覚悟
取り返しのつかないことは唐突に始まるのだということを俺は最近ようやく知った。始まりは意識されない。だからどんどんと進んでいき、気がついた時にはもう取り返しがつかないほどの深みにはまっている。
そこに後悔があるかはその時々によった。例えば車に出会いそれを求めたことに対する後悔は俺にはない。走り屋という肩書きを振り回すことによって得た傷も損も、そこにまつわる喜びと血の沸き立ちを知っていればこそ認められる。
ただ一つだけ後悔があった。それは唐突に始まっていた。唐突に始まって、俺が取り返しがつかないまでに進んでいると知ったのは、それこそついさっきのようなものだった。恋と呼ぶべきものなのか俺には分からない。俺にとっての恋愛は常に幸福な高揚がつきまとっていたが、今は腹に太い鉄釘でも刺されているようなじりじりとした熱い痛みがあるだけだ。そして何より俺の恋愛対象はそれまで確かに可愛い女性たちであったが、問題となる相手は可愛いとはなかなか言いがたい男だった。
俺は初対面で恋に落ちることがほとんどだった。すべてといっても過言ではないし、多分正しいだろう。見た瞬間に、その人の顔や雰囲気、声、仕草、体、何もかもに目を奪われて、胸が高鳴る。頭にはその人のことばかり浮かび、どうにかして近づきたいと願い出すまでそう時間はかからない。恋が成就したのはこれまで一回だけだった。友人の紹介で会い、二人きりで何度か遊び、告白をして、晴れて結ばれた。もって半年だった。俺はずっと好きだった。ずっと一緒にいたかった。彼女はだが俺の細かいところが気に障ったらしい。車にばかり金を使うことや、週末の夜に遊ばないこと。誕生日を忘れる、セックスが下手。思い出せないほど色々なことを別れ際に言われてしまった。それでも俺は彼女が好きだった。今でもたまに思い出す。今まで好きになった女の子のことを思い出す。彼女たちを一目見た瞬間から、俺は心を奪われた。それがそれまでの俺にとっての恋だった。
初めて庄司慎吾という奴と会った時、俺は随分と暗い目をしたガキだと思った。伸ばしてある茶に染められた前髪に隠れ気味だった目は、切れ味鋭い刃物のようなぞっとする光を帯びていた。危ない奴だということはたやすく知れた。それでも俺が怯えるほどの狂気を奴は持っていなかった。会ってすぐ、目に浮いていた光を奥へと引っ込め、人を小ばかにするような妙な笑みを浮かべながら、俺の名を確認するように呼んできた奴には、社交性が一応備わっているようで、俺は警戒しながらも、萎縮することはなかった。だが奴を見ていると、何か焦りのようなものが感じられてきていた。奴の話し方や声の調子や動作など、一つ一つがそれを感じさせたのではないと思う。俺は奴の存在すべてに焦らされていた。俺が何かを奴に対してしなければならないような、奴を無視してはいけないような、俺は決して庄司慎吾という男から目を離してはいけないという、そんな義務感があったのだ。なぜ俺がそれを感じたのか、正確なことは分からない。どこか滑稽そうで、卑屈そうで、下品で粗野で、けれども繊細さと丁寧さと高い計画性と低い感情を窺わせる奴の表情を見ていると、俺は奴を見逃してはならないと、そう感じるしかなかったのだ。
その感覚はそれまでの俺にとっての恋とはまったく重ならなかった。俺にとっての恋はもっと甘く切なく楽しいものだった。その間中に甘い苦悩があり甘い幸福があった。だが奴を思うたびに俺の心に芽生えたのは苦々しい苛立ちであり、焦燥感であり、理不尽な義務感であった。同時に得体の知れない熱が体に溜まっていた。その顔、その声、その仕草、その言葉。思い出すたびに腹が立った。
初めて会った時、挨拶もそうそうに、
「そんな重くてカタイ車、こんな自然味あふれる峠に持ち出して、どうしようってんですか」
と、奴はにやにや笑いながら俺に言ってきていた。それはGT−Rに乗り換えてからはよく言われることだったが、俺はそのたびにかちんときて、反論しなければ気が済まなくなっていた。
「重かろうが硬かろうが、速いんだ、あの車は」
「そりゃ車が速いんであって、あんたが速いわけじゃねえだろ? それでよくもまあそんな偉そうに佇んでいられるよなァ。よほど神経が図太いとしか見えねえぜ、あんた」
