優しさ
我が妙義ナイトキッズというチームは、非常に危うい均衡でもって平和を保っている。それが彼の認識である。
否定する人間はいないだろう。乱暴者と無法者の集合体たるこのチームは、いつ何時、峠を駆るのとは違った意味での暴走を仕出かすか知れたものではない。それは真っ当な推量だ。
だが、彼はその点においては、あまり心配はしていない。なぜならば、チームにおいては連帯責任が徹底されている。一人が一般人相手に喧嘩を始めたならば、率先した者は勿論、野次を飛ばしていた者まで一切合財、山へ来ること自体の禁止を言い渡される。
それを宣告し、貫く人間は、峠の最速伝説を築く者であり、またチームの権力者でもあった。
彼の心配とは、ここに尽きる。
現在チームには最速を争う二名がいるが、そのうち一人、中里毅という男が、ヒルクライムにせよダウンヒルにせよ万能的な速度を保ち、権力を行使しており、もう一方の庄司慎吾という男は、ダウンヒルにおいて稀有な才能を発揮している。双方、他の人間が破りがたい記録を打ち立てており、それはチームの人間は勿論、峠へ通い詰めるドライバー、また他の地域の者も知っていることだった。
そして、この二人の仲が、たった一言、『微妙』と表せることも、周知であった。
チームの古参である彼は、中里という男を良く知っている。今は日産スカイラインR32GT-Rを愛車としているが、以前は日産シルビアS13に乗って、彼が太刀打ちできないほどの華麗なドリフトと、丁寧なライン作りを行っていた。情熱的で、多少記録や精神面に波はあるが、平均値は高く、自分を取り巻く者から疎んじる者まで、何者に対しても面倒見が良かった。何より、人間味が強い。彼が中里の技術に惚れたのか人間性に惚れたのかと言えば、双方だと答えるだろう。走り屋としては愚かかもしれない。人格よりも取るべきは速さであり、目指すべきは頂点である。だが、彼はそこまで割り切れるほどに、欲を持っていなかった。彼の持つ欲は、ただ、山を走れれば良いという、それだけだった。だから、高い排気量の四駆に負けたことで、簡単に――傍目から見れば、だ――それまでの愛車を捨て、自分を負かした車に乗り換えられるほどの、勝利と速さに対する貪欲さを持つ中里が、彼は好きだった。
さて、彼が我がチーム妙義ナイトキッズの平和は非常に危うい均衡でもって保たれていると考えるのは、その中里と、もう一人、庄司慎吾が織り成す関係のためである。この二人、以前は反目し合っていた――というよりは、庄司が一方的に中里を敵視して、周囲の人間がそれを煽り、中里も煽りを受けてその気になり、結果的に雰囲気は険悪化、距離を取って、顔を合わせば皮肉の応酬、時には拳も飛び出して、当時は喧嘩両成敗の正式な規則もなかったため、二人は苦虫を噛み潰したような顔でもって、峠へ出向いていた。
しかし、現在はそういうことはない。顔を合わせれば嫌味を交わしたりもするが、手も足も出ることは一切ないし、何の気兼ねもなく会話をこなし、時には冗談を言って笑い合っていたりする。至極健全な関係である。すべては二人が敗北から学んだことだろう。秋名のハチロク、高橋啓介、そしてエンペラー。特に地元での負けは、中里を意気消沈させ、口数の多い庄司を黙らせた。二人の関係が『悪』という文字を連想させることがなくなったのは、それからだ。いつの間にか、大っぴらにはしないが、互いを支え合うようになっていた。
彼はそれを頼もしく思っていたが、同時に、今のその二人にこそ、問題があると捉えていた。
