なじんだ空気
いいから出てけよ、女を見ずに慎吾は言った。一回目は出てってくれないか、二回目は出てってくれっつってんだ、だがテレビのお笑い芸人同士の内輪話を特集している番組に夢中になっていた女に言葉は通じず、三回目にして慎吾は反論を許さない命令を下した。出てけよ。女がそれを納得する理由はなかった。部屋に誘ってきたのは慎吾だし、二人きりでいた最初の三十分ほどはいつも通り、他愛のない毒にまみれた話を笑い合いながら喋っていたのだ。
だが慎吾と三年四ヶ月の付き合いを持つ女は、二回目の「お願いの際に」「いきなり何を」と返そうとして、直後強制力はないが威圧的で反抗を認めない勢いの命令を下され、構うことの無意味さを悟った。この男は気が軽く計算高く女性には大層下手に出るが、一定の親しさを築いてしまうと度々気難しさを露わにした。女も付き合い始めは幾度突っぱねられても怒りの理由や苛立ちの理由を探ろうと食い下がったものだが、どういった場合にも慎吾が何に答えることもなかった。時には詰問し、時には情事の後に優しく尋ね、時には弱みを手にからかい混じりで答えを迫った。そのような繰り返しの末、女はこういった場合に慎吾を説得することは無意味であると理解していたのだった。
わかった、吸いかけの煙草を最後とばかりに一つ思い切り吸い込み、煙を部屋に垂らしながら灰皿でその火種を殺した。コートを抱えて玄関に向かい、「また来るから」と言ってブーツを履く。その間に何か言葉をかけてくるかと女は期待していたが、慎吾が何をすることもなかった。
ドアの開く音をきっかけに慎吾はテーブルにあった雑誌を手に取り、ドアの閉まる音でそれを床にすえてあるテレビに投げつけた。紙のこすれる音と糊綴じの雑誌の角がテレビの外枠に当たる音が仰々しく一人の部屋に響いた。その後の静寂。
クソ、慎吾は呟いた。立ち上がり、何やってんだ俺は、と自問しながら窓を開ける。冷たい風が『待ってました』とばかりに勢い良く吹き込んでくる。寒々しく湿っていて鼻に染み入っていく空気が、部屋に溜まってた厚い香水や煙草や人体のにおいの層を崩し、新鮮さを運んでくる。同時に、血が上っていた頭も冷やされていた。
震えが一つ、そして体に鳥肌が立ちだしたころ、窓を閉め、他人の温度がまだ根強く残っている部屋を確認し、慎吾はベッドに寝転がった。目を閉じて考える。何がそんなに気に食わない?――侵害された。どっちが?――こっちが。何に?――気に食わないものに。
被りかけていた布団を蹴り飛ばし、ベッドの端に座り直すとテーブルにある煙草の箱を叩いて一本取り出す。口に咥えて火をつけて、息で葉を焼いてやり煙を生ませる。そして初冬の透きとおった空気が足元で渦巻いている部屋に、残った煙を吹きつけた。自分のにおいが戻ったことに慎吾は安堵し、それから灰皿に盛られた吸殻に目をやった。女の赤い口紅の名残が見える。流行に左右されないその色が慎吾は嫌いではなかった。女もだ。長い間をともに過ごし、情が移り、生活の基準も重なってきている。少なくとも当分別れる理由は見つけられない。
「何やってんだ」
折りつぶされた吸殻を睨みながら、慎吾は怒りと殺意と郷愁とをこめて呟いた。
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