損益



 うっかりミス、なるものを生む人間を、庄司慎吾は嫌悪してならない。うっかり、という言葉のボケた感じがまず癇に障るし、本人の不注意以外の何でもない失敗を、偶然の事故として片付けたいという思惑が感じられ、一から十までその内実を言葉で晒してやりたくなる。
 したがって、よりにもよって自分が――常に油断大敵の心構えで、あらゆる可能性を想定し、細心の注意を払い、しかし大胆にサバイバルに日々を送っている自分が――それをなしてしまうなど、慎吾には認めがたい事柄だった。右手を焼いている出したてホカホカの缶コーヒーも、できれば崖下に投げ捨てたい。存在自体をなかったことにしてしまいたい。しかしそれでは使った小銭が勿体ないし、何よりただ投げ捨てるだけでは気も晴れそうにはなかった。
 自分の過失によって生じた悔しさや憤りを、自分のせいなんだから仕方がない、と呑み込むことを慎吾はしない。無駄だと思うのだ。生まれた感情を処理するには、その根元を絶つことが手っ取り早い方法だが、一度出てきたものをわざわざ内側へ引き戻し腐らせるよりは、出し切ってしまう方がよほどすっきりする。少なくとも慎吾はそう考えるから、苛立ちは即座に発散する。愛車を峠で走らせる、道端の石ころを蹴飛ばす、酒に溺れる。ともかく爽快になれば、どんな方法でも構わない。例えば、何らかの条件を定めてそれを達成するのでも良いし、安全だと信じられる他人に絡むのでも良い。
 そう、例えば、最後まで気付かれないという条件を定め、スニーカーのゴム底を踵からゆっくり地面に乗せ、つま先を静かに離して歩いて行き、他の人間から遠く離れ一人立っている男に、限界まで近寄ってから、右手に握っていたスチール缶を、その刈り上げられているうなじに押し付けることも、方法の一つであった。
「うおわッ!」
 瞬間、地鳴りのようで、しかし怪鳥の鳴き声のようでもある幅広い声を上げた男は、飛び上がってのけぞって、その勢いでつんのめり、バランス取りに四苦八苦していたが、何とかその場に踏みとどまると、数拍置いてから、素早く慎吾へと振り向いてきた。
「何しやがんだ、てめえは!」
「いや別に」
 怒りに顔を赤くして叫ぶ男、この峠でスカイラインGT−Rを駆っては最速最速と馬鹿の一つ覚えのように喚く、慎吾にとっては馬鹿の範囲内にある中里毅へと、慎吾が缶を手に持ったまま肩をすくめて軽く言うと、「別にじゃねえだろ!」、と中里は掠れるほどの大声を出した。
「お前、熱いじゃねえか! 焼けるだろうが!」
 憤怒の形相をもって人を圧そうとする中里へ、見せつけるように缶を宙に投げて手に戻し、じくじくした心の暗がりの上に染み出してくる愉悦を感じながら、慎吾はせせら笑った。
「これで焼けるならお前、俺は今頃焼死体だぜ。いちいち大げさな奴だな、学習能力がねえ」
「何……た、例えだ例え、ものの例えだ、お前こそいちいち人の上げ足取るんじゃねえよ」
「取られるように足上げとく方が危機管理不足だろ?」
 歯を噛んだ中里が、右手で自分のうなじをさすりながら睨みつけてくる。怒りや憎しみに基づいた力が入ったその目に見据えられていると、なぜだか勝手に頬が上がる。慎吾はおそらく相手の胸糞を悪くするであろう薄笑い浮かべながら、右手にしっかりと握り込んでいたスチール缶を、中里に放った。それを胸元で、慌てて落としかけながらも無事に受け取った中里は、不審を顔中に広げた。その面から悪意が見えなくなると、手ごたえも感じられなくなり、笑みを引っ込めた慎吾は、やるよ、と中里の胸元を指差した。
「冷たいの買おうとしたら、あれだ、押し間違えた。ボタンを。俺としたことが。冷めるまで待つ気もねえし、捨てんのも勿体ねえし、お前適当に処理しとけ」
 中里は缶をくるくる手中で回しながら、表情にも目にも不審を満たしたまま慎吾を見、訝しげに言った。
「こんな寒い日に、冷たいコーヒーなんて飲む気だったのか、お前」
「そんな寒くもねえだろ、今日なんて」、と、厚手の長袖のシャツの上に厚手のパーカーを着込んでいる慎吾は、本心から言った。秋は深まっているが、凍えるような冬はまだ遠い。一方黒いセーター一枚の中里は、缶を両手で握りながら、「腹壊すぜ」、とどこか物憂げに言った。その雰囲気が何のために生まれるか察しそうになり、「飲んでもねえのに誰が壊すよ」、と言い返すことで、慎吾は思考を現状に引きずり戻した。
「お前はマジで物事を一つ一つ大げさにしなくちゃ気が済まねえ野郎だな。俺には理解できやしねえ」
 そうしてこちらこそが大仰に言ってため息を吐くと、不快そうにその眉根が寄せられる。それを見ると、身を潜めていた楽しさがここぞとばかりに飛び出してきて、慎吾の頬はまた上がる。それを見た中里は、益々悔しそうに、辛そうに、歯がゆそうに顔をゆがめる。
「俺は別に、お前にそこを理解されてえとも思わねえよ、慎吾」
「俺も別に理解してえとも思わねえし、したくなってもできねえだろうけど」
 ささやかな、話の流れ上の社交辞令的なものであっても、相手への気遣いなど、これまで過度に敵対していた互いの関係を考えたら、大っぴらに挟むべきものでもないのに、ごく自然にそれをなそうとする男についてなど、慎吾には理解できなかった。いや、理解してはならないのだ。共感すら、遮断せねばならない。でなければ、余計なものが入りすぎる。
