手を伸ばせば届く



 快晴だった。夜空には半月と数多の星が浮かび、小さな雲が素早く流れていく。山の透きとおった空気が喉に心地良く、オイルの匂いが何とも言えない安堵をもたらす。
「さみいなあ」
 ずずっと鼻をすすりながら、隣で白い顔をしている慎吾が言った。その首には、ご丁寧に黒いぺらっとしたマフラーが巻かれている。上はセーター一枚のみの中里も、そうだな、と頷いた。少なくとも暖かくはない。もう一度鼻をすすり、慎吾がやってられないというようにぼやく。
「クソ、息が白いってのが許せねえ、まだクリスマスも遠いってのによ。サンタ様もやってこねえんだぜ」
「お前が許さなかったところで、寒波が引き下がるわけでもねえだろ」
 春がくれば夏がくるし、夏がくれば秋がくる。そして秋がくれば冬がきて、冬ののちには春がある。それが日本の美しい四季だ。風情がある。今、震えることで体が寒さに対抗しようとしていても、それはそれ、これはこれだと中里は考える。だが、不満を吐き出したら止まらない悪意の塊である庄司慎吾は、お前はだから柔軟性が足りねえんだよ、と人への非難に矛先を変えてきた。
「俺が許さねえってのは心の問題で、それが現実に影響を及ぼすかっていえばまた別の話なわけだ。そんな当たり前のことを混同するような頭を持っているお前こそが寒いんだよ」
「その結論は分からねえ」
 心まで凍てつくほどの冷気はない。ましてや頭。それでも生理的に、中里はぶるりと身を震わせて、変わらず白い息を吐き出した。ほれ見ろ、と慎吾はこれ見よがしに指を中里に突きつける。
「寒いんだろ、寒くて仕方がねえんだろ。もう歳なんだから、大人しくどてらでも着込んどけ」
「仕方がねえってほど寒かねえよ。お前の方こそ、顔色悪くなってるぜ」
「俺の顔色は元々良くねえんだ、苦労してるから。毅、やせ我慢は大人げねえぞ。もう凍えて死にそうだとでも言ってみろ。俺がホッカイロを一枚五百円で売ってやる」
「いちいちおめえは金に終始すんじゃねえっての」
 喋っていると、顔から血が巡っていくような感覚があった。手先、足先まで、心臓から血液が送り込まれ、戻されていく感覚。それが何のためであるのか、中里の意識は把握しなかった。
「金があっての物種じゃねえか」、と唇をすぼめて唾を吐き捨てた慎吾が、地面を見たまましれっと言う。長い前髪に隠れないその割合骨の通っている鼻を見ながら、そりゃ命だろ、と中里は言った。乾いているらしきその唇を舐め、慎吾が髪に隠れかけている目を向けてくる。
「大して差ァねえよ、常識的に。命がなけりゃ金もねえし、金がなけりゃ命もねえ」
「常識的には、金よりゃ命があるべきだろ」
「じゃあ車と命はどっちだよ」
 慎吾は鬱陶しそうに眉間に力をこめ、真っ直ぐと、探るように中里を見た。中里は答えようとして口を開け、できず、そして閉じた。それこそ、命がなければ車はないし、車がなければ命はない、だった。『常識的』には違うと思えど、その観念は人生に染み付いているのだ。はっ、と慎吾が皮肉げに息で笑った。
「マジに考えるなっつーの、んなくっだらねえ選択。人命は地球より重いんだぜ」
 もう一度、頬を歪めながら、慎吾は唇を舐めた。その乾きが見て分かるほどの距離があった。中里は何かどうしようもなく苛立って、舌打ちした。
「てめえが言ったんじゃねえか。大体、サンタも信じてねえくせに」
「お前はまたすっ飛ばした話題を変なところで戻してくるな。ヒデキかよ」
「あ?」
「っていうか、俺はサンタは信じてるぜ」
 珍しく、素直な笑みを慎吾は浮かべた。中里は苛立ちが戸惑いに変換されていくのを感じながら、その不自然な笑みをじっと見た。
「お前が?」
「それでプレゼント貰えんなら、信じる方が得だろ」
 それは何か逆じゃねえか、と中里が眉をひそめると、笑みを消し、逆の逆は正しいからいいんだよ、と自信をもって言い返してくる。つくづく口が達者な男だった。はあ、と中里が吐いたため息は、形が見えた。
「よく考えりゃあ、お前ほど信心って言葉は似合わねえ奴もいねえな」
「よく考えりゃあ、お前ほどモテるって言葉が似合わねえ奴もいねえな」
 見ると、慎吾はにやにやと笑っていた。先ほどの素直さが嘘のようだった。あるいは、嘘だったのかもしれない。今度はため息が勝手に漏れ出した。
「そんなお前にプレゼントをやるほど、サンタクロースも暇じゃねえだろ」
「じゃあお前くれよ、暇だろ」
「お前、クリスマスなんざ関係ねえだろ、俺らには」
「一緒くたにすんじゃねえよ、俺とお前を。っつーか何かくれよ。どうせだし」
 埒の明かない会話に、何がどうせだ、と中里が睨むも、俺も何かやるからよ、と慎吾はどこ吹く風でにやにやと笑っていた。
「要らねえよ、別に。だから俺も何もやらねえ」
「じゃあお前、俺が仮に何かお前にやったとしたら、そのお返しはするんだよな?」
「どういう理屈だよ、それは」
「いやいや、俺はな毅、お前が人の恩を無視するようなヒドイ男だとは思っていないということだ」
 演技めいた口調で慎吾は言った。抜かせよ、と中里は付き合いきれず、足を引いた。
「それに慎吾お前、さっきクリスマスも遠いっつったばっかで、何を話題持ち出してんだ」
「最初に戻してきたのはお前だろ。俺はお前のツタナイ会話技術をカバーしてやろうと思って広げたんじゃねえか」
 物が欲しいだけだろ、と一歩下がりながら目をしっかり開いて言うと、だから世の中金なんだっての、と半身になりながら慎吾が笑った。
「お前もな毅、俺に優しくしてほしけりゃあ積むもの積めよ。まあお前が時代遅れもハナハダシイ人間であることは俺も承知してやってるから、特別に物々交換でも受けてやるけどな」
「要らねえよ」
 断言して、中里は慎吾に背を向けて、己の車へと歩いた。後ろから慎吾の軽い笑い声がしたが、それ以降は何も耳に入ってはこなかった。無駄に火照る顔が、何か疎ましかった。



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