親切交換



 山は平穏だった。皆は楽しそうに車やバイクを乗り回し、機械談義に花を咲かせている。いさかいもなければ車のトラブルもない。素晴らしく平穏だった。あまりの平穏さに、中里の顔はにやけていた。同好の士と趣味に没頭できる幸せは何ものにも変えがたい。もうしばらくはこんな日々を続けていたい、と深く思う。
 ただ贅沢を言うなれば、集まる人間にもう少し上品さが欲しいところだ。野性に返っていないからまだ良いものの、パッと見サルかと間違えてしまうような男たちもいれば、犬や猫や鷲、ヘタをすればカメレオンやクモに見えてしまうような野郎どももいるため、ふと自分は動物園にいるのではないかと錯覚することもある。
 ここで狼やライオンが出てくればまだ格好もつくのかもしれない。だがそこまでサマになる男もそうそう転がっていないのが現実だ。人材不足は深刻だな、と思った中里が顔をしかめて目を動かすと、丁度斜め前方にいたクモのような雰囲気を持つその男と目が合ってしまった。その目は明らかに『こいつはバカか』と言っていた。それは不当な評価だ。そして目が合ってしまった以上無視することもできない存在感が男にはあった。
「おい、何か言いたいことがあるなら速やかに言え。聞いてやる」
 声をかけると庄司慎吾は面倒くさそうにずるずると歩いてきて、一歩半ほど間を空けた位置で止まり、小難しい顔をして言った。
「一人で百面相やってんじゃねえよ。恐えぞお前」
「別に、誰に危害加えるわけでもねえだろ。いいじゃねえか俺がどういう顔をしていようが」
「良くねえよ、山の景観が損なわれる」
「そりゃ自分の顔を鏡で見てから言え」
「俺のこの顔は生まれつきなもんでどうにもならないんですよコラ」
「なら俺のこの顔だって生まれつきだ。文句を言うな」
 慎吾は軽く両肩を上げてから、相手にしてられないというようなため息を吐いた。
「毅、もう少し周りを見る目を持て。自分がどう見られてるかっつー、客観的な視覚っつーの?」
「お前に言われるまでもねえよ」
「なら俺言ってねえっての」
「人のことをとやかく言う前に自分のことを省みろ」
「俺は過去にはこだわらねえんだ。今が良けりゃあパーフェクト」
「ガキが分かったような口叩くんじゃねえ」
「ボクは一応二十過ぎてんでね。ガキ呼ばわりはやめてくれオッサンよ」
「誰がオッサンだ」
「この前しゃがんで話してた時、立ち上がんのに掛け声出してたじゃねえか」
 上着のポケットから出したよれた煙草を唇に挟み、左手で風避けをし右手でライターを操って素早く煙草に火を点けながら、それで十分だろ、と慎吾は言った。中里は黙った。出していたような気がしないでもなかったからだ。最初の煙を吐き出した慎吾は、一つ足を踏み出し間合いを縮め、人差し指と中指の付け根で挟んだ煙草で中里を指すようにし、同情と優越感を剥き出しにして笑った。
「寄る年波にゃあ勝てねえってな。観念しとけ、中里サン」
「何かやる時には、誰だって少しくらい掛け声は出すぜ」
「いっやー、若いんならため息つきながらってのはなかなかねえだろォ」
 中里は慎吾の柄の悪い笑みを睨みつけてから、その顎、首、胸へと視線を落とし、ふと気付いて、顔に目を戻した。慎吾は余裕たっぷりに煙草を口に咥えている。中里は一つ鼻で笑うと、間合いが縮まったためすぐ傍にきた慎吾の腹を右手の甲で軽く叩いた。中里のその手を不思議そうに見てから顔を上げた慎吾に、中里は負けようがないほど柄の悪い笑みを浮かべながら言った。
「お前の方こそ、その若さでその腹はやべえだろ」
「あ?」
 ビールっ腹だ、と言いながら中里は右手を握り、今度は多少の力をこめて腹を叩いた。慎吾はその拍子によろめき、口から煙草を落としそうになり慌てて右手で摘み取って、あッぶねえな、と大声を出した。
「貴重な煙草を危険にさらしやがってお前、イキナリ何すんだよクソが」
 慎吾の非難も右耳から左耳へ通り抜けさせて、中里は腹を叩いた右手を今度はその顎に持っていき、頬と一緒にガッチリと掴み、目を細めた。
「肉がつきすぎてるし、肌も荒れてる。不摂生が過ぎてんじゃねえか」
「これは地顔だし、若いうちにやれることはやっとけってのがウチの家訓だ」
 顎と頬を固定されたままモゴモゴと、だがいたって冷静に喋る慎吾の口をじっと見て、中里は眉を厳しくした。
「こりゃまたひでえ歯だな。まっ黄色だ。歯ァ磨いてんのかよ」
「悪いが俺はこの人生で、一度も歯医者の世話にはなってねえ」
「しかしこの色はひどい。煙草は控えろ、健康に毒だ」
「てめえは俺の健康アドバイザーかっつー、のッ」
 言って慎吾は中里の右手を蚊を殺すように叩き落し、返し刀のごとくデコピンを食らわせた。切られたような強烈な痛みに額を押さえてよろめいた中里を満足そうに眺めた慎吾は、左手に持ち替えた煙草を吸い、まあ、と煙とともにいかめしく言った。
