未遂の後味



 朝起きたら隣に見知らぬ素裸の女がいた、というシチュエーションは男のロマンであるが、朝起きたら隣に見知った素裸の男がいた、というシチュエーションではまず己の貞操の危機を心配することが第一である。そして自分のケツが無事であることを知ったのちは、隣の男の垂れているようで引き締まっているケツをそっと窺い、妙な液体や血がかかっていたりしないかと検査し、何ら異常のないことを確定し、やっと一息吐くのだった。
 さて、何でこんな突拍子もない状況に俺いるのか、庄司慎吾はパンツ一丁のままにあぐらをかいて腕を組み考えた。ここは我が家、他人の足を滅多に上げさせることはない秘密の小部屋だ。自分は少なくとも一ヶ月は日の光に当てていない汗の染み込んだせんべい布団で、夏の暑さにタオルケットを足元までずり下げながらきちんと寝ていた。そして隣の男、中里毅殿は車雑誌やら何となく床の上に無造作に飾ってあるバイクのマフラーやらの中で唯一何もない畳の上に、一糸まとわぬ姿で倒れたようにうつ伏せになっている。頬にはおそらくイグサの編目がついているだろう。息子さんにもおそらくイグサの編目がついているだろう。起きたら畳をエタノールで消毒させなければならない。
 のん気に掃除のことを考えている場合でもなかったが、とりあえず慎吾は一服した。焦ったところでこの現状が説明されるわけでもないのだ。一本煙草を吸ってしまうと気分は落ち着き、ここにいたるまでの記憶も少しずつ明確となってきた。
 たまたま自分を含めこの中里と四人ほどのチームのメンバーとの休みが合致したため、カラオケボックスに酒を持ち込み狂乱の宴を繰り広げていたのだ。あとは覚えているがあまり思い出したくはない。限界酒量を皆が超え、普段は深い親交を持たない相手とも何やら語り合い、だからこそ慎吾も普段はいがみ合っている隣の男をこのシークレットベースにまで誘ったのだ。道中二人でスキップやケンケンパをしかねないほどのテンションで歩いていた記憶がある。理性が消え去っていた。家に上がってからも二日酔いを追い出すためという名目で焼酎の炭酸割りを飲み、近所迷惑を考えてもいなかったろうが二人で顔を突き合わせてひそひそと話し合っていた。
 やべえ。慎吾は青春的向こう見ずさと熟年的退廃さに満ち満ちたアドベンチャーの思い出をそこまで辿り、恐る恐るまだ夢の中にいる隣の中里さんの横顔を見て、たまらずすっくと立ち上がった。これはやべえ。車についてや走りについての議論を交わしていたなら、ちょっとノリ過ぎちまったかな程度で終わらせられるが、色んなリミッターが外れた者同士がそこで止まるわけもなく、恋愛についてやら人生についてやらまでを、あろうことか思春期真っ盛りの中学生さながらの必死さを互いでオプションとしてつけて、討論していた。一回の表、コールド負けだ。
 逃げよう、慎吾は狭い部屋をうろうろと五往復ほどしてから、決意した。このままでは会わせる顔がない。一旦家から出て、時間を置いて、何食わぬ顔で戻ってきて、何もなかったかのようにふるまうのだ。もしかしたら外へ出ている間に中里が目を覚まし、空気を読んでそのまま帰ってくれるかもしれない。よし、これでいこう。手近にあったジャージを急いで履きTシャツを被り、さあいざ早朝の町へ旅立たんとしたところで、慎吾は見逃していた現実に気付き、その場にしゃがみ込んで頭を両手で抱えた。この状態じゃあ、俺が疑われかねねえ。何を疑われるかは断定できないが、確実に何かは疑われる。よし、やめよう。男として不名誉な誤解をよりにもよってこの素っ裸の隣の男から受けるのは、プライドが許せない。慎吾は改めてせんべい布団に座り、わずかにいびきをかきながらも寝相良くしている中里を見た。しかし、だからといってこの分からず屋に現状を一から説明するのも面倒なことである。せめて起きたらあらららら、ここはどこ私は誰? くらいにまで記憶を失っててもらえないだろうか。それが何よりお互いのためだ。酔った勢いとはいえ、思い出すだに絶叫したくなるような会話を成功させ、その上この男は、白い肌を赤くして、目を潤ませ、心の汗で頬を濡らしていたのだ。
 何でこうなっちまうんだか。今更寝られもせず、かといって起きて活動する気力もないまま、慎吾は中里だけを見た。服を脱いだのは暑かったからだ。どちらから脱いだのかは定かではないが、片方が脱いだら張り合うように片方も脱いだ。自分だけパンツをまとっていたのは、そこまでするとシャレにならないことを理解する頭が残っていたからかもしれない。その辺りまでいくと記憶もおぼろげだ。忘れているべきなのだろう。何となくその辺りで自分の一品比べっこをしていた気もするが、何となく結果が恐ろしかったような気もするので、忘れておこう。そうだ、忘れておけばいい。例え目覚めた露出狂のこの男が完璧な記憶を持っていたとしても、忘れたふりをしてやろう。それが何よりお互いのためだ。慎吾は酒に焼けた中里の声を思い出しながら、酒に眠る中里を見た。忘れるべきことが多すぎる。ドッキリを仕掛ける気力も出てこない。
 マジでやることやってたら、そう考えて慎吾は粘つく唾を飲み込み、熱い溜め息を吐いた。
 開き直れちまった方が、まだ良かった。



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