そこで奴とバトルをして白黒つけるということが最善の手段だと分かっていたが、俺にはその最善の手段を取るだけの準備がなかった。もう散々走ってガソリンが切れかけていたし、タイヤも交換し時で、体力も十分ではなかった。かといって後日に回さなければならないほどの腕を奴が持っているか、俺には判断がつかなかった。だから俺は言ったのだ。
「ああ、そうだな。俺の車が速いんだ。だがそれに乗っているのはこの俺で、その速さを引き出しているのは俺なんだぜ。だから俺が速いんだよ。所詮ぺーぺーのお前が何言ったってこの峠じゃあ、俺の残している記録が正式で、最速なんだからな」
それを聞いていた奴の顔は、何とも妙なものだった。悔しそうにも見えたし、角度を変えれば何も感じていないようにも見えた。だが俺の言葉を聞き終えた奴は、
「そういうことは精々今のうちに、言えるだけ言っておくといいぜ」
「何?」
「すぐに俺が、あんたの勘違いを終わらせてやるからよ」
と言い、ひどく愉快そうに、また陰湿に笑った。それは感情に裏打ちされているような笑顔で、俺はそれを見た瞬間、確実に追われる立場に自分があることを久しぶりに実感した。
俺が自覚できる最大の欠点は、プレッシャーに弱いということだ。しかも手に負えないことに、その場その場で抵抗力が違う。プレッシャーを受けるような状況でも、ある時はまったく緊張を感じず、またある時は頭が真っ白になって何もできなくなる。俺は自分でそれを制御できない。だからなるべくならプレッシャーは一切受けたくない。それに打ち克とうと長年努力は積んできたが、その忍耐力を上げる努力のおかげで貧血と胃潰瘍と下痢と痔が重なってからは開き直った。なるべく追い詰められていることを意識しない。意識しても焦らない。そういう風に考えた。それでもどうしようもないことはあったが、それはそれとして諦めることにした。でなければ俺の人生はいつも吐血と下血に見舞われそうだった。
誰かに追われるということは、俺に強い圧迫感をもたらす。それは何とも落ち着かないものだったが、走り屋としての実力を競い合える相手が現れたということには同時に、失われかけていた闘争心が煽られた。心地よい緊張がそこにはあった。生命を賭けられるバトル。血が沸騰し肉が弾け皮膚がピリピリとするような、高い興奮と楽しさ。下りのみではあったが、庄司慎吾という好敵手が現れたことを、走り屋である俺は歓迎した。たがやはり奴に対して苛立たずにはいられなかった。奴の走りは速いが乱暴で独りよがりな面が強く、奴自身にも他人を蔑ろにし傷つけても構わないような面があった。チームの一員となった以上、そうそう粗暴な真似をされるわけにもいかなかった。俺は奴が他のメンバーといさかいを起こすたびに注意をしては、奴から法外な反論と憎しみの視線をもらった。例えば奴と相手で殴り合いまで発展したある一件では、奴自身には見かけ上何の傷もなく、相手の顔は見るも無残に変貌していたため、俺は相手は治療に行かせて奴に事情を聞いたが、
「お前、外面に惑わされるタイプだろ」
「どういう意味だ」
「俺だって腹と足に何発も食らってんだぜ。ただ俺はあの野郎のすかしたツラは二度と見たくもなかったから、あそこにぶちこんでやっただけなんだ。認めたかねえけど、怪我の程度はあいつと同じもんだな」
と、得意げに言われたものだ。俺が言葉に詰まってしまうと、奴は人を侮蔑する笑みを浮かべ、ただ少し苦しげに頬をゆがめながら、
「まあお前があいつを帰して俺だけ残らせるってのは、予想通りだったよ」
また得意げに言い、勝手に車に戻って行ったのだった。俺はその頃からたびたび奴に言動を予想され、当てられていた。それに対しても苛立っていた。とにかく庄司慎吾という奴はどうにも俺のことを敵視しており、俺にはそんな奴のことを走り屋としてならまだしも、仲間として歓迎するほどの度量の深さはなく、俺と奴との関係は周囲が認めるほど険悪になっていった。そうして俺は奴を思い出すたびに苦々しい苛立ちと焦燥感を抱え、だが目をかけなければならないという理不尽な義務感は捨てられてはいなかった。その顔、その声、その仕草、その言葉を思い出すたびに、得体の知れない興奮はつきまとった。それは走り屋としての自分が何かを期待しているようだったが、本当にそうだったのかは分からない。
