霞となりて



 一瞬の閃光が部屋を照らす。地響きは一拍遅れてやってくる。それも激しい雨音に流される。
 日中は快晴だったが、夕方から黒雲が空を覆っていき、日が落ちたかどうかも分からぬうちに一気に篠突く雨となった。一寸先は雨だった。
「ブレーカーじゃねえな、こりゃ」
 ライトを点けた携帯電話をかざしたまま、物憂げに慎吾が戻ってきた。床に腰を下ろし、携帯電話を閉じる。灰皿の上、火種のついた煙草を指でつまみ、吸った。吐き出す煙は、部屋を照らした一瞬の光で浮いて見えた。
「この辺一帯停電してんのか」
 雷鳴が雨音の中に消えていった後、ベッドに腰を下ろしている中里は、窓を見ながら言った。夜、電気の通らぬ部屋でも、暗さに目が順応すれば、何がどこにあるかくらいは分かる。
「信号止まってっかによるだろうけど、俺ゃこんな雨ン中、外に出る気はねえな。まあそのうち戻るんじゃねえの」
 億劫そうに慎吾が言い、煙草を吸う。
 電気製品の音はない。雨がどこもかしこも叩いている音がやたらと響く。窓が風の突撃を受けて、がたがたと小うるさい音を立てる。その中でも、動きで服が擦れるわずかな音、互いの呼吸音は、なぜかよく聞こえた。火が煙草を燃していく音すら、耳を打つ。周波数の違いだろうかと中里は思いつつ、窓を見た。窓一面が光る間隔は短い。雷がそこらじゅうに落ちているようだ。やることもないので、雷が部屋を一瞬照らすのを待ってみるつもりだった。
「暇だな」
 慎吾の声に、つい顔が向いた。途端、青白い光が慎吾の青白い顔を照らした。少しくじけつつ、そうだな、と中里は返し、テーブルに置いた煙草とライターを手にした。暇な時には、とりあえず煙草を吸う。高校二年生の夏からの習慣だった。一本咥え、箱はテーブルに放り、ライターで火を点けようとしたところで、横から現れた手に、その一本を唇から奪われた。
「おい」
「うちに来てんのに、五本も吸わせないぜ、俺は」
 その一本を自分の唇にねじ込んだ慎吾は、中里の手からライターも奪い、煙草に火を点けた。雨がばたばたと音を立てている中、草の燃える音がした。悠然と煙草を吸い、煙を吐き出した慎吾を、中里は睨んだ。
「だからって、人の煙草を吸ってんじゃねえよ」
「俺が吸い終わったのに、何でお前が吸い始めんだよ」
「何だその文句は」
「しかしクソまじいな、これ」
「なら返せ、この泥棒が」
「いや、もうこれは俺のだ。お前のものは俺のもので、俺のものは俺のものなわけだよ、毅」
「屁理屈言うんじゃねえ、慎吾」
 手を素早く伸ばしたが、慎吾の手に移った煙草は取れなかった。また睨むと、顔に煙を吹き付けられる。
「そんなに吸ってちゃ早死にするぞ」
「この野郎ッ」
 一発叩く、と決意して中里が踊りかかろうとした時、だがそれより早く、慎吾が向かってきた。目が慣れているとはいえ、暗闇では、動きの詳細は咄嗟には分からない。唇に触れているのが唇だと分かるまで、五秒ほどかかった。分かったのは、舌が歯に触れてきたからだ。口腔にまで入り込んできたそれは、どこか苦かった。軽く絡んで、すぐ抜ける。目の前の慎吾が、笑った気配があった。
「有意義にだ、暇を潰そうぜ」
 確かにそれは、笑みだった。眉根をわずかに寄せながら、頬を吊り上げている、愉しげな顔だ。そうやって笑みながら、胸に手を当ててきている。寝ろということだ。中里は舌打ちをして、ベッドにのぼり、仰向けになった。雨音より、雷鳴より、心臓の鼓動の方がうるさくなっていた。煙草を始末したらしい慎吾が、迅速に、馬乗りになってくる。中里は、その近づいてくる顔の前に、人差し指を出して、
「電気が点くまでだ」
 と言った。頭上の窓を通った光が浮かび上がらせた慎吾の顔は、不服そうな色があったが、すぐに闇に混じり、鮮明なのは声だけとなった。
「お前、お願いします慎吾様って言わねえと、前言撤回は認めねえぞ」
 落雷を示す地鳴りのような音が、慎吾の声の下を通過した。そのため中里は、聞こえなかった振りをしたが、実際のところは、認められなかった。
(終)

2007/10/08
トップへ