見せしめのため



 雪の気配が迫りつつあった。凍てつく空気が皮膚も粘膜も突き刺し痛めつけてくる。山は地上よりも気温が低くなる。防寒対策を仕込んだ男たちもあまり車から出てこない。そのため駐車場で雑談をするのは余裕のある人間か必要のある人間に限られていた。
 中里は前者であった。一人で黙々と峠道を走るのも面白いが、折角仲間がいるのに接触を持たないのも寂しいものだった。車を向いて話している同じ走り屋チームの馴染みのメンバー三人に近づき、声をかけると、三人は車のボディがいかに人間的な要素を含んでいるかということについて語っていた。それについては特に意見もないので走りに戻ろうとした中里だったが、引き止められたのでそのまま会話に加わった。デザインセンスが高いのはどこのメーカーだのと歯に衣着せぬ議論が飛び交い出す。それが一度止まったのは、駐車場に赤いシビックが滑り込んで来た時だった。だが皆がそれを確認するとすぐに議論は再開された。
 ただ、再開して間もなく、まだ十代のメンバーが、
「そういや庄司さんて、今でも喧嘩に負けたことないんすか」
 と、思い出したように尋ねてきたため、再開した議論は棚上げされた。
「はあ?」
 中里も含めて三人ともが、揃って頓狂な声を上げていた。庄司というのは庄司慎吾で、デンジャラスな男として名が通っている。狡猾である。優位に立つためならば卑怯な手段も辞さない。だが喧嘩をやるような男ではない。暴力の匂いが立ち込めるだけで即座に身を引く慎重さも持つ男だ。赤いシビックに乗っている。たった今、駐車場に入ってきたのは庄司のシビックだった。
「何、あいつ喧嘩無敗伝説でも持ってたの? あの体で?」
 と言ったのは、中里と同期のメンバーだった。
 あの体で――庄司は顔はごつい割に、体躯は細い。ぴっちりとした服を着ている時などよく分かる。とにかく薄い。余分な脂肪がない。骨と少ない筋肉だけで構成されているようだった。それだけに動きは素早いが、破壊力のありそうな体格ではない。その慎吾が喧嘩で負けなしというのは眉唾物だった。
「無敗伝説っつーか、まあそうなるのかな。俺が高一ン時の話なんで、微妙ですけど」
 十代のメンバーが肩をすくめる。そうか、と中里の横にいる男が言った。
「お前慎吾の後輩だったか」
「ええ、まあ。庄司さん、有名でしたよ。売られた喧嘩は買っておいてとりあえず逃げて、逃げてる間に奇襲でやっつけるんですって、追っ手を。だからみんな、誰が庄司さんを倒せるかって賭けまで成立してたっつーことで」
「で、無敗伝説?」
「結局卒業で時間切れ、誰も倒せなかったらしいですよ」
 へー、と二人のメンバーは感心したような声を上げたが、中里は言った。
「それ、喧嘩じゃねえんじゃねえか」
 三人が揃って中里を見て、それもそうだな、と各々頷いた。
「奇襲伝説か?」
「逃亡伝説じゃね?」
「ウワサによると、他の高校ン奴らも賭けに加わってたとかいう話でしたよ」、と十代のメンバーが言った。
「……あいつ、どんな高校生活送ってたんだ」
 中里は呟いた。慎吾は自分の過去の話をしたがらない。懐古主義は嫌いだと言っていた。酒が入ってもそれは変わらない。妙なこだわりのある男だった。
「俺が見たことある限りじゃ普通っしたけどね。学校だけだと」
「そうか、あいつにも高校時代があったんだなあ」、と横のメンバーがしみじみ言った。
「あいつにも可愛い頃は、ありそうにねえけど高校時代はあったんだよなあ」と同期のメンバーもしみじみ頷いた。中里もしみじみとした。
 そこで、十代のメンバーが、あれ、と言った。
「庄司さん、こっち来ますよ」
 十代のメンバーからは先ほど駐車場に入ってきた赤いシビックが見えるのだった。中里たちは振り返らねばならなかった。振り返ると、確かに慎吾はこちらに歩いてきていた。丁度良い、と同期のメンバーが、大声を出した。
「おーい、慎吾!」
「何だ!」
 歩きながら、慎吾も大声を返してきた。
「お前、喧嘩無敗伝説持ってるってホントかー!?」
 同期のメンバーが叫ぶと、慎吾は一度歩を止め、「はあ?」、と遠くからでも分かるほどに顔を大きくしかめた。
「だから、ハイスクール時代にお前が喧嘩で負けたことがねえっつー話だよ!」
 再度メンバーが叫ぶと、慎吾は顔をしかめたまま、歩を進めた。距離は遠くもなかったので、すぐ目の前まで慎吾は来た。来て、十代のメンバーをじっと見た。