一方の庄司慎吾という男についても、彼は良く知っている。何かにつけて下卑た物言いを選択し、話題にするといえば犯罪か女か賭け事かで、物事を大きくすることが大好きで、目的のためならば卑怯な振る舞いも辞さない強靭な精神を持っている。だが、それは表向きな部分で、少人数での会話では、冷静な批評や機知に富んだ喋りをし、途方もない車への愛情を感じさせる。他人の小さな動作が気になるような感受性の強さと繊細さも見せるし、自滅するほどの博打をしない小心さもある。悪人と言っても差し支えはないが、そう言い切るには優しい男だった。
その庄司慎吾こそが、庄司と中里との関係――すなわち妙義ナイトキッズの安定においての、鍵を握っているのだ。
例えば、こんなことがあった。
彼はいつものごとく仕事帰りに山へ来て、対向車のいない状況で何度か走り、その後は仲間数人とだべっていた。庄司もそこにおり、関節の話になっていた。何かの折に、中国雑技団かよ、と一人がつっこんだがためだ。やれ俺は柔らかいだの俺は硬いだのと自慢が始まり、話は方向性が定まらぬまま進んだ。
「君な、股関節が柔らかいのは良いことなんだぜ」
「ヤる時硬いと困るもんなあ、痛がられて」
「あー、開けねえよな、お前どっちでいてえんだよっつー」
「どっちってどっちよ」
「そう考えると処女より体かてえ女の方が嫌じゃね?」
「バッカおめえ分かってねえな、柔らかすぎると怪我しやすいんだよ」
「え、そうなの?」
「力加わった時に、こう、ゴキッとな、関節にそのまんま力かかるじゃねえか、筋肉ないと」
「でも硬すぎてもダメだろ」
「だからアレだべ、大事なのはバランスなんじゃね?」
「っていうか中国のアレは一人フェラできねえ?」
「お前見事に話を変えるな」
「あー俺も思ったゼッテーやってるってアレ一人クンニも」
「ゼッテーかァ?」
「そういう観点から物を見ると、また新鮮だってことだろ」
「いやいやお前まとめたような顔しても全然まとめてねえからソレ」
「俺自分で咥えようとして怪我しかけたことあんぜ」
「まあそりゃバカだな」
「バカだな」
「えええ、ちょっと待てお前ら一人はやったことあんだろ! 男のロマンだろうが!」
「そんなロマンは知らねえな」
「っつーか自分で自分の咥えるくらいなら、女に咥えてもらうだろ?」
「正論」
「ハイ、庄司サンに三千点」
「ああッ、てめえら裏切りやがって!」
と、テンポ良く言葉が飛び交い、哄笑も上がった。彼も笑っていた。やがて眉の薄い一人が、っつーか俺、肩が硬いんだよな、と首をごりごりと回した。凝ってんの、と隣の仲間が言い、僕はデスクワークだからね、と眉の薄い一人はインテリ風に言った。
「毎日毎日パソコンと睨めっこ、もう血行悪くなりまくり。こういう手当ても出してもらいたいね」
自分の肩を右手で揉みながら、はあ、とため息を吐く。すると、
「じゃあ俺が揉んでやるよ」
と庄司が言い、吸いかけの煙草を彼に押し付け、肩凝り男の後ろに回った。皆、一様に黙った。庄司は肩凝り男の首に触りながら、「あ?」、と訝った。
「何だお前ら、その何か言いたげな沈黙は」
「えー、だってえ、慎吾クンがそんな親切ありえねーんだもーん」
とは庄司と悪友である男の言で、「裏があると思うのが正当だな」、とは押し付けられた煙草をとりあえず吸ってみた彼の言で、「むしろ急所押して殺す気だろ」、とは声の大きな仲間の真面目な言だった。
「ええ、やめてよ庄司クン、俺まだ千人切り達成してないのよ」
庄司に首を押さえられている肩凝り男は怯えたように言い、安心しろ、と庄司は不敵に笑った。
「そいつらがいくら無実な俺のことを滅多クソに言いやがりようとも、俺の半分は優しさでできてるんだ」
「バファリンかよ」
「こいつ生理痛かよ」
「残り半分なんなんだよ」
「残り半分は、推して知るべしだろ」、と、かかるつっこみへと庄司は笑いを引っ込めて言い、肩凝り男の首から肩にかけてを撫で始めた。男は心細そうな顔をしていたが、庄司が指圧を始めると、目を閉じて恍惚の表情を浮かべた。
