ごっこ



 原因は、あまりに日々が退屈だったからだ。仕事では足腰に痛みが溜まり、全身に疲労が溜まる。客はうるさく厄介で、今までの人生で築き上げてきた精神が、徐々に磨耗していく。それでも最低限は動き、先を生きられるほどには設計を立て、動けている。車に使う金も当座の生活費を犯さぬよう、一応の気は配っている。貯金は微々たるものだが、ないわけではない。人生は上々だ。それでも退屈だった。雪も降り、峠には入れない。車を無闇に飛ばすこともできず、事故のために渋滞に巻き込まれることの方が多い。ここのところ天気が悪く、青空も見えていない。気分は滅入る一方だ。
 だから、つまらねえんだ、俺は。
 煙草を吸いながら慎吾がそう思ったのは午前五時頃で、事を思いついたのは二度寝をしたのち目覚まし時計に起こされた午前七時半だった。
 実行をするつもりはなかった。そもそもそうしたところで自分が何を満足するのか、まったく考えつかなかった。ただ、誘拐という単語に心を惹かれたのだ。そして拉致監禁。高校時代の仲間が、夜道を一人で歩いていた女性をそうして、結局妙な具合に結ばれた挙句、泥沼になったという。拉致し拉致され監禁し監禁される中で生まれる愛憎の嵐。フィクションのようなドラマ性、完全性がそこにあるのではないか。慎吾の胸は高鳴った。人を一人、手のうちに置けるという万能感は、感情に刺をぶち込むような出来事しかない日々の中、清涼剤にもなりそうだった。
 しかしいざ実行してみて、慎吾は困った。つまらないだとか退屈だとかいうことはない。だが、どうしたらいいのかが、一切思いつかないのだ。
 とりあえず中里の右手首に手錠の一方をかけ、もう一方をベッドの枠につないでみたが、その先の計画は立てていない。大体、家に招待をするという一番最初の関門でつまづくものだと想定していた。そのような仲ではないのだから、あっさり受諾されるわけがないと高をくくっていた自分が悪いとは慎吾は思わない。悪いのはそれにも関わらずあっさり招待を受けた、中里毅、この男だ。一人で鍋を食べるには材料が多すぎる、という文句から、男同士で鍋を突っつくというシチュエーションの微妙さを想像はしなかったらしいが、実際に鍋をつっついてみても、微妙であるとは感じていないようだった。それから用意した飲み物に、古い友人から貰っていた、女を犯してもバレないほど強いという睡眠薬を少量混ぜ、提供した。これも効き目は眉唾かと思っていたので、いざ眠られると戸惑った。どうすりゃいいんだよ、俺は。そう思い、しばらく途方に暮れたが、とりあえず誘拐と拉致はクリアしたから、監禁するかと動き、今、枠に右の手首をつながれながらベッドで眠っている中里を、慎吾は眼前にし、そしてやはり戸惑っているのだった。
 じっとそれを見ていたところで何も思い浮かばないので、頭をめぐらせながら、綺麗に食べた鍋を片付ける。食器も食具も何もかもを洗い、流し台もテーブルも拭いて、床に座って一服した。換気が悪いため、二人分の濃い紫煙が部屋を満たしている。体にわりいよなあ、と思いながらも、口も手も止まらない。タールがどうのニコチンがどうのと、昔の彼女に説教されたことがある。別れたのは、こちらの無法さに彼女がいよいよ耐えられなくなったからだった。振られたのだ。もう嫌だ、だのと言われた。割合可愛い顔と、良い体つきをしていた女で、名残惜しかったので少しは食い下がったが、取り付く島もなかった。完全に軽蔑されていたようだった。あのレベルの女は最近抱けていない。だが、金を払わず安全にセックスができるだけ、何かよりはマシなのだろうと思う。世の中女の肌に触れたことすらない男もいるのだから。
 その代表格と見なされやすい男の声が不意に聞こえてきて、慎吾は物思いから脱した。ベッドにまだ寝ているままの中里を見ると、右手を動かそうとして手錠に阻まれ、ガチャリと立った音のため、目が覚めたようだった。目を細く開いて顔をしかめ、自分の右手を見やる。何度か引っ張り、それが手錠によってベッドのパイプにつながれていることを確かめる。それからもぞもぞと上半身を起こし、ようやく中里は慎吾を視認した。その短い髪の一部はあらぬ方向に跳ね、顔は少しむくんでいる。右手をまた動かそうとしてガチャリと手錠を鳴らし、苛立ったように舌打ちすると、左手でガリガリと頭を掻く。慎吾は煙草を吸いながら、その動作をぼんやりと眺めた。つまらなさはないが、特別な楽しさもない。