だがいつの頃からか、苛立ちよりも義務感よりも、興味が上にのぼってきた。奴がどれくらいのタイムを出しているのか、どういう走りをしているのか。それだけならまだ良かった。俺は無視をしてはならないといったような義務感から常々奴に目を走らせていたわけだが、そのうち奴を見なければいても立ってもいられなくなるような欲求が生まれ出していた。気になって仕方がなかった。奴が何をやっているのか、どうしているのか、何を考えているのか。俺のことをどう見ているのか、どう思っているのか。奴は俺を見ているのか。奴は俺のことを考えているのか。
それがおかしいことだとは感じていなかった。速い走り屋に自分の存在を知らしめたいと思うことは当然だという意識があったからからだ。当時俺にとって庄司慎吾という奴は走り屋でしかなかった。だから互いが走り屋であるということを前提にして俺は互いの関係をとらえていた。個人的な事情がそこに入り込んでくることはなかった。いつの間にか互いに仲間意識が芽生えていて、たまに家を行き来する程度の親しさを持ち始めても、俺はあくまで走り屋としてなのだと思っていた。
その俺の考え方に根本的な間違いがあると気づいたのもまた、ごく最近のことだ。
奴に一度、なぜわざわざ俺と同じチームに入ったのか聞いたことがある。
「俺のことは気に食わねえだろうに」
「誰がんなこと言いましたかね」
奴は白々しくそう言い、吸っていた煙草を俺に向けて弾いてきた。俺は片足を引いた。その引いた方の足があった場所に、奴の放った煙草が落ちた。奴はくだらなそうに笑ってから、言葉を続けた。
「どうせ目障りだったら、立場を食っちまいたいだろ」
「食う?」
「お前の持ってるもん、根こそぎ奪ってやりてえんだよ、俺は。中里サン」
奴の俺の呼び方が一応の丁寧さがある『あんた』からいい加減な『お前』へと変わるまでも、わざとらしい遠慮を含んだ『中里さん』から嘲りが多分に加わっている『毅さん』に変わり投げやりな『毅』となるまでも、そう時間はかからなかった。一方俺は最初から奴を名前で呼んでいた。奴の苗字を覚えていなかったからだ。
「だからチームに入ったって?」
「ああ」
「はた迷惑な野郎だな」
「お前に迷惑かけてんなら光栄だぜ」
奴は俺をからかう時、心底から楽しそうに笑った。俺は楽しくはなかった。楽しくはなかったが、徐々にその独特の揶揄に慣れていったのも事実だった。それが俺に対してなされない時は奴の調子が悪いと分かるほど慣れてしまったのも事実だった。
そして、執拗な嘲りもからかいも、奴は俺以外の誰かに対して継続的に行わなかった。俺はその何に基づくかは分からない特別性に気づいてからというもの、奴が俺を馬鹿にしてくる時、どうすればいいのか分からなくなった。今も正しい接し方は分からない。怒ればいいのか呆れればいいのか諦めればいいのか、どうすれば最も俺らしく奴らしい関係性を保てられるのか、分からない。
だが俺が奴を走り屋としてしか見ていないのであれば、そんなことで惑う必要はなかった。つまり、俺の根本的な間違いはそこだった。俺は最初から、奴を走り屋としてではなく、一人の人間として見ていたのだ。俺が奴を気にかけなければならない、奴を無視してはならないと思ったのは、奴が走り屋だからではなかった。初めて奴を見た瞬間、あの暗い目、重たい髪、おうとつの多い顔、細い体を見た瞬間、俺は何を考えるよりも先に、まずそう感じたのだ。理屈などない、絶対的な感覚だった。
俺には焦りがあった。奴をどうしても俺の目の届くところに置かなければいけない。俺は奴を見ていなければならない。それは義務感だった。しかし本当にそれは義務感だったのだろうか? そう望んだ自分に、俺自身が命令を下していただけではなかっただろうか? 今となっては正確なことは分からない。あらゆることは取り返しがつかないほどに進んでしまった。今更何がどうだったとか分析ができるだけの記憶は残っていない。あるのは痛みと熱だけだ。奴を見なければおさまらない痛み、奴を見ると勢いを増す熱。
