手紙



(切手の貼られていない茶封筒に、几帳面に折り畳まれて入れられていた便せんには、神経質そうな硬く細かい字が、一面に敷き詰められていた。)


 あなたがチームを抜けてから、もう4年です。ぼくは社会人としてなんとか暮らしています。以前のような刺激はありませんが、これが普通に生活するということなのだと思えています。
 こんな書きだしでは、あなたはこれがぼくからの手紙かと疑うでしょう。何度か読み返して、これでいいと思ったのですが、ぼく自身、ぼくが書いたものとはあまり思えません。しかし、昔、ぼくがあなたお相手にするときと同じように書こうとしても、ひとつもなにもペンが動かせない。だからこれが一番うまい方法なのです。
 電話をしてみようかとも考えました。しかし、それも、ぼくが思っていることをあなたにすべて伝えられるか、自信がありませんでした。たぶんぼくは、いつもどおりの調子で、あなたの生活がうまくいっているかを聞くだけ聞いて、それで電話を終わらせてしまうでしょう。それではぼくの満足はないのです。
 住所は知っていたので(あなたのです。これについてはあとで書きます)、どうせなら、全部文字にしちまおう、と思いました。ただ、これを書いているときのぼくと、書いたあとのぼくで、同じことを考えているかどうかはわかりません。ただ、ぼくは最中は、こう思っているということです

 ぼくは今、出版社の下請けで勤めています。毎日クレーム、残業、そのわりに金は入りません。暇もな。まあ、でもなんとかやっています。彼女はもう1年いません。2年前に同僚の紹介で付き合いはじめましたが、1年前に別れたのです。ぼくはもう、誰かでなければならない理由を持たなくなっていました。そういうことを、みんな結構わかるようです。

 車はあまりさわっていません。足には使いますが、峠へはめったに行きません。純粋に、走る、ということを、しなくなりました。いじるにも暇がないし、あれだけ極端に走っていたから、明日つぶれてもおかしくはない感じというのもあって、ただ、あなたと最後にバトルをしてから、ぼくは走ることに、特別な意義をみいだせなくなりました。

 ぼくは今でも、あなたとの最後のバトルをよく夢に見ます。4年1ヶ月前。5月17日。高村だけを立会人にしてやった。最後のバトル。
 先行だった。GT−Rが後ろにくっついている。逃げ切ることに必死になる。バックミラーは数えきれないほど確かめた。後ろにある。縮まりも離れもしない。死にそうな思いを味わう。初めての興奮だった。逃げ出したくなる。小便を漏らしそうになる。タちそうになる。
 あなたは知らないと思いますが、ぼくはあのとき、最も望んだあなたとのバトルだというのに、とてつもない恐怖で泣きそうになったのです。このまま走るくらいなら、死んでもいいとすら思いました。けれどぼくは逃げもせず、死にもせず、あなたも死なず、バトルはぼくが勝ちました。これもあなたは知らないと思いますが、そのときぼくには、あなたに勝ったことへの喜びではなく、喪失感がありました。何か重大なものを、ぼくはそのとき失ったのです。そしてぼくは夢からさめるのです。窓のカーテンをあけて、小汚い町なみを見ながら、ぼくはそのとき失ったものについて考えます。何回その夢を見て、考えたかはもう覚えていません。ただ、両手と両足は全部うまります。
 恐怖で泣きそうになった、と書きましたが(走っている途中で)、それは負けることへの恐怖ではありませんでした。負けたところでぼくはまた挑戦してやればいいと考えていたからです。ぼくはそのころ、あなたをとらえている手ごたえを感じていました。例え今回負けても、1ヵ月後に挑戦すれば、必ず勝てるという自信がありました。だからそのときは、はっきり言って、負けても良いと考えていたんです。負けたところで、あなたの手の内を知ることはできる。これはひとつのステップにすぎない。もちろんバトルとなるからには全力で勝ちにいくつもりでした。しかし多分そのときぼくはもう、無意識のうちに、あなたに勝ちたくはないと思っていたんだと思います。だからこそ、途中、恐怖を感じたんです。ぼくがそのとき感じた恐怖は、負けることにではなく、あなたに勝つことにでした。途中までは、このまま逃げ切れば勝てるんだ、おれはあいつより上になるんだ、という一念のみでした。ただ途中、本当に何の脈絡もなく、そのとき考えてしまったんです。しかし、おれが勝つとあいつとおれはどうなるんだろうか。ぼくは、そして恐怖を覚えました。ぼくが勝てばあなたとぼくの立場は変わり、ぼくとあなたが今まで通りでいられないということは、簡単に分かることです。だがぼくはあなたと最後にバトルをするときまで、そのことを、多分考えないようにしていました。それをバトルの途中で突然知ったんです。ぼくは恐怖で、どうしようもなくなりましたが、逃げるほどの余裕もありませんでした。これでいいのだろうかと迷いながら、あなたが抜きにかかってくるのを待ちました。けれど結局あなたはぼくを抜かず、最初の形のままぼくとあなたはバトルを終えました。
 恐怖は、あなたに勝つことへの恐怖です。ぼくは、あなたに勝つことで、それまであなたを前提にしてやっていた走ることを、失うことに、恐怖していたんだと思います。だからぼくが失ったものは走ることです。あれから飽きるくらいに考えた結果がその考えでした。

