煙は残る
夜になると気分が高揚してくる。子供の頃からだ。夕日が世界を覆う頃になると、闇の到来を待ち構えていた。光を際立たせ、人を隠す夜。一変する街。自然な明かりが失われるだけで、目の前は自由に満ちた。夜を迎える度に、それをすり抜けられる強い人間になりたいと思った。一人でも闇に溶け込めるようになりたかった。暗がりに隠れて利を得られる奴になりたかった。自由を利用したかった。
「あ?」、と他人の声がした。嫌いな煙が目の前まで漂ってくる。慎吾は手でそれを払い、何だよ、と言った。
「何か言わなかったか?」、と他人の声が続く。
「何を」
「よく聞こえなかったけど」
中里はテレビの世界遺産を巡る番組を見ている。そして煙草を吸っている。布団に寝ている慎吾からはシャツに包まれた背中が見える。その奥が想像できる。飛び出た肩甲骨。荒れている背骨を覆う肌。その下に眠っている脂肪。想像だ。顔は見えない。煙は漂ってくる。
「独り言だよ」と慎吾は言った。
「そうか」と中里は言った。
カーテンを引いていない部屋には日差しが直接入り込んでくる。春の陽気がじわじわと畳を焼いていく。脳味噌を腐らせる。体液の重い匂いの間を素通りして、煙草の匂いが鼻腔に突き刺さってくる。俺は何をやってんだ、と慎吾は思った。昼間のセックスには暇つぶし以外の意義がない。だから抱き合うなら夜がいい。まだ錯覚していられる。
「疲れた」
呟いていた。テレビを見ていた中里が振り向いてくる。その顔からは汗が引いている。その体からも赤みが失せている。終えてからもう何十分も経っている。慎吾はまだ素裸でいる。
「そうみてえだな」と中里は自然に言った。
「ああ」
「テレビ消すか?」
「好きにしろ」
慎吾は目を閉じた。チェコが好きならいくらでも見ていればいい。暇つぶし以上にはなるだろう。少なくとも惰性のセックスよりは身につくものはあるはずだ。情けと義務と焦燥の足並み揃わぬ踊りが脳味噌を揺らす。太陽がそれを腐らせる。人間はすぐに離れ、自然がすべてを覆い隠す。
「寝るのか」と尋ねられた。
「いや」と慎吾は答えた。
「そうか」と中里は言った。
慎吾は目を開けた。中里はテレビを見ている。自由に満ちた夜はまだこない。隠れられる夜はこない。鼻の奥が一瞬熱くなる。すぐ過ぎ去る。目を閉じる。光が侵食している闇がある。錯覚の通じない、強烈な孤独がここにある。そして終わらない。
(終)
2007/08/22
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