「……おい、これ」
 右手を見て、少しの間を置いてから、中里は慎吾を不可解そうに見た。ああ、と慎吾は頷いて煙草を吸い、何の意味もなくそこらを見渡してから中里に目を戻し、いや、と呟くと、灰皿に煙草を押し入れ、言った。
「それやったら、少しは楽しいかと思ってよ」
「ああ?」
「でも、あんま楽しいとか、そういうのねえな。何かこう、ハプニングがねえっつーか」
 不測の事態を期待する緊張はあったが、具体的な想像力が働かないため、現実感が希薄だった。慎吾が新たな煙草に火を点け、改めて中里を見ると、ベッドの上に片膝を立てて座りながら、やはり不可解そうな顔をしていた。
「何考えてんだ、お前」
「いや、最近走れねえし、つまんなくてな」
「だから、何でこれだ」
「お前をつまりな、縛りつけておくってことだろ。こう、もっと気持ちがな、この野郎って感じになるかと思ってたんだよ。でも全然なんねえの。むしろ何やってんだ俺らって感じ」
 ならやるなよ、と中里が不満げに唇を突き出す。ごもっとも、と慎吾は頷いた。こんなこと、時間の浪費だ。煙草をいくら吸っても、一人で吸うほどのうまさも味わえない。
「おい」
 と、呼ばれたのは、煙草を灰皿で処理し、また新たな煙草に火をつけ、初めの一吸いを終えた直後だった。見ると、相変わらず中里は不可解そうな顔だった。よく同じ顔をいつまでも作れるもんだと感心しながら、何、と問う。何じゃねえよ、と中里は凄んできた。
「これを外せって。もう俺は帰るから」
 その時、特別不愉快さも苛立ちも感じることはなかったが、何もないまま終わることへの何かに対する不義理さは感じたので、ああ、と慎吾は適当に頷いた。
「後でな」
「後でって、今すぐ外せるだろ」
「めんどくせえし」
「その程度のことを面倒がるな」
「別にいいじゃねえか、命が削られてくもんでもねえんだから」、灰皿に煙草を置いて、酒でも飲もうと思いながら慎吾は立ち上がり、ついでに言った。「それともお前、俺の家にいるのがそんなに嫌か」
 冷蔵庫から缶チューハイを持って戻り、ベッドに座ったままの中里に、ん?、と答えを促すと、嫌いとか好きとかそういう問題じゃねえだろ、と責められたので、ああそう、と再び適当に頷いて、缶のプルトップを引いた。パシュッ、と爽やかな音が上がる。中の液体を一口飲み、テーブル上のリモコンを取って、テレビをつける。どこもニュースを放送する時間帯だった。
「おい慎吾」
 後ろから声がし、何、と放送局を変えながら言うと、だから何じゃねえよ、と苛立ったように中里は声を裏返した。
「テレビ見るならこれを外して、俺を帰らせろ」
「ニュース見てからな。おい、コンビニ強盗だってよ。うちの近くだぜこれ」
 昼のコンビニを映した映像に、地方局の男性アナウンサーが事件の内容を被せていく。そして中里は、そんなことはどうでもいい、と被せてくる。
「おい、こんなことに何の意味があるってんだ」
「何もねえよ。っつーか五分もかからねえんだから待てって、そしたら外すから」
「本当だな」
「本当本当」
 まったくその気はなかったが、鬱陶しいので慎吾は振り向きもせず頷いた。やがて地方のニュースは終わり、慎吾はテレビを消し、置きっぱなしにしていた煙草を吸った。
「慎吾」
 そう呼んでくる声も、段々と鬱陶しくなってきた。かすれ気味の、低めの声。無知を晒すような震えを持つ声。
「分かってますよ、分かってる分かってる」
 慎吾はまだ長い煙草を灰皿で処理し、とりあえず立ち上がってから、ジャージのポケットに入れた手錠の鍵を探った。指先に硬く冷たいものが触れる。いつの間にかあぐらを掻いてベッドに座っている中里を見下ろしながら、慎吾は不思議と己のうちに余裕が生まれているのを感じた。今なら何をしても取り返しがつくような気がし、ポケットに入れた右手を空のまま抜き、それで中里の首にあてがって、頭からベッドに押しつけた。中里は目を見開き、自由に動かせる左手で慎吾の右手首を掴んだ。慎吾は片足はベッドに乗せ、片足は床に置いたまま、中里の頚動脈の拍動を右の親指と人差し指で感じた。その中里が、驚いた顔のまま硬直しているのがおかしくなってきて、慎吾は少し意地悪く笑いながら、まああれだな、と言った。
