嫌いじゃない
「あ」、と、ごく私的な驚愕を知らせる声がした。中里は壁にもたれて読んでいた時代小説から目を上げた。ベッドに寝転んでいた慎吾が起き上がり、ああ、と手に余る後悔を口から吐き出し、額を右手で押さえた。中里は本に目を戻し、だが集中力が失われたため、改めて慎吾に目をやった。慎吾は顔を撫で、中里の視線に気付き、差し迫った顔を向け、言った。
「AV返すの忘れてた」
中里は一度の瞬きの間に、本を読み直すことを決めた。どこまで読んだかと字を追っていると、ああ、と慎吾が切ない苦悶を感じさせる吐息を出した。中里は舌打ちし、顔を上げ、そのくれえで、と茫然と前髪を掻いている慎吾に言った。
「いちいち溜め息吐くな。うっとうしい」
慎吾は雨の染みたアスファルトを思わせるじめじめとした目を、不必要な勇敢さを含ませつつ向けてきた。
「八日間、見てもねえのにその延滞料払わなきゃならねえんだぜ。ひでえ話じゃねえか」
「自業自得だ。諦めろ」
「諦めたから溜め息出してんだよ」
「諦めたんなら出すな、やかましい」
中里は紙の上の文字を追うことを再開したが、その意味を把握するまでにはいたらなかった。指には断続的に震えが走った。頭は焦りと苛立ちと不快感とで混濁していた。ついに中里は文化的活動を諦め、開いている部分に紐を挟み、本を閉じた。額がむずむずとし、目だけを上げると、慎吾が淡白な表情を乗せたしつこい顔をこちらに据えていた。中里は詮索されることへの煩わしさを感じ、顔をしかめながらも、混雑からの解放への救いを感じながら、何だ、と言った。
「お前の態度もよ、ひでえもんだな」
「何が」
「冷たいにもほどがある」
表情を動かさず、何の非難も揶揄も要求も甘えも感じさせぬ声で、慎吾は言った。中里は適切な反応を考えることも忘れ、ただ、「はあ?」と言った。
「ほらそういうの、冷てえよな。愛情が感じられねえ」
「何、言ってんだ」
「お前がへこんだ時はいつも俺が優しく慰めてやってるってのに」
「そんな記憶はねえぞ」
「トリ頭が。人にされた親切は百倍にして返せって習わなかったか」
「習ってねえよ」
「否定ばっかだな、お前」
「そういうようなことしかお前が言わねえからだろ。冷たいだの何だの」
「事実じゃねえか、もっと大きく心を持てよ。俺がエロビ借りたくらいで嫉妬するな」
中里は手に持ったままの本を折り曲げかけた。慎吾の顔には真剣さのみが見られ、得意さも侮りも見えなかった。中里は危うく傷付けかけた本を床に置き、理性的な対応を心がけた。
「嫉妬?」
「俺にはお前一人だけだ」
「何?」
「まあそれは冗談だけどな。たまには変り種も見たくなるんだよ。芸術的鑑賞として」
「そんなこと聞いちゃいねえよ。いや、誤解するな、俺は」
「お前は執念深いからな、そういう気持ちを汲めなかった俺が悪いんだ。謝ろう。だからそんなカリカリするな、脳の血管切れるぞ」
「誰がカリカリ、いや、いいか、俺がカリカリしてるのはだな、お前が俺のことを」
「で、鈍感なお前のために俺が優しく説明してやるとだな」
「説明しなくていいから俺の話を聞け」
「お前との蜜月に心を奪われててビデオの存在をすっかり忘れちまっていたと」
理解を促そうとするように慎吾は首を傾けた。中里は混乱と疲労と羞恥のため首を前に垂らし、頭を掻いた。
「お前は、どっからそういう言葉を出してくる」
「口から?」
「聞くな」
「頭から」
「バカか」
「照れるなよ」
「照れてねえよ」
「どうせ二人きりなんだ。思う存分照れてくれ」
「思う存分ってな」
「でもまあそういうわけだから、延滞料はお前が払えよ」
「話が見えねえ」
「俺がお前にかまけちまって折角の大当たりを霞ませた、いや借り損にした、いや良かったんだが、だからそれもこれもお前の体がエロかったからだよ、うん」
「分かんねえってんだよ、そんなことは」
「いいじゃねえか。玄人女に勝つ男。嬉しいだろ」
「ちょっと黙ってろ」
「お前のそういう素直なところは好きだぜ」
「黙ってろっつってるだろうが」
「それを口に出せりゃあもっと評価を高くしてやってもいいんだがな」
「だからてめえは」
中里は怒鳴ろうとしたが、言うべき文句が多すぎたためどれとも選べず、また真実それらが不当であるとも思い切れなかったため、諦めた。まあ、と慎吾はベッドに寝転がり、呟いた。
「嫌いじゃねえよ」
それだけが、すべてを満たして終わらせた。
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