ふたり
右足のつま先を浮かせたのは、こみ上げてくる吐き気の限界を察した理性だった。
数秒遅れていたら、ステアリングとダッシュボードに嘔吐物がかかっていただろう。喉まできていたものが、ゆっくりと落ちていく。胃が、みしみしと音を立てているようだった。痛い。そして、気持ちが悪い。
アクセルペダルからは、完全に足を離さなかった。残りの道程は、軽く流す時の速度を保ち、それ以上は出さないことにした。おそらく、出そうとしても出せないだろう。右足を踏み込むには、先ほどの吐き気を我慢しなければならないのだ。
「やべえな」
いやに情けない声が漏れて、慎吾は舌打ちした。
焦りがある。
途中までは良かったのだ。イメージしていた通りの走りだった。ただ、ストレートで、ある一点を越えられなかった。速度を上げようとした。右足が、動かなかった。喉が詰まり、心臓が絞り上げられ、胃は軋んだ。全身が固まった。慣れた道で、ステアリングの角度を一発で決められなかった。タイヤの動きを感じ取れなかった。エンジンの声が聞こえなかった。車を把握できなかった。それ以上、スピードは上げられなかった。逆に、下げねばならないほど、心が不安に押し潰されていた。
鼻の頭を指で掻くと、やたらとぬめっていた。汗だ。粘ついた、嫌な汗が染み出ていた。
右手首に、痛みはない。これまで存分に走れなかった原因である、怪我は完治していた。後遺症もなく、自由に動く。動かせる。そこに、事故の記憶を呼び起こす痛みはなかった。怪我が問題ではなかった。
スピードだ。
怪我を招いた事故を起こした時は、バトル中だった。初めから衝突を狙っていた。相手の車とだ。それが、単独クラッシュに終わった。コーナーだった。オーバースピードで、相手の車へと突っ込んだつもりだった。かわされた。自分の車だけがガードレールにぶつかり、跳ね上がり、ガムテープでステアリングに固めていた右手は、反動を食らった。痛みは、心臓が止まりそうな衝撃ののちにあった。それより早く、音と速さがあった。過ぎ行く景色、計器類が示す数値、かかる重力。どれほどの速度でガードレールに衝突したか、鮮明な記憶が残っていた。だから、それ以上が出せない。苦痛が思い起こされる。後悔が思い起こされる。何より、迫りくる崖、生命の危機についての、恐怖が思い起こされた。
ひとまず下りきった先にいた仲間の一人は、にやにやとしながら話しかけてきた。
「機嫌悪そうだな。久しぶりの運転だってのに」
「調子が乗らねえんだよ」と、慎吾は不機嫌を隠さず言い返した。タイムはそーでもねーけどな、と不思議そうに数値を読み上げる他の仲間を睨む。調子の問題ではないのだ。精神面だった。自分で分かっている。あの恐怖に打ち勝たねば、以前の走行記録を上回ることはできない。そもそも、その位置まで戻ることすらできない。分かっていた。示された数値も、それを裏打ちしている。だが、まだどうしようもない。
「何だよ、こえーな慎吾クン」
「勝手にタイムはかるんじゃねえよ。クソったれめ」
それでも笑っている仲間を、殺意を込めて再度睨みつけると、慎吾は車に戻った。他の奴らが声をかけたがっていた気配は感じたが、無視をした。車に乗りさえすれば、追いすがってくる者もいない。
事故を起こしてから本気で走ったのは――いや、走ろうとしたのは、今日が初めてだ。それが、この体たらくだった。タイムは平均を下回っている。気分も悪い。右足はやたらと強張っているし、手は震えていた。これから幾度走れば、以前のように、死の間際まで車と同一になることができるか、分からない。だから、それまで他の人間に、本調子でないことを悟られたくはない。仲間といえど、走り屋としての力は争っている。
弱味は見せたくない。
事故の恐怖が忘れられないがためにスピードが出せないなど、誰にも知られたくはないのだ。
