが、と顔を上げる。
「綺麗とも程遠いな」
「んだよ、世辞の一つくらい言えや」
「男の足に綺麗っつーのが世辞になるってか」
「そういう心意気を見せろって言ってんだよ」
 しようもない文句を言ってくる慎吾から、中里は再びそのすねに顔を向けた。鍛えられた足だ。中里は興味をひかれ、それに手を当てた。
 当てられた皮膚の生ぬるさに慎吾は少し身をすくませ、おい、と声をかける。
 が、それにも意識を払わず中里は、骨を撫で、靴下の上からアキレス腱をなぞり、なるほど、などと口の中で呟きながら、ふくらはぎの筋肉を触ったりさすったりもんだり押したりした。
 肌を撫でられるぞわぞわとした感覚に何となく居たたまれなくなった慎吾が中里から視線をそらすと、丁度中里の向こうにいるメンバーたちが目に入った。皆、何事か悟りきったような生暖かい目でこちらを見ている。
 殺意を込めて睨みつけてやると、顔はそむけるものの口元を抑え肩を震わせ出した。
 後であいつら蹴り倒してやる、と物騒な考えが慎吾の頭に過ぎった時、
「お前、いい筋肉してるなあ」
 と中里が素直に感嘆してきたので、拍子を抜かれた慎吾は調子にも乗れず、「そりゃどーも」とだけ呟いた。
 弾力あるもんなあ、バネだよこりゃ、だの、ここはもう少し、だのと一人慎吾の右足をじっと見ながらブツブツ言っている中里は、まさしく変態に見えた。ここまでくるとさしもの慎吾でも同情の念がわいてくる。
 だからといっていつまでも触られててもどうしようもない。そもそも痒いのはそこじゃねえ、太ももだ。
 ふくらはぎを外側から眺めてまだブツブツ言っている中里の額に手を当て、慎吾はそれを後ろに押した。
「いい加減にしろお前、離せ。痒いんだよ」
「ああ、いやちょっと待て」
 そして慎吾が引こうとした右足の足首を、中里が左手で止め、右手を膝で止まっている裾の中へ滑り込ませた。ぎょっとした慎吾は、何だ、と上擦った声を出していた。
「ついでだ、原因探ってやる」
 中里が慎吾のざらざらとした太ももの毛の中指先を滑らせると、その指先に異物が引っかかった。
 その時、
「いてッ」
 と慎吾が声を上げたので、中里は慌てて手を引っこ抜いた。
 異物の感触は細く硬かった。
「やっぱ脱げ慎吾、刺か何か刺さってるのかもしれない」
 慎吾のジーンズの裾を丁寧に下ろし心配げに言った後、いやここじゃなくていいが、と焦って付け足した中里に、慎吾はくっ、と一つ喉を鳴らした。うろんげに中里が慎吾を見上げる。
「何だよ」
「いやあ、別に俺は、誰に見られようが気にならねえんだけど?」
 中里は二、三度瞬きをし、意味を解したのか、大げさに目を見開き、口元をわななかせた。
「てめえ、じゃあさっきのは何だ、人を変態呼ばわりしやがって」
 それは間違ってねえだろ、とも思ったが、面と向かって言うには重すぎる事実だ。揶揄はそこはかとない根拠があるからこそ光るのである。断定された事実は慎吾の悪戯心を呼び起こさない。なかなか天邪鬼な男だった。
「いいじゃねえか、心温まるジョークだよ」
 慎吾は軽くはぐらかし、ベルトに手をかける。
「俺の心は冷え切ったぜ」
「お前のために言ったわけじゃねえからな、最初から度外視だ」
 言いながら慎吾は既にベルトを外し、チャックを下ろすと、裾を上げた豪快さで一気にジーンズを足元まで引きずり下ろした。
「おお、いい脱ぎっぷり」
 中里の後ろで感心の波が生まれた。そちらに向かって上は普通のシャツ、下だけ足元にジーンズを絡ませたトランクス姿の慎吾が親指を立て、当然だ、と頷いた。
 やっぱくだらねえ。そして平和だ。
 改めてそう思った中里は、誇り高い様子で仁王立ちしている慎吾とそれを妙なノリで褒めているメンバーを放って、先ほど指先に異物の引っかかった場所を探し始めた。
 すねと打って変わって太ももはそれなりに茂っている。トランクスのすぐ下の皮膚が薄くピンクになっており、その辺りに指を這わせて、最も赤くなっている部分に目をつける。そこにはマチバリほどの太さの刺が生えていた。
「刺だな」
「取れるか?」
「ピンセットがありゃいいが……まあ、このくらいなら爪で何とかなるだろ」