「俺も煙草は二十歳になったらやめようと思ってたんだけどな。これが案外どうしてなかなか難しい」
 いや二十歳からやれよ、という額を押さえながらの中里のツッコミは当然のごとく無視された。
「でも最近は量減らそうと頑張ってんだよ、何せ金がかかってしょうがねえ。っつーかセッタ吸ってるお前に言われたくねえし」
「俺もここんところは吸ってねえよ」
 慎吾は思い切り顔をしかめ、何? と大きく口をゆがめて言った。
「節煙だ。それなりに続いてる。完全に禁煙はできてねえけどな」
「へえ……やっぱ肉体の衰えには勝てねえか」
「ちげえよ、やっぱ煙草吸ってる男が好きな女の子はそんないねえだろ」
 中里が痛む額を掻きながら言うと、慎吾は足が六本あるカエルを発見してしまったような複雑の顔をした。
「毅、何でそんな風に思うんだ」
「普通そうじゃねえか。金はかかるし匂いは取れにくい。口もくさくなる。そうまでして好きって子がこの世に山ほどいるとは思えねえ。男が憧れんのは分かるけどよ。フェラーリだってマルボロだ」
 慎吾は神経質そうに耳の後ろを撫でて鋭く息を吸い込むと、一拍置いてから、俺はな、と演技めいた声を出した。
「前に付き合ってた女にこう言われたことがある」
「何だ」
「『アタシ、慎吾のキスが忘れられないからマルボロ吸い始めたの』、ってな」
 顔を覗き込みながらご丁寧に声を高くしシナまで作って言った慎吾を、中里は複雑な思いで見た。
「お前……オカマの真似、うまいな」
「カマやったんじゃねえよバカ、っつーかそりゃどうでもいい。つまりはな、好きんなっちまえば香水の匂いだろうが煙草の匂いだろうが小便の匂いだろうが、何だってイイもんに思えるってことだよ。お前が煙草吸ってようがいまいがんなこた大して関係ねえ、そんなのオプションの一つなんだ。それに何夢見てんだか知んねえが、煙草吸う女だってゴロゴロいる。変な理屈で変な努力したって意味ねえっての」
 それは納得できる言い分ではあった。しかし肝心なのはそこではない。中里は慎吾の頭を通り越し、曇った夜空を眺めながら呟いた。
「好きんなってもらえんなら、そりゃそうだろうがな……」
 慎吾は少しの間中里を見ていたが、そののち中里の頭の向こうの空に目を移し、「その前の段階か……」と呟いた。現実の厳しさが空気を重くした。雲の流れを追いながら短くなった煙草を最後まで吸い切って地面に捨てた慎吾は、うん、と数回頷き、左手で中里の背中をそっと叩いた。
「まあ何だ、俺はセッタの匂いは嫌いじゃねえよ。悪くはねえし、そういう匂いのキスもイイもんだ」
「お前が嫌ってなくても意味ねえよ、お前とやるわけでもねえし」
「人の慰めは素直に受け取るもんだぜ。何だったらキスの一つや二つしてやるよ、減るもんじゃねえ」
「俺が減る」
「……お前は何つーか、俺の貴重な親切をことごとく切り捨ててくれるよな」
「確かにお前の親切は貴重だが、俺にも選ぶ権利はある」
 慎吾は他人を嘲るような自嘲するような笑みを浮かべて、よれた煙草をまた取り出して素早く火を点けた。そして煙を細く吹いて煙草を指で摘むと、それを少し鑑賞するようにしてから、っつーか、と中里を見た。
「お前の歯だって黄色いんじゃねえかよ」
「お前ほどじゃねえよ」
「なら見せてみろ」
 中里は言われた通りに歯を合わせたまま唇を開け、横に伸ばした。それをじっと見て頷いた慎吾は、歯ァ開けろ、と自然に言った。その自然さにつられて中里がまた言われた通りにしたところ、慎吾は右手で摘んでいた煙草の吸い込み口を中里に向け、そのまま中里の口に突き入れた。そして左手の甲で顎を下から押し上げて中里にその煙草を咥えさせると、パッと手を離した。中里は反射的に煙草を落とさないように口に力をこめ指で支え、吸い込んでいた。吸い慣れない匂いが鼻の奥に広がった。煙草を指に移し変え煙を浅く素早く吐き出してから、中里はしかめた顔で慎吾を見た。
「うまいかコレ」
「うまいっつーか、安い割には煙草の味がちゃんとするからな」
 慎吾は神妙に言ってすぐ、生卵の殻を割るようにパックリと唇を割った。
「まあ禁煙に励んでてだ、口寂しくなったらその味を思い出せ。それが俺とのキスの味だ」
「……はあ?」
 中里が顔も口もゆがめにゆがめると、慎吾は一人おかしそうに笑い、そのまま後ろに歩いていき、「お前の歯も俺とタメ張るぜ」と言ってからとうとう背を向けた。
 んなわけねえだろ、と思いながら、指に残った煙草を縦横斜めと見て、勿体ないのでもう一度吸った。キツイ匂いがした。こんな味のキスはしたかねえな、とつい思ったが、まあ悪くはない、と思い直した。
 こんな日々も悪くはない。



トップへ