健康への道



「不摂生な生活か」
 イキナリ響いたその言葉に、俺は読んでいた漫画から目を上げた。発言者の毅は単純バカと呼びたくなるほど真面目な顔をして、手に持っている未開封の煙草を眺めていた。
「とうとう禁煙か?」
 ありえねえと思いながら俺が尋ねると、いや、と毅は煙草の封を切りながら言った。
「前にテレビでやってたのを思い出してな。不摂生な生活が、早死ににつながる」
「さすがテレビ、当たり前のことをオオゲサにやるもんだ」
 俺は漫画に目を戻した。哲学の合間にエロがある漫画だ。しかしどう見てもウェイトはエロに置かれてる。
「早死にでも、大往生を遂げられりゃあいいんだけどな」
 ライターの着火音の後、毅の万感こもったような声がした。俺は鼻で笑ってやった。
「苦しむリスクを減らしたけりゃあ、毎日二箱煙草開けて一升酒飲むのはやめるこった」
「運動すりゃ、もう少しマシにはなるか?」
 マジっぽく考えているような声だった。エロの合間の哲学を流し読みながら、さあな、と俺は言った。「脂肪は減るんじゃねえの」
「脂肪か。中性脂肪がうんたらとかやってたな」
「お前、その腹どうにかしてくれよ。最近ひどいぜ」
「ひどかねえだろ。一応割れてる」
「もっと割れ」
「無茶言うな」
「腹筋一日百回三セットやっときゃ問題ねえよ」
 俺は自分じゃサラサラやる気もねえことを言ってやった。毅は黙った。多分やろうかどうか考えてるんだろう。ボディビルダーになってほしいわけじゃねえが、たるんだ腹は撫でる時に変に引っかかるのが嫌なところだ。
 セックスの最中に哲学のセリフを入れるエロ漫画というのは、どういう読者層を考えて描かれているんだろうか。分かんねえ。けどエロイからまあいい。そんなことやら抜こうかどうかやら考えながら俺が漫画を読み進めていると、
「あ」
 黙っていた毅のマヌケな声が響いてきた。俺はまた漫画雑誌から目を上げた。発言者の毅は単純バカと呼ぶに相応しいほど気まずそうな顔で、煙草を咥えていた。
「何だよ」
 こいつが何を思い出したのか思いついたのか、皆目見当もつかないので一応聞いてみる。毅はちらりと俺を見て、
「何でもねえ」
 まったく何かありそうな感じで言った。はぐらかすとか何とかもう少ししたらどうかね。どうにも毅だ。
「ああ?」
 俺は思いっきり不機嫌な声を出してやった。毅は咥えていた煙草を指に移し、またちらりと俺を見て、渋々といった感じで口を開く。
「いや、ホント、何でもねえんだ」
「腹筋やるより効率的な運動でも思いついたか?」
「効率的っつーか……その、運動と呼べなくもねえことは大体してねえわけでもねえんじゃねえかと……」
 尻を蹴り上げたくなるほど歯切れが悪いが、答えは誘導できそうなので良しとする。運動ねえ。居たたまれないように俺を見ながらそれを言うということはだ、まあそういうことか。
「オヤジだな」
「あ?」
「思考がよ」
 毅はその一言で俺が意味を理解したことを理解したらしい。顔を半分青く半分赤くしつつ、クソ、と唸った。単純バカめ。
「運動ねえ」
「だから何でもねえっつっただろ。忘れろ」
「それでダイエットしたけりゃ付き合うぜ」
 俺は完全に雑誌を無視して、煙草の灰を灰皿に落とすのも忘れている毅を見据えた。冷やかす笑いを浮かべるのを忘れずに。毅は殺気立った風に目をいからせる。
「からかってんのか、てめえ」
「そう見えるか」
「どこからどう見ても」
「本気だよ」
 あくどいと評判の笑顔を引っ込めさりげなく俺は言った。毅は俺を見たまま指から煙草を落とし、慌てて灰皿から救おうとして、ようやく吸わないうちにその煙草がほぼ命を終えていることに気付いた。そしてうな垂れ目元を手で押さえる。というよりは、隠したのかもしれない。手に覆われていない頬やら耳やらが赤くなっているように見えるのは、俺の気のせいではないだろう。性産業のおかげで目覚め始めていた俺の息子もそれに煽られその気になっている。単純万歳ってなもんだ。
 しかし今日は休みだ。明日も休みだ。死ぬまで峠を走り尽くしたくもある。何もせずに過ごすのもいい。ゆとりのある生活万歳。何が不摂生だ、早死にだ。満足こそが健康への道だ。無理矢理か。まあいい、どうせ誰も聞いちゃいねえ。
 今はとりあえず、毅が煙草を吸う前に行動はしとかにゃならねえということで、俺は手始めに開きっぱなしで読みもしなくなった雑誌を閉じた。
(終)


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