「お前か静元、余計な話をしやがったのは」
「いや、俺は事実しか言ってませんよ」
 静元というのも慎吾の後輩だけあって妙な度胸はあった。それしかないような青年だった。慎吾はため息を吐いて、次に中里たちを見渡した。
「何も言うな。ありゃ、俺の黒歴史だ」
「黒歴史ィ?」
 喧嘩無敗伝説が事実ならば聞こえは良いだろう。それが黒歴史とは、不可解だし、大げさである。中里は慎吾と同じ程度顔をしかめて言っていた。
「何だそりゃ」
「何も言うなっつっただろうがこの鶏頭」
「そんな風に言われて何も言わずにいられるか。気になるじゃねえか」
「威張るんじゃねえよそんなことで」
「お前だって威張るんじゃねえよ。喧嘩で負けたことねえならいいじゃねえか、自慢になる」
 慎吾は中里と見たままため息を吐いて、うんざりしたように他のメンバーも見た。皆興味津々である。またまたため息を吐いた慎吾は、お前らな、と威圧的な目を飛ばした。
「学校終わってから家帰るまでに毎日後ろ気にして歩かなきゃなんねえし、バイクのパーツが次から次へと盗まれるし、ダチだと思ってた奴らも遊びで加わってきやがるし、襲ってきた奴の金逆に奪ってやろうにもほとんどの奴らが財布持って来てねえし、俺のあの一年半は本当に散々だったんだ。思い出したくねえ。喧嘩ですらねえから、自慢にもなりゃしねえ。っつーか俺は喧嘩とかいう原始的で野蛮なことは嫌いだし」
 いやそれはねえだろ、と皆の声が合った。慎吾は中里を特に強く睨んできた。中里は睨み返した。睨み合いとなったが、そこに割って入るだけの場数を踏んでいるのが同期のメンバーだった。
「それでお前、まだ喧嘩に負けたことねえの?」
 問いに、慎吾はせせら笑った。
「俺は負ける喧嘩はしねえ主義だ」
「逃げ回ってるだけじゃねえか」、と中里が呟くと、また慎吾が睨んできた。
「三十六計逃げるに如かず。立派な計略だ、脳味噌発砲スチロール男め」
「誰の脳味噌が発砲スチロールでスカスカだってんだ」
「お前の」
「この野郎」
 中里がずいっと近寄ると、慎吾は即座に中里が近寄った分だけ後ろに下がり、それより、と中里を見たまま言った。
「毅、俺と走れ」
「何を命令してんだてめえは!」
 不遜な言い方をされて屈辱がたぎり中里が怒鳴るも、お前以外にどこに毅がいるってんだ、と慎吾はどこ吹く風で言うのだった。
「これは俺のお前に対する命令だ。言うこと聞かねえと轢くぞ。高尾の車で」
「そんなところで何で俺の車を選んでくださるんだよ」、と同期のメンバーがすぐ反応した。
「エリシオンならヘコまねえだろ」
「ヘコむよ、俺の心が」
「安心しろ、甘轢きしたらそのまま崖に落としとくからバレやしねえ」
「それならいい」
 いいんすか、と静元が目を見開く。よくねえよ、と中里は言って慎吾を見た。
「甘轢きって何だ」
「甘勃ちみてえなもんだ。それで、お前は轢かれるのか轢かれねえのかどっちだよ」
「轢かれるわけねえだろうが。人の脳味噌スカスカ扱いしやがって、ただで済むと思うなよ」
「ただより安いもんはねえってな。まあ所詮お前は俺の下僕だ、精々頑張りたまえ毅君」
「お前の喧嘩無敗伝説ここで止めてやろうかコラ」
「リーダーさんが暴力振るうだなんて、チームの面目が危ぶまれんじゃねえの?」
「この……」
「じゃ、お先に」
 中里の憤怒の形相をあざ笑い、慎吾はシビックに戻って行った。
「クソ、あの野郎、勘弁ならねえ」
「まあまあ、落ち着け毅。そして精々頑張って来い」
「高尾、お前も後で覚えとけよ、俺が轢いてやる」
 おお怖い、と言った高尾を最早見ず、中里は自分のスカイラインに向かった。
 その後ろで、残った三人が、
「高尾さん、轢かれていいんすか?」
「難しいところだな」
「っつーか何で慎吾はそんなに追われる生活してたんだ?」
「何か下手に不良助けて目ェつけられたとか何とか。まあウワサっすけどね」
「そんなに逃げ回ってた奴が、何であんなことになるかね」
「逃げ回るというかむしろ挑みかかってるよな」
「宗旨変えしたんじゃねーすか?」
「何、そんなに中里が好きかよあいつは」
「まあ奇襲するよりゃ健全じゃねーの?」
「意外な観点からのご意見ですね、そりゃ」
「どっちが」
「どっちも」
 などとしみじみ会話をしているとは、中里も慎吾もあずかり知らぬことだった。
(終)

2007/11/23
トップへ