「あー、庄司サン、いいよ、そこ、最高」
「何変な声出してんだよお前」、と一人が大きく笑う。いやマジいいわこれ、と男は目を閉じたまま呟いた。へえ、と庄司の悪友が感嘆の声を上げる。
「慎吾、お前いつの間にそんな技術身につけてんだよ」
「昔からだよ」
「マジで? 知らねえし俺」
「言ってねえし。昔からな、俺のご家族が、俺に命令してくるわけだよ」、と男の首、肩、背中をマッサージする手を止めず、庄司は答えた。「百円やるから肩揉めだの腰揉めだの足揉めだのとな。だったらもっと賃上げしようと思ってよ、わざわざ勉強したんだ」
「へー、庄司クン、勤勉だねえ」
「こうすりゃ合法的に女に触れるしな、と」
マッサージを終えた庄司は男の背中を押しながら言い、押された男は、それかよ、と片方の肩を回しながら笑った。
「それだよ、決まってんじゃねえか。うまく感じさせたらそのままエッチに持ち込めんだぜ」
「うわ、役得」
「疲れるけどな、色々」
庄司は白々しく言う。
「いいなあ、俺もそんな甘いひと時味わいたいなあ」
「っつーかそういうのって玄人っぽくね?」
「バカお前、処女を無自覚なまま感じさせんのが粋じゃねえか」
好みを語る仲間に、庄司に押し付けられた煙草を吸い終えた彼が、お前処女好きだな、と言うと、青田買いってヤツ?、と一人は首を傾げ、うん全然違うと思うよソレは、と一人が言った。その間に、ああスッキリした、と肩凝り男が安らかに息を吐き、庄司は男の腰に手を回していた。正確にはそこは尻で、
「じゃ、これ貰うな」
と、庄司は男のジーンズの尻ポケットに入っていた煙草を取っていた。うわあッ、と男が両手を頭に当てて、驚愕のポーズを作る。
「お前、それ、俺の最後のケントだぞ!」
「タダで気持ち良くなろうなんざ、世の中分かってねえガキだぜ」
「おおコラ、仲間からぼったくろうってか、ああ!?」
「ぼったくるってお前、何もタダでヤれますよっつって後から指名料やら何やら取るわけじゃねえんだから、そんなぎゃーぎゃー喚くなよ」
「俺はヤれた方がマシだ!」
「ババア相手でも?」
「穴がありゃ何でも同じだよ!」
二人が不毛な言い争いを始めたのに、処女のアリな点とナシな点を議論していた彼らも気付いた。
「お前ら、何騒いでんだ」
また、近場で他のメンバーの車を検査していた、中里も気付き、彼らよりも先に、二人を制しにかかっていた。俺が騒いでるように見えるかよ、と庄司はやはり白々しく中里へ言い、おい中里ォ、と肩凝り男は泣きついた。
「お前からも言ってやってくれよ、庄司の野郎、この俺を相手にぼりやがった!」
「そりゃ、こいつを信用したお前も悪いな」
おおい!、と肩凝り男が悲鳴を上げ、「だが」、と中里はその迫力のある目で庄司を見据えた。
「騙したお前が一番悪い」
「騙してねえっての」
「じゃあ何をした」
「こいつが肩凝ってるっつーから、揉んでやったわけよ。んでお駄賃をいただいた。それだけだ」
肩をすくめた庄司をじろりと睨んで、どうせいただいたんじゃなく騙し取ったんだろ、と中里が呟くと、まあそりゃ否定はしねえな、と庄司は軽く言った。以前ならば、ここで互いの欠点を言い募るまでになっていたものだ。だから、他の人間は、また始まった、とばかりに平和ボケしている。彼もこの程度であれば、構えずに済む。そして男は中里にすがった。
「中里、そりゃな、こいつのテクは俺も参っちまうほどすごかったぜ、けどなあこいつが俺のポケットからギりやがったのは、給料日まであと三日で五百五十三円しか入っていなかった俺の財布からようやくひねり出した金で買った、俺の最後の人生の糧のケントなんだよ。ひでえと思わねえ?」