日々は過ぎる。慎吾は堂々と峠を走っていたが、タイムは一切計らなかった。本来の限界の、もっと手前の壁を突破できずにいることを、分かっていたからだ。記録など、必要がない。かつてより遅いことは、機械に頼らずとも、自分自身が最も理解していた。
一向に精神状態が改善されぬうちに、速くなるために走るというよりも、それまでの自分を維持するために、巧妙に走るようになっている。仲間はいつも通りだと思っているようだったが、実際は分からない。社交辞令は下手だが、腹に一物を抱えている奴らばかりだった。だから焦る。早く、元通りにならねばならない。だが、アクセルペダルは一向に踏み切れなかった。心臓が弾けそうになり、息は止まりそうになって、胃はねじ切れそうになる。そして、右足から力が抜ける。同じことが繰り返されていた。進歩はない。むしろ、苦痛を回避しようとして、壁の一歩手前で二の足を踏んでいる。退化だった。
流すだけなら楽しいのだ。適当にやるだけなら、自然笑みが浮かんできた。本気になると、恐怖が先に立つ。怖い。苦しい。やめたい。逃げ出したい。いつまで経っても直らない。怪我は名残すらないというのに、心はいまだに事故の時点から動かない。意地によって意地が崩壊したあの時から、進まない。
懐かしい顔を峠で見たのは、そんな頃だ。仲間たちが浮ついていて、何かと思えば、中心には中里がいた。チームの命運を賭けたこの地でのバトルで、フロントからコンクリートにぶち当たって負け、車は工場入り、自身もむちうちになっていた男だ。こうして峠に現れる前、野暮用のため、何度か会っていた。その時は、まだ中里の車が使えなかったから、こちらの車で、山を攻めることもなく、ただ出かけただけだった。
遠めに見ていると、不意に中里は近づいてきた。慎吾は無視して自分の車に乗り込もうかとも思ったが、既に中里と目が合っていたため、不審すぎるだろうと判断して、動かないことにした。実のところ、あまり会いたくはない。こちらの不調を、おそらく中里は知らないだろう。だが、普段は鈍感なくせに、走りに関しては異様なほどに観察力がある男だ。そうも時間がかからぬうちに、まだ事故の恐怖から立ち直っていないことを、気づかれるに違いない。だから、まだあまり会いたくはなかった。
「もういいのかよ」
話が妙な方向に進むと困るため、先手を取って、慎吾はそう尋ねた。ああ、と中里は頷く。
「時間を食っちまったからな。早く走っとかねえと、元にも戻れねえ」
不敵な笑みを浮かべてそう言う中里を、慎吾は笑わずに見返した。こいつに先にいかれるのか、と思うと、眉間にやり切れなさがのぼってきた。
「お前は?」
問われ、慎吾はぎくりとし、
「見りゃ分かるだろ、普通だよ」
と、いつもの愛想のない態度で答えるにあたって、いつもよりもわずかに間を置いてしまった。だが、中里は特に気にした風もなく、まあそうか、と言うだけだった。あとは、話もない。中里は走りに行き、慎吾はその場に留まった。あの男の前で走る自信は、まだなかった。
ある程度流し、皆が帰ってからもう一度本気を出してみようと考えていたが、よりにもよって中里が最後まで残っていた。待ちぼうけをしていても、なぜ走らないのかと尋ねられそうだったため、慎吾は二人きりになった時点で、また先んじた。
「どうよ、久しぶりの山は」
中里は、少し上気した頬を緩め、いいな、と言った。慎吾は自分の車がある方向を見ながら、ふん、と軽く頷いた。随分熱心に走っていたものだ。さぞや楽しかっただろう。この男らしいことだ。
「ただ」
と、 その声に引かれるように中里へ目を向けると、その顔にはかげりが生まれていた。
「いつも通りにゃなれねえな、まだ。少し……」
