減速が過ぎ、帰りはなく



 拳をふるったことがあるのは中里だけだった。
 一度目は嫌味を言われてつい手が出た。車のグレードの割に乗ってる奴はみすぼらしいだの言葉遣いが古臭いだの姿形がダサいだの、面と向かって五分間、メンバー同士の会話の中での流れの一つとして、適確に人の怒りが噴き出す部分を突っつかれ続け、やがてキレた。初めて会ってから一週間も経っていなかった。
 二度目は通り過ぎざま、
「死ね」
 と言われてついキレた。初めて会ってから一ヶ月も経っていなかった。
 三度目は他のメンバーを走りで追い込み事故を誘発したことを知り、何も考えないうちに拳を食らわせていた。初めて会ってから二ヶ月は経っていた。
 つまりこれまで合計三回、中里は慎吾を殴っている。いずれも左の頬をがつりと一発、だが渾身の力が込められていることもあれば、瞬間的な勢いしかないこともあった。打撃を受け、首をねじり、時に唇を切りながらも、慎吾はにやにやと笑っていた。人を嘲っていた。感情を抑圧できぬ下等さを嘲笑っているようだった。笑い、蔑むだけで、何も言わずに去って行く。そして中里はわだかまりを抱える。三回だ。三回分の怒りと後悔と不安と罪悪感が、中里のうちに溜まっていた。
 他のメンバーに対し、慎吾が平手打ちを浴びせたり飛び蹴りを食らわせたり脇固めを掛けている場面を、中里は見たことがある。容赦はなかった。確実に相手に痛みを与えていた。それでも皆はげらげらと下品に、楽しそうに笑っていた。戯れであるようだった。
 慎吾が他人を泣かせ喚かせ従わせるために暴力をふるう場面を、中里は見たことがない。おそらくそれが用いられるべきだった時、しかし中里は抵抗をしなかった。三回分の怒りと後悔と不安と罪悪感が溜まっていた。それだけではない何かも溜まっていた。
「やめて欲しけりゃやめるけどよ」
 唇を離した慎吾は中里を見上げながらそう言ったものだ。その目は逡巡とも情欲ともつかないもので濡れていた。その声は残酷とも興奮ともつかないもので掠れていた。
「そんなこともねえが」
 中里はそれだけを言った。どちらも言葉を続けはしなかった。決定が宙ぶらりんにされたまま、硬いベッドに二人で沈んだ。

 三回分の怒りと後悔と不安と罪悪感が、少しずつ消費されていく。その代わりに積まれていくものがある。それを捨てでもしない限りは、拳をふるったことがあるのは中里だけだった。
(終)

2007/09/16
トップへ