「……お前の生活設計もどうかと思わないわけでもねえが、ひでえな」
「だろ! おい庄司、中里に嫌われたくなかったさっさと俺のケントちゃんを返しやがれ!」
肩凝り男は中里の威を借って、胸を張った。いや、と庄司は平然と言い放った。
「俺、別にそいつに嫌われてもどうでもいいし。っつーかこれは労働に対する正当な報酬だ」
「詐欺だ詐欺、ボッタクリ商法だ!」
「でもヨかっただろ?」
「それは認める」
「じゃあいいじゃん」
うん、まあいいか、と男は頷いてから、んなわけねえだろ!、と何の意味があるかは不明なノリツッコミをした。彼らがはたで笑い合っていると、中里は律儀に事態を丸めようとした。
「どっちの言い分も分かるがな、慎吾、肩揉むくれえで金だの何だの取る必要もねえだろうが」
ため息交じりの中里の言葉に、ほお、と庄司は嫌らしい笑みを浮かべた。
「お前、マッサージを生業としている人間は、金を貰うに値しねえって言いてえんだ。なるほどねえ」
「んなこと誰も言ってねえだろ、仲間内でやることにいちいちくだらねえもん持ち込むなっつってんだ」
「親しき仲にも礼儀ありって言葉知らねえのかよ毅、無知は罪だぜ」
庄司は楽しそうに言い返し、中里は苛立たしそうに言葉を重ねる。周りの人間はにやにやとそれを眺める。飽きないやり取りだ。庄司の揚げ足取りは一流だし、中里はそれをわざわざ受け止める。二人にしかかもし出せない、完成された空気がそこにはあった。こうした通常の言い合いこそが、普通を象徴してくれる。
「お前に諭されるまでもねえ。俺が言ってんのは、義理と金勘定を分けすぎるなってことだ」
「明確に分けてこその、友情努力勝利、ってヤツじゃねえの?」
「何だそりゃ」
「っつーかそういうのは個人の信条の問題じゃねえか。俺にはお前にそこまで言われる筋合いねえけど」
「お前がどれほどの腕前を持ってるかは知らねえが」、と焦れたように中里は言った。「プロでもねえのに金を取るってことが意地汚えんだ」
庄司は一拍置いてから、ふうん、と関心なさげに頷き、なるほどな、と言いながら、中里に近づいた。中里は厳つい顔になり、何だ、と眼前まで迫った庄司を睨むが、庄司はどこ吹く風で、「じゃあ俺の腕がどの程度のものか」、と中里の後ろに回り、その首筋に手を当てて、耳に口を寄せ、
「味わってくださいよ」
「――うわッ!」
囁いたのち、中里は前方に飛び跳ねた。あれ、と庄司の両手は空になり、おお、トビウオ、と周りの仲間がなぜか拍手をし、庄司から距離を取った中里は、首筋を両手で押さえ、要らねえよ!、と叫んだ。その耳が、どうも赤くなっている。ああ、と彼は内心でため息を吐いた。そう、問題とは、これだ。中里は首筋を押さえていた手を振り、無駄に大きな声で主張した。
「俺は、肩を揉まれたりするのが苦手なんだ! むずがゆくて仕方ねえ! それでもやろうとしてくる奴は、蹴り倒したくなってくる!」
危険だなそりゃ、ホントにな、と肩凝り男と庄司の悪友が言い、庄司は開いたままの両手をワキワキとさせながら、何だそりゃ、と顔をしかめていた。
「折角俺の処女も思わず喘いじゃうマッサージを特別価格でやって差し上げようってチャンスを、そんな性癖で逃すなんざ、もったいねえぞ、毅」
「何が性癖だ! っつーか特別価格ってやっぱり金取るんじゃねえか!」
「そうだ。だから騙しちゃいないぜ」
「お前な、自惚れるんじゃねえぞ。言っておくが、これはチャンスじゃねえ。ピンチだ」
「うまいこと言うな」
「本気で思ってねえだろ」
「まあ、お前、騙されたと思っていっぺんやられてみろって」、庄司は両手を下げて、今までとは打って変わって、非常に落ち着いた口調で、明らかに中里を言いくるめにかかった。「俺が滝田のケントを貰うだけのことをやったのかどうかを判断するには、体験するのが一番だろ? 毅、俺はお前がやりもしねえで御託並べるような卑怯な人間だとは思ってないぜ」