「こういう状況だと、こういうことも可能ってわけだ」
「……ふざけるなよ、慎吾」
「ふざけてるよ。っつーかふざけねえでこれやってどうするよ」
「なら離せ」
「お前、そんなに俺が信用できねえ?」
 顔を近づけて囁いてみると、あからさまに嫌そうに眉根を寄せる。大体、足は自由にしているのだから、それで腹を蹴るなり股間を蹴るなりされれば、こちらは簡単に引き下がる。それほどこの戒めは軽いのに、何を真面目に怒る必要があるというのか。
「信用できるできねえの問題じゃねえよ。不愉快だ」
「問題をすり変えるのが好きだな、お前は」
「お前が的外れなこと聞いてくるんじゃねえか」
「俺が信用できないから、このまま殺されるかもしれないって不安になってるのかと思ったんだけどよ」
 ギッ、と脳みそを締め付けてくるような目で、中里は慎吾を見上げてきた。ぞくりと背筋が震え、慎吾は唾を飲み込んでいた。
「俺がお前のこと、そんな風に見てると思ってんのか」
「でもお前、俺がお前のことどれだけ恨んでんのかも知らねえだろ」
「恨む? 何を」
「目の上のたんこぶ的なものとかよ。っていうかまあ、それが全部だけど」
 殺したいと思ったことが何度かあることも、この男は知らないのだろう。そう思うと、慎吾は知らしめたくなった。触れていただけの首を、しっかりと掴む。力を入れる。おい、と中里が潰れた声を出した。
「やめろ、馬鹿野郎。離せ」
「このくらいは大丈夫だろ。あ、でも血管があれか。頭に血がいかなくなんだよな」
「慎吾」
「分かってるよ」
 掴んで十秒も経たぬうちに、慎吾は中里の首から手を離し、ベッドを降りた。中里は数回咳をしたのち、上半身を起こし、背中を丸めてあぐらを掻いた。この男を殺したいことは何度もあった。だが、今実際首を絞めかけても、興奮よりもまず、恐怖が先に立っていた。時機は既に、通り越してしまったのだ。慎吾はポケットにもう一度手を突っ込み、手錠の鍵を取り、中里の右手の戒めを外してやった。手錠と鍵は一緒に箱にしまい、ベッドの下に蹴り入れた。中里はその間にベッドから降りていた。立ったまま、向かい合う。居心地悪そうに肩をすくめた中里が、咳払いをしてから言った。
「鍋、うまかったぜ」
「ああ。悪かったな」
 自然に慎吾は言葉を返していた。中里は眉を上げ、いや、と首を揉み、目を泳がせてから、もう一度肩をすくめた。
「最初から言ってくりゃあ、ごっこなら付き合うっていう手段もあったけどよ」
 ごっこ、という言葉の響きが滑稽で、それも嫌なプレイだな、と慎吾は苦笑した。プレイとか言うなよ、と中里は非難めいた口調で言い、上着に腕を通してから、ああ、と思い出したように見てきた。
「お前、くれぐれも女の子にああいうことはするなよ。失礼だ」
「でも、女の方がノリいいこともあるんだぜ」
 そう言って笑うと、中里は大げさに顔を歪めた。この男には信じられないかもしれないが、あの手錠も、元は前の前の彼女の置き土産だ。望まれたからしてやった。あの頃はそれでもまだ、楽しかった。
「けどいきなりってのは、いきなりだろ」
「そのまんまだな。っつーかお前、人の注意より自分がそれできるくらいまでなんねえと、やべえだろ」
「お前に言われることじゃねえよ」
「だったら俺もお前に言われることじゃねえし」
 帰る支度を整えた中里に、そうして苦笑を送る。まあな、と中里は納得いかぬように頷くと、じゃあまた、と玄関へ向かった。慎吾はそれを見送らず、ベッドに腰かけた。人の動く音、玄関のドアが開く音、閉じる音。そして静寂。人の温みが残るシーツに背を預け、ごっこ、と慎吾は思った。拉致監禁ごっこだ。それを想像すると、いくらでも相手を殴り、蹴り、どのような手段を使っても責め立てる自分が浮かんできて、できるわけねえな、という結論を出した。そのまま眠って見た夢は、相手を犯すことも辞さない内容で、起きたら息子も起きていたが、夢を広げていくのは取り返しがつかないような気がしたので、慎吾はエロ産業の賜物を見ながら一人励み、一発抜いて二度寝をし、目覚ましに起こされ、出かける準備をした。繰り返す日々は、それからわずかながら、気楽になっていたが、なぜなのかはいつまでも分からなかった。



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