落としどころ
漆黒の闇などあってないようなものだった。揺れる木々、夜空に浮かぶ月、細かい星、地面に広がるは車の放つ明かり、機械音、機械臭、化学物質の溶けた空気、そして人間。
その時間、峠は混沌とした場を作る。
妙義ナイトキッズのメンバーは、そのような駐車場に、各自の車をもって散開する。
走り屋のチームとしては比較的犯罪色を強く持つ男を多く有するが、規律と統制は取れており、一部を我が物顔で占領するということは、まずなかった。
過去においては、チーム意識を持つことを下等とする者が多く、また明確な首長が決定していなかったため、揉め事を発生するために存在するようなものだったが、今年夏場に変化が生じていた。
チーム二大実力者たる、日産スカイラインR32GT-Rを駆る中里毅と、ホンダシビックEG6を駆る庄司慎吾が、性格の不一致のため長く続いていた不和を、互いの実力を認めることによって解消、有り体に言えば、仲直りしたことから、チームの結束も高まって、元来体育会系である中里の統率が始まり、相変わらず犯罪者予備軍は多かったが、ナイトキッズはチーム外の人間には危害を加えぬ、表向きは健全なチームへと様変わりしたのだった。
内実はといえば、会話では下ネタと犯罪自慢が飛び交って、けなし合いに殴り合い、陰口の叩き合いなども一部で活発だったが、内輪ならば中里もとやかく言うことはなかった。車を趣味とする同士である以上、最低限のつながりは保たれるのだから、それ以上をどうするかは、個人の自由である。それが中里の考えであり、また中里は、個人の自由として、どのメンバーとも最低限以上のつながりを求めていた。縦も横も構わず、仲間意識を持って他人と触れ合うことが、中里にとって何よりの幸福であり、唯一の他人との交渉術だった。
庄司慎吾との和解は、したがってかねてよりの中里の望みだった。初めて出会った時から、その運転技術は認めており、チームへの加入の誘いも自らしたものである。ただ、強引なバトルと他者への容赦ない口撃は、認めることはできなかった。どれだけ卑劣で卑猥な台詞を発しても笑みを崩さぬ庄司慎吾は、あまりにも過激だった。実力はともかく、その存在を肯定しては、チームに無法者が増えるばかりだと危惧された。
結果、中里は多く慎吾をとがめることになり、慎吾はその都度中里にも牙を剥き、互いに歩み寄ることはなく、中里が秋名において藤原拓海に負け、また慎吾もその少年に負けるまで、互いの間に生まれる険悪な雰囲気が、消滅することはなかった。
中里自身は、慎吾個人を評価している。法に触れることも多いが、何事も己の力で運ぼうとする。それは決して一人ですべてをこなそうとするような自己満足ではなく、うまく周囲を使って、企てをまっとうしようとする、狡猾さと誠実さを併せ持ったもので、到底己は持ち得ないその性質を、中里は妬ましくも、好ましくも思っていた。
それを直接口頭で伝えたのは、中里のGT-Rが工場で修理されている時だった。赤城山では赤城レッドサンズと、栃木のエンペラーとの交流戦が行われている頃で、中里は改まって行く気力を持てぬまま、休日を部屋で寝て過ごしていたのだが、丁寧に鳴らされた呼び鈴を耳にしては無視もできず、開いたドアの先に仏頂面で立っていた庄司慎吾にしても無視できなかった。
交流戦を見に行かなかった理由を、あそこの兄弟は頼りにしてるが癪に障る、として、慎吾は持ってきたコンビニのおにぎりを中里の部屋で食し、勝手に点けたテレビを見ながら我が物顔でくつろいだ。チームにとって不名誉きわまりない敗北を招いたバトル以降、会うことがなかったため、中里は対応に困りながら、寝てたのか、ああ、不健康な生活だな、お前が言うな、という通りいっぺんの会話を何とか交わし、沈黙は刑事ドラマの再放送を見ることで耐えた。そのうち、観戦に行った他のメンバーから慎吾の携帯電話に連絡が入り、通話を切ってすぐバトルの結果を中里に知らせた慎吾は、これで肩の荷降りただろ、無駄に無意味に乗っけてた、と嘲笑して、そこで中里は、怒りも感じたが、それよりもその気遣いへの嬉しさが上回ったため、笑みは作れなかったが、感謝を述べた。それをうさんくせえと慎吾がまた笑ったものだから、つい意地になって、己の見る庄司慎吾という人間についての意見を主張しており、そして笑い続けた慎吾に押し倒されて、スプリングの壊れているベッドがますます脆くなった。
――これでも俺を良い奴っつーなら、俺はお前を尊敬するぜ。
それを言った慎吾の引きつった笑みを見上げたが最後、抵抗する理由を考えられなかった。
尊敬されているのかどうかは知れないが、その行為は、それからも幾度か発生しており、そのたび中里は己の体が受け入れやすくなっていることに少々の戸惑いを感じるが、行為そのものについては、相手なりの欲求不満の解消法なのだろうと納得している。それが始まって以降、慎吾が峠で他人へ生命を侵害するような暴行を加えることも、自棄的な無茶を働くこともなくなり、苛立ちゆえの緊張を発することもなくなって、そうするメンバーを『見苦しい』として制止し出したため、峠は久しく平和になった。
一皮剥けたような落ち着きと、以前と変わらぬ残虐性、幼児性を併せ持つこととなった青年は、中里と二人でいてもその態度を崩さず、ただ、行為に及ぶ場合だけ、疲労を感じさせぬ粘着性を表して、中里は毎度たまらず逃げ腰になるが、慎吾は決して乱暴だけは働かないため、無限に近い時間を費やされて、結局すべては完了するのだった。
一度、ベッドに寝転がったまま煙草を吸っていると、誰にでもさせるのか、と問われたことがある。その時は、お前だけだ、と返してやった。同じ走り屋として、同じ人間として、放っておけないのは、これ以上否定できないのは、庄司慎吾ただ一人だった。それを言ってもなお、慎吾の動きには、繊細さも臆病さも残っており、その執拗さが、屈させることの罪悪感からではないのかもしれないと中里は思い至ったが、しかしそれが何であるか、単なる癖か、尊敬の念か、たわむれかは、今もって把握しかねている。
有望株について語る調子は辛らつだが、顔には愉快さが薄く潜んでおり、楽しそうだな、と笑ってやると、お前の立場を崩すのがな、と笑って返され、中里はむっとした。悪態は洗練されたが、質は変わらない。
隣に並ぶことも、違和感はなくなった。細かい会話も自然に生まれ、自然に消え、沈黙も敵ではなくなった。内輪のいさかいも少なく、後輩は良く育ち、自分たちの運転技術も、精神面も、確実に向上している。悪いことは何もない。だから、タイムアタックの後で、と肩を叩かれても、中里は最早、その先を聞かないし、何度確認されたところで、断ることもない。
それは中里にとって、一つの方法に過ぎず、どこに闇を落とすこともないのだった。
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