不可能



 妙義山をホームコースとする妙義ナイトキッズというチームにおいて、峠に来て最初から最後まで走り通して去っていく熱心な走り屋としては、日産スカイラインR32GT−Rを駆る中里毅がいの一番にあげられた。その努力と根性と血と汗と涙が感じられるような力の込めようについては、メンバー内でも意見が分かれるところである。
 いわく、格好良い、走り屋の鏡だ、尊敬に値する。主に中里を心酔している者たちの意見である。
 いわく、あそこまでやってくれりゃあ俺らは楽だよな、よくやるよなあ、面白いな、まあ関係ないな。主に中里を他人事に見ている者たちの意見である。
 いわく、暑苦しい、ウザイ、キモイ、狂人だ、変態だ。主に中里に嫌悪感や敵対心を持つ者たちの意見である。
 だがそれぞれの意見が明確に分かれているわけではない。ある者は、格好良いけどウザイよな、と言いもするし、ある者は走り屋の鏡だけどまあ別に自分には関係ない、と言いもするし、ある者はよくやるよなあキモイよなあと言いもする。十人十色、人それぞれである。
 さて、ホンダシビックEG−6を操る妙義ナイトキッズの庄司慎吾の表向きの立場としては、あれは変態だと断言するものであり、そのため他のメンバーは大概が慎吾を中里の敵対者と見なしている。たまにライバルと書いて心の友と読むような関係をもって慎吾と中里を表す者もいるが、慎吾自身は常々チームのメンバーに、あんな奴は豆腐の角に頭をぶつけて死ねばいい、などと冗談の色を乗せずに言っているので、結局のところ皆、庄司慎吾という走り屋には中里毅という走り屋に対する拭い切れぬ嫌悪感があることを前提としているのだった。
 ただし、種々のチームの面子をかけたバトルを越えた現在、慎吾は中里毅という走り屋の実力と情熱、チームに対する貢献度、そのからかいやすい単純明快な性格など、実際は気に入っていた。その姿や言動を、できるだけ目にしていたい。感じていたい。そう思う自分を意識している。初めて会った時から、その思いがあったことも、今では意識できる。嫌いではなかった。好きだったのだ。
 しかし、これまで確かに中里を忌避しており、隙あらばその地位を奪取することばかりを考え、それを吹聴していたために、今更、実は俺はあいつのことは認めているんだぜ、などと言うのは後出しジャンケンのように思われるため、慎吾は以前からの立場を変えず、中里を小ばかにする言動を貫いている。
 であるからして、チームのメンバーが、
「あの人の鬱陶しさってどうにかなんねーのかなー」
 などと、中里を揶揄する会話を持ち出してきても、中里を擁護する立場には回らない。回れないのである。そして慎吾がつるむメンバーの中に中里を崇めている者はいないため、一度嘲弄会が始まると皆が調子に乗って、それぞれが飽きるまで話は終わらない。内心ではそこそこの好意を持っている相手を、気心の知れている連中に無邪気に愚弄され、それを止められない上に自分も話に加わっていかねばならないその時間とは、慎吾にとって楽しいものではなかった。
「どうにもなんねえだろ、殿堂入りだありゃ」
「そんな鬱陶しいかァ? 暑苦しいだけじゃね?」
「無駄に動き多いんだよ、無駄に。なあ?」
 下品な笑みを浮かべながら同意を求めてきた天然パーマの男に、バカだからなありゃ、と慎吾は真顔で言った。途端、うわひでえ、と集まっていた連中は哄笑する。
「それ慎吾クン、ストレートすぎだろ。毅サンカワイソーだなおい」
「天才って言う方がカワイソーだろ、嘘丸分かりでよ」
 嘲笑に見えるであろう苦笑を浮かべながらそう返せば、天まで届くかのような大声で連中は笑うのだった。笑いながら、口を動かす。
「まあ、バカをバカ以外にどう言うのかという話でもあるしな」
「アホ?」
「マヌケ?」
「もっとオブラートに包もうぜ、キミたち」
「頭がおかしい」
「いやそれ包み方違うって」
「要するにあれだろ、計画性がねえんだろ?」
「え、何だそりゃ」
「無駄な動き多いっつーのはさ。脳直で動いてんだよ、脳直」
「考えが足りない」
「だからそれ包み方違うだろ」
 至極楽しそうに話しているメンバーの中、慎吾は話を聞いていることを示すために時々鼻で笑ったが、それは中里を嘲っているものでもあり、集まっている連中を嘲っているものでもあり、その中に敢えて身を置く己を嘲っているものでもあった。すぐ傍にはチームに入った当初からつるんでいる仲間がいる。その男すら楽しそうに笑っている。それがひどく気に障り、慎吾は余計な言葉を出さずに済むよう、煙草を咥えた。火をつけ煙を吸い込んで、吐き出す。声は出さない。その頃には、話題が他のメンバーへと移っていった。くだらぬことを言ってはいちいち笑い出す連中を眺めながら、ぶっ殺してえなこいつら、と思い、慎吾は顔をしかめた。以前は自分がその輪の中心にいて、言葉を浪費していたものだ。心地が良かった。今でも良い。だからこの連中とともにいる。だが、今この時点では、喉をえがらくさせる不愉快さが消えなかった。