そこまで言い、いや、と中里は首を振った。やり切れなさそうな、悔しさと諦めが半々に交じり合った顔をしていた。少し、の先に続けられるべき言葉を、慎吾は思い浮かべた。一つしかなかった。だが、確信はなかった。違うかもしれない。外れたら、こちらが疑われるだろう。慎吾は言うか言うまいか、迷った。だが、気を取り直したように苦笑をした中里を見ると、その口が開かれ、声が発される前に、言わねばならないような焦りを覚えた。
「怖いか?」
言った瞬間、中里の苦笑は失われた。開いた目で、こちらをじっと見てくる。驚いているようだった。何を言っても墓穴を掘りそうだったため、慎吾は黙って中里を見返していた。中里は視線を外さぬまま、いや、と唇をあまり動かさずに言って、しばらく深い間をあけた。そうして顔を背けると、ああ、と苦悶を吐き出すように、低い声で言ったのだった。
全身の毛穴が収縮したようだった。身震いしそうになり、慎吾は肩をすくめて緊張をやり過ごした。背筋がぞくぞくとしていた。この男もまた、起こした事故による恐怖を忘れられないのだと思うと、何かたまらない、快感にも似たものが胸を埋めた。
そこで、俺もだ、と同調することは容易かった。情けねえな、と揶揄することはもっと容易かった。だが、慎吾はどちらもしなかった。どちらも、したいことではなかった。共感を露にしたくもなかったし、中里を傷つけたくもなかった。したいことをするように、体は動いた。俯いている中里へ、右手を伸ばす。中里が顔を上げた時、慎吾は喉輪攻めをするように、その首へ右手を当てていた。
「治ってんだろ」
絞めつけはしない。押しもしない。ただ、触れるだけだった。熱い皮膚から、脈打つ音が伝わってくる。中里は、どこか怯えた顔だった。
「しん……」
「なら」
ゆっくりと、顔を寄せる。中里は、目の端を震わせていたが、視線は逸らさなかった。その中里の、代わり映えのしない顔を睨むように見上げながら、慎吾は囁いた。
「走れよ」
五秒ほど、見詰め合った。先に目を逸らしたのは慎吾だった。それ以上、見る意味を感じなかった。その喉から手を離し、自分の車へ向かう。運転席のドアを開けてから、一度振り向いた。中里は移動していなかった。その場に立ち、こちらを見ている。慎吾は自分の車を示すよう、顎をしゃくってから、運転席に乗った。エンジンをかけて、気持ちを落ち着けていると、別の車のエンジン音がした。慎吾は前だけを見て、車を発進させた。
何百回と通った山道を、スピードを上げて下っていく。開けている前方からも、中里の乗ったスカイラインが迫っている後ろからも、圧力を感じた。挟みつけられ、体がぺしゃんこに押し潰されそうだった。胃には痛みがあった。全身には苦しさがあった。頭には焦りがあった。胸には恐怖があった。そしてすべてに意地があり、高揚感があり、しびれがあった。肉体が、精神が、しびれていた。
いつからか、慎吾は笑っていた。
笑いながら、そして、何の意識もなく、右足を踏み込んでいた。
音が変わる。景色が変わる。圧力が変わる。手に伝わる振動が、足に伝わる振動が、尻に伝わる振動が、変わる。手足の指先はしびれ、そして感覚は鮮明だった。ドリフトもまた、意識せずに行っていた。何も意識をしなかった。慎吾はただ、笑っていた。
「やべえな」
そう呟いたことにも、気づかなかった。肉体は意識の支配下から抜け出し、精神はどこかに遊離しているようだった。バックミラーもサイドミラーも見なかった。前も後ろも、何もなかった。越せなかった壁をぶち破った、自分と車だけが、そこにあった。限界に手が届きかけている自分と車だけが、そこに残っていた。最も生に近い死と、つながろうとしていた。
だというのに、その時なぜ、バックミラーへ目をやったのか、慎吾には分からない。何かが警鐘を鳴らしていたのか、あるいは習慣が取り戻されたのか――ともかく、バックミラーを見て、後ろの車の存在を意識すると、途端、峠の道程を思い出した。もう下りきる。慌てて慎吾は、ハザードランプをつけていた。その頃には既に、別の恐怖が喉元に芽生えていた。このままでは、見境なく、どこまでも一人で走ってしまいそうだったのだ。