そうしてその一言のみで、見事に庄司は中里の肩を揉むことの了承を得たわけだが、それは一見容易く見えても、庄司が中里の攻略法を熟知しているからスムーズに進んだのであって、中里がそれほど理屈に流されやすい男であるかといえば、また別だった。つまり、これほど中里を自分の思う方向に導ける者は、庄司以外にはいない――そうできる者も、そうしようとする者もだ。
そして、いつからかそれがなされ始めたことが、二人の関係を『微妙』という位置に追いやった。
「おい、力抜けよ。緊張するな。何も絞め殺そうってんじゃねえんだから」
改めて中里の後ろに回った庄司が、そっと首筋に触れながら、ぶっきらぼうに言う。中里は不愉快そうだが、戸惑いの濃い顔をしている。周りの仲間はいつも通りににやにやしながら眺めている。彼もにやにやしながら、しかし一抹の不安だけは消せなかった。中里は深いため息を吐いていた。
「絞め殺されるって思う方が、気が楽だな」
「何だお前、自殺志願者かよ。死ぬ時は一人で死ねよ、俺は巻き込むな」
「気の問題だ。誰がお前に殺されてえと思うかよ。むしろ俺はお前を殺したいと思ったことが山ほどあるぜ」
「おいお前ら気ィつけろ、人でなしがここにいるぞ」
庄司が笑って周りに言うと、仲間はどっと笑った。その間、その手はゆっくりと動いていた。会話で中里の緊張を解きほぐそうとしているのか、それとも何の思惑もなくいつも通りにしているだけなのか、彼には分からない。ただ、中里の表情は徐々にだが、柔らかくなっていた。
「人でなしに人でなしとは言われたかねえな」
「俺はお前のこと、一度も殺してえとか思ったことはないぜ。事故って崖から落ちて頭割れて飛び出た脳漿カラスに食われりゃいいと思ったことは何度かあるけど」
死んで欲しいってことじゃんそれ、と一人が指摘し、そうとも言うな、と庄司は笑って、軽く首を揉み始めていた。中里はほんの少しだけ、身をよじった。確かにむずがゆそうだった。だが、庄司は一定の調子でマッサージを続け、手も口も止めなかった。
「でも俺は殺してやりてえとは思ってねえからよ。殺人犯になる可能性はないわけだよ」
「どうだかな」
「お前毅、そりゃ信じてねえな」
「俺は今でもお前の殺意を感じることがたまにあるんだけどよ」
「それは自意識過剰ってヤツだぜ」
あ、でも俺も感じることあんだけど、と庄司の悪友が手を上げると、それは正しいな、と庄司は真面目たらしく言い、よっしゃ当たった、と悪友はガッツポーズをしていた。それでいいのかよ、と彼が笑うと、お互い様ってヤツだよ、と悪友は言い、っつーか、と庄司は話を変えた。
「毅、お前すんげえ凝ってんだけど」
「あ? そうか?」
「気付いてねえのかよ」
「いつもこうだからな。別に肩が重いだとか思ったこともねえし――あ、いて」
「ここまで痛いって、かなり重症だぜ。下手にほぐさねえ方がいいかもな」
「いや、しかし……」
中里は言いよどみ、何?、と後ろから尋ねる庄司に、変な感じだ、と不思議そうに返した。ああそう、と庄司は特に何の感慨もなさそうに言って、じゃあここは、とどこかを強く押したようだった。
「あ、痛い、ような気持ちいいような」
「あー、待てよ、じゃあここだな、これでどうだ」
「あー……ああ……微妙だな」
「これは?」
「い……あ、うん……あー、大丈夫だ」
「大丈夫かよ」
「ああ」
「褒め言葉に聞こえねえな。ほらよ」
庄司は眉の薄い一人にそうしたように、マッサージを終わらせると中里の背中を押し、中里は前につんのめって、彼の前で踏みとどまった。彼は手を差し伸べたが、その時には中里はもう自力で立っていた。