それが恋と呼ぶべきものなのか俺には分からない。俺にとっての恋はもっと幸福であって、これほど苦痛が生まれるものではない。だが実際俺は奴に俺だけを見ていてほしいと、俺のことだけを考えてほしいと思ったことがある。それが走り屋の俺についてなのか、中里毅である俺についてなのかはっきりとはしないが、奴の視線を、興味を引き付けることで満足する自分がいることは確かだった。ただ俺は奴を抱きたいとは思わないし、キスをしたいとも思わない。多分やろうと思えばできるだろう。男に対してそう思える段階で俺はおかしくなっているのかもしれない。だが俺は奴に触れられるだろう。今ではそう思える。
俺が人生で四度目の失恋を経験し、走り屋として何十回目になるか知れない勝利を得た翌日のことだった。峠で仲間たちは傷心の俺に塩を塗りたくるような話しかせず、それは予想できていたが、俺は疲れ切っていた。そこで奴が来ても警戒できないほど疲れていた。
「祝ってもらったか? 三連敗後の勝ち戦は」
「聞こえてただろうが、話は」
奴は俺が取り囲まれている間、すぐ傍で煙草を吹かしていた。俺がため息とともに呟くように返すと、まあな、と笑った奴は、おかしそうに言った。
「ま、いい体験じゃねえの。一日で絶頂と地獄を味わえたんだから」
「よくねえよ。どいつもこいつもその地獄ばっかを取り上げやがる」
「じゃあ絶頂といくか。俺とバトルをする気は起きたかよ」
「それとこれとは別問題だ」
言い切ると、ちっ、と奴は舌打ちした。偉そうに、と不満そうに睨まれても、俺にはその不満を解消してやる術はなかった。まだ俺が俺自身に満足できていない現状で、奴とのバトルを引き受けるわけにはいかなかった。それは走り屋としての矜持だった。
「今はまだ、時機じゃねえよ」
「時機ね。いつになるんだか」
「近いうちだ」
「本当か?」
「ああ」
疑わしそうな奴の問いに俺は頷いた。もう少しで完璧な俺に手が届きそうな予感があった。そう遠くもない先だ。だから俺は頷き、奴は何かを考えるように俺をじっと見てきた。俺の腹に熱がたまる。痛みが走る。胃はキリキリとして、喉にしこりが浮く。奴に真正面から見られるのは苦手だった。俺が奴を意識せざるを得ないことを知らされるからだ。だが目を逸らすのも気が引けた。そのまましばらく見詰め合っていると、奴は右手の人差し指を俺の喉仏に当ててきた。
「信用してやるよ。とりあえずは」
凄むように言った奴は、次にはもう嘲笑を作りたそうに頬を引きつらせており、くつくつと自己満足の笑いを喉から漏らしながら俺の前から立ち去っていった。俺は奴の人差し指が触れた喉を押さえた。熱がある。皮膚の下の血管が拡張しているに違いない。押されてはいなかった。奴の指はただそこに触っただけだ。俺はそれをどうとも思わなかった。不快ではなかった。愉快とも違う。何も思いはしなかった。ただ熱を感じた。触れて不快でないのならば奴を抱くことも可能かもしれない。だがどうすればやる気が出るかは分からない。俺の意識はまだ走り屋としての奴の上にある。根本的に間違っていると分かっていても、そこから動かすことができない。俺が自分の考えをそのように組み立ててしまったのだ。自分の感覚を除いて、他人の情報を土台にしていた。俺は俺自身の感情は信じていたのに、感覚を信じていなかった。一目見た瞬間から奴に思考を奪われた自分の感覚を、信じようと、認めようとしなかった。俺は本当についさっきすべてを悟った。奴の指先の感触を思い出せるついさっきだった。
ただ一つだけ後悔がある。これが始まったことに気づかずここまで進ませてしまったことを、どうしようもないほど俺は後悔している。これさえなければ俺は奴と最良のライバル関係を築けたに違いない。今、俺は奴がいることで慢性的な苦しみを抱えている。バトルでそれが消えるかは分からない。俺は奴に立場を食われるかもしれない。俺の腹はそれほど深く深くえぐられていて、熱と痛みは全身に及んでいる。それでも俺には何もできない。取り返しはつかないのだ。
俺はまだここにいる。奴には何も告げない。告げられない。俺には覚悟がないのだ。俺自身の意識を打ち破る覚悟が、奴の目を受け止める覚悟が――そして何より、俺には奴を俺のところまで引きずりおろす覚悟がないのだった。
(終)
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