それまでが、いつになくおかしな状態だったと思い知ったのは、駐車場まで入り、ベルトを外してからだ。全身はべっとりとした汗に覆われており、まだ熱かった。そして、半ば勃起していた。何か納得してしまい、慎吾は舌打ちした。それがおさまるまで、そう時間はかからなかった。体から汗も引き、頭も冷めたところで、改めてため息を吐くと、ほっとして、小便が漏れそうになった。
「何だよ、俺は」
出てきた声は、軟弱に震えていた。また舌打ちして、慎吾は車から降りた。外気に触れると、自分の身にあった緊張が、唐突に感じられた。壁は、確かに越えた。もう大丈夫だろう。これからは、以前よりも速くなる。不安はない。だが、緊張が残っていた。心臓が高鳴っており、瞬きを繰り返さずにはいられなかった。
中里は、どうしているだろうか。思って、スカイラインを探した。すぐ傍に見つけられたが、中里はまだ降りていないようだった。こちらが外に出るまで、なかなか時間が経っていたはずだった。慎吾は眉を寄せ、スカイラインへと足を向けた。
中里が運転席から出てきたのは、慎吾が車まで残り三歩というところでだった。お互い、一瞬止まった。先に動いたのは、運転席のドアを開けたまま止まった中里だった。そのドアを閉めてから、居心地悪そうにシャツの襟を直して、目の前に立った。その時点で、慎吾は何を言おうとも考えていなかった。車の中で死んでるんじゃねえか、と思ったから、確認しようとしただけなのだ。だが、少し火照っているその顔を目にすれば、考えずとも言葉が口から飛び出ていった。
「確かに、まだまだだな」
「お前の方こそ、腕が鈍ってんじゃねえか」
中里はすぐ、言い返してきた。はっ、と慎吾は笑っていた。嘲笑が、やっとできた。
「誰の腕が鈍ってるって?」
「途中まで、ふらふらしてたぜ、走りが」
「自分の目が悪いのを、人のせいにするんじゃねえよ。大体鈍ってんのはてめえだろ。走れんだったら、もっと走っとかねえと、すぐ落ちぶれるぜ」
むっとしたように顔をしかめた中里が、ぬかせ、と言う。この男は反論できなくなると、こうして一言で会話を打ち切ろうとする。今日は、敢えてそこに絡もうとは思わなかった。何十回と走りこんだような疲れがあった。ふん、と鼻で笑うだけにして、慎吾は車に戻ろうとした。
「人の世話焼く暇がありゃあ、お前がもっと走れよ、慎吾」
数歩進んで、その声がした。慎吾はそれを言った男へ、半身に構えた。見ると、真面目腐った顔をしていた。せめて、怒りや不満、あるいは軽蔑を表に出した顔だったら、それをそのまま返してやれた。だが、神妙にされるといけなかった。真っ直ぐ向き合ってくる相手へ、皮肉を言えるほど、今の慎吾に精神的余裕はなかった。
「お前が」
中里は、ただ一直線に、こちらを見据えてくる。自分が何を言おうとしているのか、考えもしなかった。口から勝手に声が、漏れ出していた。
「お前がいるんだから、仕方ねえだろ」
それを聞いて、中里がどう感じたかは分からない。その表情をしかと見る前に、慎吾は背を向けていた。何を言おうとしているのかは考えなかったが、何を言ったかは考えた。一人では越えられなかった地点が、簡単に越えられてしまった。それを自分は願っていた。仕方がないのだ。いる以上は、願ってしまう。そうして自分の車へと歩きながら、すぐ後ろから別の足音が聞こえてくることを慎吾は期待したが、それは叶わなかった。ただ少なくとも、それ以降、限界の前に壁が現れることは、しばらくなかった。
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