和は晩成す
まあ、無事で良かったぜ。
わだかまりが残っていてなお、つい、そう言っていたのは、いつもの峠の駐車場に、いつもいる男の、利き手を吊って佇んでいる姿が、いつになく、小さく見えたためかもしれなかった。その男の前から去る前に、せめて何かを言わねば、男がそのまま掻き消えてしまいそうな感覚が、あった。だから、つい、そう言って、中里は踵を返したが、数歩も進まぬうちに足を止めていた。
「そんなこと言うんじゃねえよ」
その、背後から飛んできた、怒気をはらんだ声が、中里の足を止めたのだった。声の主は、考えずとも分かった。つい今まで、余裕綽々といった態ながら、その実、悔しさと感動とを殺しきれていない顔を晒していた男のはずだった。だが、男の様子は怒りとは無縁だった。中里にはそう見えていた。その男は、走り屋としての雌雄を決めるバトルで負けた話をしていたが、そこに、バトルの相手に対する憎しみも憤りもないように中里には見えていた。だから中里は、振り返るのを数秒ためらった。怒気をはらんだ声に、瞬間、恐怖と不安を感じた。先ほどまでの話が、怒りという感情を男に生み出した気配はなかった。であれば、男の声に怒気をはらませた要因は話ではない。男の話は終わっていた。つい今、中里が終わらせていた。
たった数秒のためらいだった。五秒も経っていなかっただろう、だが振り向いた先には、遠ざかっていく男の背中が見えるのみだった。先ほどまで、自嘲に紛らせて純粋な楽しさを窺わせていた顔は、最早見えなかった。男はそのまま、別の男の車に歩いて行った。
何かを言い返したかったが、機を逸したことは容易く知れた。男は遠すぎた。結局中里は何も言わずに、男の姿もそれ以上は見ず、再び踵を返した。たった数秒のためらいだった。それが、男を一方的に去らせた。
無事で良かったと、男の存在を、視覚ではなく、皮膚で感じて、そう思った。だから、つい、言っていた。
それが男を怒らせたらしいとは、中里にも薄々は分かった。それ以外、男を怒らせる要素は思いつかない。だが、なぜそこで男が怒ったのか、その理由までは分からなかった。ためらわなければ、聞けたかもしれない。だが中里はためらった。恐怖と不安は既に跡形もなく消えていた。源はなくなっていた。自分が何に対して恐怖を感じたのか、何に対して不安を抱いたのか――あるいはためわないことに対してだったのかもしれないが、それもまた、最早中里には分からぬことだった。
(終)
2007/11/27
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