「大丈夫か」
「ああ」
ただの気遣いだったが、庄司とのやり取りがあったため、彼も中里も笑っていた。中里は肩だけを後ろに二度ほど回し、右手を左肩にやると、首も回し、ああ、と様々なものを感じさせるため息を吐いた。
「なるほど、何となく軽くなったような気はする」
「だろ?」、と得意げに庄司は笑った。「料金上乗せしたら、全身やってやってもいいぜ」
「金を貰ってもしてもらいたかねえよ」
中里も笑い、庄司を見た。すると二人は笑みを消し、睨むのではなく、何かを確かめるように見合った。流れる雰囲気が、泥濘のようによどむ。彼が危機感を覚えるのは、そういう時だ。そして中里はジーンズのポケットを探り、何かを手に取って、それを庄司へ放り投げた。受け取った庄司は、指でつまんだそれ――丸い硬貨らしきものを目線に上げ、どうも、と中里に向かって片頬の笑みを送ると、おい、と眉の薄い一人を呼んで、振り向かれたところで、指の間のそれを今度はその男に放り投げた。
「うわ、え、何?」
「中里サンはどうも俺の腕がお気に召さなかったようだからな。そんなんで貰ったって、俺のプライドが許せねえ」
何とか投げられたものを受け取った男は、それを見て、わ、五百円、と喜んだ。庄司は中里に向き直り、なあ?、と同意を求めるように、嘲笑に似たものを浮かべた。中里は面倒くさげに息を吐いた。
「まあ悪くはなかったが、金を取れるもんかと言えば頷けねえ」
「気持ち良さそうな声出してたけどな」
「お前の耳がおかしいんだよ」
「お前もそう思わねえ?」、と庄司は突然彼を見てきた。彼は他の仲間とコオロギについての話を始めかけていたため、一瞬流れをつかめなかったが、すぐに何を問われているかを理解した。そこで、「何が」、と敢えて尋ね返したのは、気を落ち着かせる時間を稼ぐためだった。
「こいつ、結構気持ち良さそうだったろ」
「俺からは何とも言えねえな」
彼は苦笑した。責任回避すんじゃねえって、と庄司は嫌らしく迫ってくる。
「まあ、悪くはなかったんじゃねえの?」
「悪くはなかった。ヤッた後の禁句をズバズバ言いやがるな」
「慎吾、他のヤツに絡むんじゃねえよ」、と中里はうんざりしたように言った。庄司は嫌らしさを損なわないまま、親しげに彼の肩を組んできた。
「俺がこいつと仲良くしてるからって妬くなって、毅」
「お前を焼きたくはなるぜ、俺は。ガソリンで」
「恋の炎をそんなに燃え上がらせてどうすんだよ、お前ちゃんと責任取ってくれるんだろうな」
「慎吾、お前はどういう方向に進みてえんだ」
別に、と庄司は小さく呟くと、興ざめしたように彼の肩から手を離し、ああ疲れた、と背を向け、彼にも中里にも別れを告げるタイミングを与えぬまま、こちらを振り返ることなくシビックへと戻って行った。
「あいつは益々分からんな、最近」
その背を見送り終えてから、中里はしみじみ呟いた。そうだな、と彼はとりあえず頷いた。
例えばそういうことがあったのだ。
庄司は相変わらず気まぐれに中里を嘲笑し、中里は逐一反論をする。繰り返される日常だ。その中里と庄司の微妙な調和によって保たれている平和が危うい均衡をなしていると考えているのは、おそらく彼だけだろう。だが彼はそれを信じている。庄司は何かの我慢の限界を迎えていて、中里はそれを扱いかねている。やがて二人の飽和した関係は別の段階へ移り、チームの雰囲気は変わっていくだろう。それが明日のことか、来月のことか、来年のことか、数年先のことか、あるいは彼がチームにいる間には起こらないか、それは彼には分からない。
分かるのは、ただ、いつかは始まるということだけだった。
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