幻
山の匂いがするような気がした。樹木。草。土。生きている虫、死んでいる虫。獣。乾いた風。湿った地面。アスファルトと石くれと砂と煙草の吸殻。焦げ落ちたゴム。オイル。人間の唾、痰、汗。そこかしこに染み込んでいる排ガス。混ざり合いながら、各々は個性的に鼻腔をくすぐる。その奥底に、暗闇の中の緑の分子。黒々とした森が、網膜の裏に一瞬浮かび、ただちに跡形もなく消える。
そういう匂いが、慎吾の体を覆っているように、中里は感じることがある。一風呂浴びたのちの性交、その折にも、黒に溶けかけながら隔絶している濃緑の崖が、感じられる。空想の産物だった。記憶にある通い慣れた山とは似ても似つかない、緩やかで青々とした稜線が、脳のどこかで瞬くように現れ、消える。匂いだ。覆いかぶさってくる体の、揺れる長いけばけばしい前髪、首の根元、薄い胸や、普段ほとんど外気に触れていないだろう陰毛等が、中里の嗅覚を刺激し、架空の峠を脳に映す。すべてが、幻覚かもしれなかった。幻覚が、慎吾の体に喚起される。幻の山だった。
「何でこんなことしてんだ、お前」
狭いベッドだった。二人で寝るには窮屈すぎる。いつも慎吾は文句を言う。それでいて、中里が帰ろうとすると、引き止める。引き止めながら、狭い狭いとぶつくさ言い、やがて、不満以外が見当たらない無骨な頬と繊細な目のある顔を向けてきて、人を馬鹿にした口調で、そんなことを訊いてくる。なぜ、こんなことをしているのか――こうして狭いベッドの上で二人素裸で寝転ぶ結果につながるようなことを、なぜやっているのか。
「何でって……」
呟いて、中里は鼻をすすった。剥き出しの肌が、肉が触れている。体液の蒸れた匂い。よほど強く意識しなければ、鼻にもつかない。嗅覚はそれほど順応している。それほど、こんなことをしている。中里はもう一度鼻をすすり、不快な匂いを感じないことを感じながら、言った。
「お前がどうしてもしてえなら、断るほどのことでもねえしな」
くっ、と喉から明確な音を出して慎吾は笑った。
「俺のせいかよ。責任転嫁がうまいよな、お前は」
「そんなんじゃねえだろ」
中里が言って睨みつけても、慎吾は冷笑するだけだった。いつもと同じだ。会話は揶揄に終始する。多くの冗談が本音を隠す。あるいは、本音などないのかもしれない。すべて、本音なのかもしれない。
「窮屈だな」
笑いを消した、つまらなそうな顔で、慎吾は言った。ああ、と中里は喉を開くだけで事足りる同意をした。慎吾がまた、人の脳味噌をえぐるような、鋭い笑い声を出す。
「分かってんなら、もう少し小さくなるとかいう努力をしようぜ、お客人よ」
肩を、手の甲で軽く叩かれる。中里はため息を吐いてから、揶揄に終始する会話を行う態勢を取った。
「なら、もう少し広いベッド買うとかいう努力はしねえのか、家主殿は」
「金を払って済む話にはな、努力の入る余地なんざねえんだ。金で解決できねえところで、その人間の真骨頂ってのが発揮されるんだよ。分かるか」
「分からねえでもねえが、お前が言うと嘘くさいぜ、慎吾」
「つまり、もっと俺に対して遠慮をして敬意を払えっつーことだ、お前は」
「俺がお前に遠慮して、お前に敬意払って、それでお前は満足すんのか」
「気持ち悪がれるだろ。嘘くせえって」
「口八丁な野郎だな、まったく」
「何とでも言いやがれ」
慎吾は気分が良さそうに、笑いを混じらせた声を出し、横から唇を被せてきた。唇にだった。舌は、窺うように、入ってくる。中里は、拒みはしなかった。キスは大概、煙草かコーヒーの匂いがする。甘かった試しがない。苦いばかりだ。ただ、時間の経過に比例して、脳の奥は大概熱くなる。だから今のように、長くならない方が、冷静でいられる。
「口がうまけりゃテクもある。だろ?」
焦点を合わせづらい距離を保ったまま、眼前で慎吾が笑う。愉快そうだというのに、厭世的な影が全体を覆っている容貌をしている。社会的責任は果たしながら、道義的責任に価値を見出さない男だ。都会と田舎の狭間の泥濘で生きている、どこにでもいそうな若者。自然は、感じられない。自然の中にいる男ではない。青空を見て微笑み、太陽に感謝をし、草花を愛でるような人間ではない。そう、装っているのかもしれない。顔ばかり見ていても、顔に表れていることしか分からなくなる。中里は目を閉じて、小馬鹿にするように笑ってやった。
「何とでも言ってろよ」
慎吾が、鼻で笑った気配がした。
「これだからへそ曲がりは、どうにもなんねえな。やってらんねえ」
気配は、目の前から、すべて隣に戻った。空気が揺れ、鼻の奥に流れてくる。受容される。体液。懐かしい匂いだ。夜。鬱蒼とした森。削れた山肌。柔らかな尾根。そんな風景が、目を覆う瞼の裏を高速で過ぎ去っていく。跡形も残らない。思い出せるのは、現実の峠だけだ。そこにいる自分と慎吾。それは、今とはうまく重ならない。
「何でこんなこと、やってんだかな」
また、慎吾は訊いた。それは慎吾自身への問いのようだった。中里は黙っていた。幻の峠は、抱き合えばまた現れるだろう。あれを見るために、やっているのかもしれない。あれがいつか、現実を侵食するのかもしれない。そうではなく、あれが現実を保っているのかもしれない。あるいは、すべて幻覚だ。
「何でこんな……」
慎吾の声が遠く聞こえる。峠に行けば、そんなことは関係がない。何でこんなことをしているのか――こんなことも、そこでは、ないのだ。では、ここでは、何でこんなことをしているのか。中里は目をつむったまま、本音を見つけられないまま、眠りを呼び込む前に、ただ、喉を開くだけで事足りる、疑問への同意をした。
(終)
2008/03/14
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