 そのあとあなたと交わした会話を、ぼくは覚えていません。ただあなたの、満足したような顔に無性にいら立ったことだけは覚えています。ぼくはあのときあなたを殴りたかった。もしかしたら実際、殴っていたかもしれませんが、それも覚えていません。多分ぼくは忘れたかったんでしょう。だから今、あまり思い出せないんだと思います。
 その1週間後、あなたはチームを抜けると言い出し、色んな手続きがあって、正式にあなたが抜けることになったのはそれから1ヵ月後で、ぼくはそのあとがまにつきましたが、そのときはもう、ぼくはいくら走っても走る甲斐を見つけることができませんでした。あなたに指名された以上、無視できませんから、こまごまとしたことはやりましたが、それから半年も経たずにぼくは限界を迎えました。走ることが苦痛でした。それなりに速い人間も出ていましたが、ぼくは彼らを前にしても、何も感じませんでした。彼らより速いままでいたいと感じなかったんです。
 ぼくは、潮時だと思い、チームをやめて、真面目に、大学生活に集中しました。留年もせず、就職活動も無難にこなし、無事卒業となりました。その間、一度も峠に行きませんでした。あのころのぼくが何を考えていたのかも、ぼくには思い出せません。多分これも、ぼくは忘れたかったんでしょう。あるいは、記憶に残さなくていいくらいに、どうでもいいことだけだったのかもしれません。卒業してからも、車は手元に置きました。まだ、あのEG−6はぼくの元にあります。それからやっと、ぼくはあてもなくドライブができるようになりました。

 あなたがチームを抜けてから、ぼくはあなたにひとつも連絡を入れず、あなたからの連絡はすべて無視しましたが、それは、あなたを嫌いになったからじゃありません(あなたのことをぼくは、気に入らないことはありましたが、嫌いではありませんでした。このことに関しても後に書くつもりです)。
 ぼくは、勝った立場として、あなたにどう接すれば良いのか分からなかったんです。それに、負けたことに満足しているあなたを見るのは、どうしても認められませんでした。ぼくは今でも、あなたがわざと負けたんじゃないかと疑っています。あなたがそんなことをするほど、走りに不真面目だったとも思いませんが、でも負けたあなたは、まるで狙い通りだったみたいに得意そうだった。計算づくみたいだった。ぼくはそれが、本当のことだとは思いたくありません。