 俺そんなアブナイ人間じゃねえんだけどな、一応義理堅いし、と慎吾が考えていると、どうしたよ、と隣の男が、不思議そうに問いかけてきた。
「あ? 何が」
「いや、物思いにふけってるっぽいじゃん」
 笑っている男の目は、妙に冷たい。まあ色々あるからな、俺も、と慎吾は煙草を吸った。へえ、と男は信じていないように笑ったが、その次の言葉が出てくる前に、チーッス、他の男が声を上げた。何かと思い目を転じれば、いつの間にか三歩も離れていない位置に、先ほどまでの話のタネである中里が立っていた。他の連中が、どこかよそよそしく挨拶をするのを、おう、と気にした風もなく受けながら、
「楽しそうなところ悪いんだが、慎吾、ちょっといいか」
 と、中里は名指しで呼んできた。断られることなど考えていないような、無造作な表情だ。全然楽しかねえよ、とは言わず、ちょっとならな、と慎吾は言った。ああ、と頷いた中里が歩き出す。その背が離れぬうちから、中里に対して引き気味だった者たちが、にやにやとし出した。
「慎吾クン、ご指名だな」
「説教コースくんじゃねえの」
「ゴシューショーサマ、気ィつけろよ」
 口を開けば嫌味しかない奴らに、ご声援どうも、と笑ってやってから、お前らが気ィつけろよ、と思いながら、慎吾は離れてこちらを待っている中里の元へ、早足にならぬように歩いた。中里は腕を組み、こちらをじっと見ていた。居心地が悪くなるほど、真っ直ぐと見てくる男だった。
「何だ?」
 すぐ近くまで慎吾が寄って尋ねる時でも、やはり視線を少しも外さず、
「ヒデユキが、そのうちお前と走りてえっつっててな」
 と言う時だけ、左斜め後ろへ顔を向け、だがすぐにまた目を合わせてきた。中里が一瞥した先にいるピンクのシャツを着た男には、見覚えがあった。
「佐川か?」
「ああ。どうだ?」
 中里の眉間ははっきりと強張っていた。ここで断られることは考えているようだった。その遠慮が気に食わないと感じるのは、わがままでしかないのだろう。慎吾はむかむかする胃を無視して、別にいいけどよ、と軽く言った。中里は意外そうに目を見開いた。
「ホントか?」
「佐川だろ。悪いイメージはねえし」
 蛍光色が好きというイメージしかないので、技術がひどく悪いということはなさそうだ。驚いた様子だった中里は、そうか、と安心したように笑った。一瞬その顔に目が奪われ、自由になってからも、視界を動かせなかった。まあ頼むぜ、と笑ったまま中里は言う。
「筋はいいんだが、気の弱い奴でな。お前に声もかけられねえほどに」
 真っ向から苦笑とともにそう言われて、慎吾はようやく視線を外し、肩をすくめた。
「それで何で走り屋やってんだ、あいつは」
「車の運転が好きらしい。が、俺にも良くは分からねえ」
 難しそうに言った中里をちらりと見ると、難しそうな顔になっていた。何か胸がすき、慎吾は顎に手を当てた。何もないと、喋りながら変に笑いそうだった。
「まあ、俺は構わねえよ。今すぐでも」
「そうか? なら伝えてくるけどよ」
「そりゃいい」、と慎吾は反射的に言い、一瞬で考えてから、
「あとは俺の話だからな」
 笑いを含ませずに続けた。中里は数拍戸惑ったような間をあけたのち、そうか、とぎこちなく言った。そうだ、と頷いて慎吾は、顎に当てていた感覚の薄い手で首を掻きながら、わざと頬を上げた。
「貸しだろ」
「あ?」
「ちょっと以上に付き合ったからな」
 意味を解したらしき中里が、だが不可解そうに顔をしかめた。
「俺の借りか?」
「お前は俺に借りがあるってことだ。一つ分」
「何だよ、その単位」
「何でもいいぜ。好きにやってくれ」
 不審げな中里に吐き捨てるようにそう言って、慎吾はピンクのシャツを着ている男の方へと足を向けた。何だそりゃ、と中里の呟きが最後に聞こえ、好きにできりゃあな、と歩きながら慎吾は思い、どうにも憂鬱になったまま、気乗りのしない競争をし、価値もない勝利をおさめ、何事もなく、そのまま帰宅した。
(終)


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