 それを分かっていない男は、話を額面通りに受け取って、ふん、と不満げに顔をしかめるだけで、また、
「後から金払えだの何だの、卑怯なこと言ってくんじゃねえだろうな」
 と、言いがかりをつけてくるのだった。そのおめでたい頭に再度のため息をやって、あのねえ中里サン、と慎吾は今度は警戒心を浮き上がらせているその顔を下から覗き込んだ。
「俺はお前ほどケチじゃねえの。人と地球に対する優しさに満ち溢れてるんだよ、俺ほど優しい男はお前、この世にいないぜ。マジで。だから限りある資源は有効に使おうって、貧相なお前にこうして施ししてあげてんじゃねえか。んな疑うんじゃねえよ、人のことを」
 半分ほど嘘を交えながらの慎吾のその話を、しかし更に顔をしかめた中里は、誰が貧相だ誰が、と内容をさて置いた。
「お前の方がよっぽど貧相な体つきだろ慎吾、お前は肉を食え、肉を」
「ああ?」
 と、咄嗟に慎吾は、
「おい毅、俺とお前の体重そう変わんねえだろうが、貧相さだったらお前、だから互角のはずだぜ」
 と、反論してから、いやそもそも貧相じゃねえしそっちの貧相でもねえし、と思ったのだが、それを言う前に、「見かけだよ」、と中里が声を出してきた。
「お前顔はでけえくせに、いや顔がでかいからか? 首から下は骨と皮だけみてえじゃねえか」
「はあ? お前俺の体を見たことあんのかよ」
「夏場は腕だの足だの出してただろ。なまっちろい」
 堂々と人をそしる中里に対し、苛立ちを覚え始めていた慎吾であったが、先ほどからの会話で気分が上向いていたことは否めなかったためと、あまりに堂々としている中里を見ていると些細な問題を気にするのも億劫になったため、今日何度目になるか知れないため息を吐いてから、上目に中里を見た。
「お前よ、何気に俺にヒッドイこと言ってるって自覚あるか?」
「お前と俺の発言比べりゃ、五分五分だろ。俺にひどいことを言われたくねえならな、まず慎吾、お前がその口を改めろ」
 自覚があるだけにタチが悪いとはこのことだろう。慎吾は顔をしかめた。
「俺がこの口改めたら、お前は俺に優しくなるってのか」
「……そりゃまあな」
 何となくの後悔を漂わせながら中里は言った。慎吾はしかめた顔を解き、もう一つため息を追加した。
「毅、思ってもねえことを言うってのはマナー違反だと思うぜ、俺は」
「思ってもねえって、思ってるぜ俺は、失礼だなお前は。俺に二言はない、やることやってるヤツを一方的にこき下ろすような鬼畜なマネもしねえ。つまり全部はお前の心がけ次第だ」
「身のほど知らずにやたらと偉そうだな、お前」
「俺は事実を言ってるだけだ」
 気遣いも謙虚さもなくなってきたその中里の言い様を、救いようがないと思うとともに、快くも感じ、事実ねえ、と慎吾はにやにや呟いた。
「それにしても、『心がけ』とやらの基準が分かんねえな」
「基準?」
「どれだけしたら俺の優しさがお前に通じるか」
「余計なことを言わなけりゃ、それだけで十分だ」
「余計なことって」
「ケチだの貧相だのと」
 余計なことしかしない奴に、余計なことを言うなどと言われたくはない。何言いやがる毅、と慎吾は眉を寄せつつ言い返した。
「それこそが核心で、レッキとした真実じゃねえか。ホントのこと言われたからってクサクサすんなよ。ケチで結構、金がたまる。貧相で結構、男はハートだ。ほら、つまり俺はお前を誉めてんだよ中里サマ」
「だから俺はケチでもねえし貧相でもねえっつってんだろ、何回他の奴らに奢ってると思ってんだ、どこがケチだ、この肉体のどこが貧相だ!」
 中里は自分の体を見せつけるように両手を広げた。へえ、と慎吾もそれを倣うように両手を広げた。
「お前が貧相じゃねえなら俺も貧相じゃねえぞ、見ろこの立派な体を」
「服で見えねえよ」
「俺だってお前の見えてねえんだよバカ、っつーかお前普段オーラだなんだつってんだから、透視くらいできんだろ。さあ頑張れ」
「俺は超能力者じゃねえ」
「何だつまんねえな、せめてテレパシーくらい使えろよ」
「お前、俺を何だと思ってやがる!」
「お前こそ俺を何だと思ってんだ。人の話を逸らしたと思ったら貧相貧相難癖つけてきやがってよ」
 む、と中里は言葉に詰まったようだった。慎吾は両手を下ろし、まあいいけどよ、と右の頬を上げた。目の前の男の、後悔と困惑と不満が渦巻いている顔を見たら、それだけでウッカリもミスではなく思えるものだ。ケチだの貧相だの、そんな本気の入らない言葉遊びなど、どうでも良くなる。ひとまず満足した慎吾は、体についてはまた夏にな、と嘲弄するように言ってから中里に背を向けた。満足していた。自分に対する悔しさも憤りも失せており、爽快な気分のまま足は動いた。
 そこで、
「コーヒーありがとな」
 と、後ろから声がかかってこなければ完全だったが、聞いてしまったものは仕方がないので、慎吾は振り向くと、
「感謝が足りねえよ」
 と無理矢理嘲ってやり、次の瞬間にはもう、その存在を意識から除外した。結局、損益は合わせてゼロとなった。



トップへ