 ぼくはあのとき、あなたにどうしても勝ちたかった。あなたの上に立ちたかった。ぼくはそれまであなたと対等だと思っていましたが、ヒルクライムではどうしても差がつくし、ぼくはあなたより年下だし、本当に対等というわけじゃありませんでした。ぼくは何にもとらわれない場所で、あなたと接してみたかった。そうすれば今まで見えてなかったものが見えてくるんじゃないか、何か変わるんじゃないか、そう思いました。だからあなたとのバトルで勝つことにこだわりました。けど考えてみれば、ぼくがあなたに勝ってしまえば、たとえダウンヒルだけといっても、あなたはぼくより下ということになる。結局ぼくとあなたは対等になんかなれないんです。ぼくはそれを目の当たりにして、ばかな話ですが、すごいショックを受けました。そのショックをぼくはまだ夢に見ます。そして失ったものを考えます。考えて、そのたび、もういい加減忘れなきゃならない、と思っていました。他のことはうまく思い出せないのに、そのことだけは忘れられなかった。4年もたつのにまだ夢を見る。これは多分あなたのせいです。

 これを書くまでぼくは、1年かかりました。書こうとしたのは、1年前、彼女と別れてすぐに、町で偶然高村に会ったのがきっかけです。高村はこっちで銀行員の女のヒモをやっていると笑っていました(あの男のことだから本当だと思いますが、うそかもしれません)。そこで、高村は、ぼくがあなたに連絡を取っていないのかと聞いてきて、ぼくは取っていないと答えました。高村は、あなたは実家で家業を継いでいると言い、住所と電話番号を渡してきて、年賀状でも出せと言ってきました。あなたがぼくを心配していたということも聞きました。高村はそのままどこかへ行きました。そのあとぼくは高村と連絡をとっていません。
 ぼくはあなたの連絡先を一度捨てようとしましたが、そのとき、まだあなたに伝えていないことがあったことを考えて、やめました。それを墓場まで持ってくと考えると、気が狂いそうになったからです。それで電話にしようかと迷って、手紙に落ち着きました(これはもう書きましたが)。でも、ぼくは今まで人に個人的な手紙を書いたことがなく、暇を見つけて書いては、うまくいかないから消して、書いてはうまくいかないから捨てて、をくり返してました。色々ありましたが、やっとこうして形になったのを、ぼくは嬉しく思います。これでぼくはもうあなたから離れることができます。
 あなたがなんの仕事をやっているのかも、高村に聞きましたが、もう忘れました。あなたが今なにをやっているのか、もう結婚しているのか、まだ走っているのか、そんなことはぼくにはもうどうでもいいことです。ただこれを書き終えたら、そのままぼくはあなたの家に行き、これを郵便箱に入れるつもりですから、そのときにあなたの仕事は知ると思います。しかしこれを出したら、ぼくはもう二度とあなたを思い出さないことにします。あなたのことも、チームのことも、忘れることにします。あのころの仲間とは連絡を取るつもりもありません。今の生活だけを第一にしていきます(でも多分、ぼくの人生で一番充実した日々は、どうやったってあのころになるでしょう。これも多分あなたのせいです)。
 最後に、ずっとあなたに伝えようとして、伝えられなかったことを書こうと思います。そして伝えたら、ぼくはそれも忘れることにします。あなたはこの手紙を読んだら捨ててください。これはぼくがぼくのために書いたものです。あなたに何かをしてもらいたくて書いたものではありません。ぼくはこれを書くことで、あなたを忘れようとしているんです。あなたはせめて、その手伝いをしてください。それが4年間夢に苦しんだぼくへの、償いだと思ってください。勝手なことを書いているのはわかっています。しかしぼくは、そうでも思わなきゃ、やってられないんです。
 それでは、もう関わることはないでしょうが、どうかお元気で。

 最後に、
 おれは、


(最後の便せんをひっくり返し、裏には何も書かれていないことを確認すると、全部の便せんの裏も確認し、それらを丁寧に折り畳み、封筒にしまい、封筒を机の上に置き、腕組みをし椅子にもたれると、天上を見上げ、静かに目を閉じ、しばらくしてから目を開けると、封筒から便せんを再び取り出し、一枚一枚を舐めるように見、書きはじめと比べ乱雑になっている最後の一枚の最後の三文字を何度も目で追い、指でなぞり、そのうち飽きたように便せんを机に放り出すと、唇から差出人の名前を漏らし、おもむろに立ち上がり、ゆっくりと部屋を後にした。)
(終)

(2004/08/03)
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