坂道を転がれ
もういいと、勝手にすればいいと、諦められると、ひどくせずにはいられなくなる。抵抗がまた生まれると、安心するし、やめろなどと怒鳴られると、興奮する。諦められるのは、気に食わない。そこで、関係を断絶されてしまう。終わりだ。そんなことを、したいわけではない。少なくとも、こんなことを本当にしたいわけではなかった。
翌日は、必ず吐き気がする。吐くかどうかはその日の気分次第だった。我慢しようと思えば我慢できる程度のむかつきで、意識でねじ伏せられる程度の肉体の反射だった。あるいは、肉体の反射は意識によって起きているのかもしれないが、判然とはしなかった。
何にせよ、中里を抱いた翌日には、慎吾は必ず吐き気を覚える。目が覚めて、寝袋から出て、自分の狭いベッドで寝ているボロのように薄汚い中里を見ると、吐き気がする。中里を、そういう態にした自分に対してむかつきを覚える。そういう自分を喚起するものを持つ、中里に対してむかつきを覚える。
吐いてしまえば楽になる。朝だから胃液と若干の消化物しか出てはこない。食欲は出てくる。胃酸で喉や口がわずかに焼けるが問題はない。吐かないと一日中むかつき通しになる。油断をするとこみ上げてくる。何も食べたくなくなる。誰と話をしたくもなくなる。走りに行く気も失せてくる。吐く方が利点が多い。それが分かっているから、吐かない日を作っている。
諦められたくなかっただけだ。何をしても意味がないのだと、何をしても変わらないのだと、そう諦められて、何も、何一つ変わりのない、安寧という名の、独りきりの牢獄に、はめられたくなかった。封じられたくなかった。諦められたくなかった。それは、本来走りで覆すべきことだった。走り屋として、変化を、進化を、認めさせるべきだった。こんなことをしたいわけではない。それでも始めてしまった。諦められたくなかっただけだ。だから、諦められかけると、ひどくせずにはいられなくなる。より過激に、より強引に、より残虐に責め立てずにはいられなくなる。いずれ、それを、また、中里は、諦め出すのだろう。終わりは、どこだろうか。どこまでいけば、孤独ではなくなるのか。
中里を抱いた翌日の朝、洗面所の鏡に映る自分はいつも最悪な面構えだ。世界への悪意と憤怒に満ちている。その世界とはその部屋だった。その部屋にいる中里と自分だった。
「楽しいか?」
慎吾は鏡の中の自分に問う。答えはない。答えはその顔に書いてある。自分の顔に書いてある。愚問だった。
(終)
2007/11/13
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