 丁度伸びてるし、と言って中里はその刺を抜こうと片膝立ちになり、より一層顔を慎吾の太ももに近づけた。痒いような痛いような感覚の走る慎吾の肌に、中里の指が静かに這った。すねを触っていた遠慮のない動きとは違う。傷物を扱うように優しくすべる指。
 まるで俺がやらせてるみてえだな。
 そう意識した途端、慎吾の心は不自然にざわついた。
 ふと、このまま頭掴んでそのまま頬張り倒して、地面に押し付けて、マウントポジションとってやったらどうなるだろうか、という奇妙な想像が頭に生まれる。そのまま屈服させて殴り倒したら、恐怖で泣きそうな面になるだろうか。
 それもちょっといいかもしれねえ、と思い、ああそうか俺って結構S入ってんだな、と慎吾が場違いに自覚したところで、ちくりとした痛みが頭に伝わった。
「いて、お前もっとうまくやれ」
「わりい。もう少しだ」
 素直に謝る中里に、征服欲を刺激される。これは土下座でもいいかもしれない。愛する彼女を借金のカタに取って、地面に這いつくばらせて革靴でその頭を踏みつける。
 いや待てよ、こいつの場合、愛する車か。借金のカタっつーかローンのカタ。
「色気ねえな」
「お前が可愛い女の子だったらな」
 そういうことじゃねえし、と慎吾が言おうとした時、中里の「よっしゃ」という歓声があがった。と同時に太ももに根を張っていた疼きが遠ざかっていく。
「よし、取れたぞ」
 のっそり立ち上がった中里が、慎吾に右手を差し出してきた。その後ろからまばらな拍手が上がる。
「何だこれ」
「木片だろ」
 中里の人差し指と親指の爪に挟まれたそれは米粒5分の1ほどの大きさで、目を凝らさなければよく見えなかった。こんな小さなものに苦しめられたのか。無性に腹立たしくなり、慎吾は中里の手ごとその刺を払った。ああ、と情けない声を中里が上げる。
「お前、せっかく取ったってのに」
「んなもんに未練を感じてんじゃねえよ」
「苦労の成果、いわば勲章だぞ」
「俺にしてみりゃ苦しみの元凶だ」
 何秒かの睨み合いの後、先に妥協をしたのは中里だった。視線を外し舌打ちすると、大げさなため息とともに慎吾に背中を向けた。
 刺が抜けたため疼きはとれたものの、まだ痒みは残っている。慎吾はバリバリと気が済むまで右太ももを掻くと、ジーンズを引き上げチャックを閉め、ベルトを締めた。中里を見ると、メンバーの元へ行き預けていた缶コーヒーを受け取っているところだ。
 中里のその無防備な背中が、蹴ってみろと誘っているように思え、そう思ったら無尽蔵の力が皮膚の下から突き上げてきた。
 ――足を踏み出して、静かに、気配を殺して近付いて、中里が褒め称えた筋肉を極限まで行使して、胃の後ろに一発、蹴りを。入れる。すねを正確に骨にぶつける。のけぞったところに、今度は尻に。入れて――。
 慎吾はそのくだらない空想を払うため、頭を振った。無意味であまりに必要性に欠ける行為だ。そんなことをやる暇があるなら、走った方がどれだけマシか。
 だが冷静な思考を省みもせず、肉体はその非生産的な空想を非常に忠実に再現したいらしかった。ふと足が動きそうになり、地面を蹴ることで溜まった力をとりあえず放出させる。
 これはもしかして、俺も変態なのか。
 慎吾は天を仰ぎそうになって、いやただのケンカ好きか? と首をかしげた。息を吐いて顔を前に上げると、こちらを向いた中里とたまたま目が合った。思いついた言葉が口から勝手にすべり出た。
「お互いさまだな」
「あ?」
 口元に缶コーヒーを当てたまま、もう一度言え、と目で促してくる中里を無視して、後ろのメンバーに声をかける。
「俺行くけど、お前ら誰か一緒に行くか」
「あ、俺行くわ」
 一人が手を上げ、自分の車に走っていった。慎吾もEG−6へと歩を進める。中里は声をかけてはこなかった。
 それに落胆する自分も暗い感情にきしむ顔も一切無視して、その場にいる理由をさっさと消すべく慎吾はEG−6のドアに手をかけた。
(終)

(2004/04/25)
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