明るみ



 慎吾は右手の人差し指と中指で挟んでいる煙草を落としかけ、慌てて力を入れた。指の根元の肉でしっかりと挟みつけたため煙草は地面に落ちずに済んだが、全身の筋肉が不自然に緊張し、その唐突な動きに気付いたらしい傍で猥談をしていた男三人のうち一人が、にやついた顔と訝しげな視線を向けてきて、「あ?」と言った。
「何でもねえよ」
 慎吾は一拍置いてから明瞭に言い、指が唇に吸いつくほど煙草を深く吸った。向いてきた脂ぎった肌をしている男は、あっそ、と興味もなさそうに小さく頷き、他の二人との服の上から透ける下着と服の間からちらと見える下着どちらが性欲をより煽るかについての話に戻った。
 自分の車である光沢をもった赤いシビックEG−6のボンネットにジーンズに包まれた尻をつけながら、煙草のフィルター越しに深く吸い込んだ煙を慎吾は息とともにゆっくりと吐き出した。靄のように広がった白い煙が、車のヘッドライトに照らされながらも闇が色濃く広がっている中空に儚く漂う。それが薄れて消えた向こう側、斜め前方の駐車スペースには、四台の車が停まっていた。改造の施しようは見極められぬが車種の判別はできる距離、白いシルビアにアコードワゴン、黒のスイフト、青のプジョー、いずれも火の入っている、同じ走り屋チームのメンバーが乗っている車が見える。つまんねえ? 慎吾は顔の筋肉は動かさず、それによって頬まで伸びた茶の前髪の間の嘲りの似合うところに能面に近い不気味さをたたえる表情を浮かべながら、煙草の吸い口を脂に染まっている親指の爪で小刻みに擦った。その深遠な人生の命題についての思索にふけっているごとき静かな顔と苛立ちを表しているような指の動きとは、傍から見ればまったくそぐわぬものだったが、慎吾はそのばらつきに気付かずに、先ほど不意に心に差した、学術的思想とは関係のない思いを考えていた。山にいて、つまんねえって?
 エンジン音は耳に聞こえるが、傍の三人の男とは重ならない斜め前方に見える四台の車が動き出す気配はない。冬の匂いをもった寒風が肌をぶつこの山頂の駐車場に新しく車がやって来る気配もない。傍にいる三人の野郎どもはフェティシズムについて白熱した議論を交わしている。毎度の光景、毎度の音、飽きるはずのない走り屋としての日常の中にいる。そうしながら、慎吾は足が地面を掴んでいないような心もとなさと、臓腑の血流が止まっているかのような冷ややかさと、心筋でも足りていないような空疎さを感じていた。つまんねえって? 人差し指と中指の間に挟んでいた煙草を肌の上で滑らせ、親指と人差し指でつまみ、火のついた煙草を持っているからには吸わねばならないという、嗜好品への自然な欲求ではなく他者の目を意識しての義務感から、二回素早く煙を吸い、味わわずに吐き出して、そりゃそうだろ、と慎吾は口の中で呟いた。峠に来てからまだろくに走ってもいない、本来の欲求が満たされていないのだから、馬鹿げた笑える話をいくら聞いていてもそれだけ楽しめるものでもない。
 慎吾はまた人差し指と中指の間に煙草を持ち替え、親指の爪で吸い口を先ほどよりも速い調子で弾くように擦り出した。なら走れば良い、峠道を速度を上げた車で下り神経伝達物質を放出して刺激を得て、技術を高め快楽を掴めば良い、しかし、慎吾は煙草の吸い口を親指の爪で擦るだけで、他は一つの筋肉も動かさなかった。己の苛立ちが服の上の空気へ染み出していることをそろそろ慎吾も自覚している。慎吾は耳を澄ましている。傍の男三人の猥談を楽しむためでなく、ましてや向こうに見える四台の車が動き出すのを待っているのでもないが、別のことは待ってはいた。待っているものが訪れない、その焦燥と膨らみ続ける期待が慎吾の足元に覚束なさを与え、指を小刻みに震えさせ、他人の目を気にする自尊心はそれらの余分な感覚と動きとを関連づけぬような白々しい顔を作らせている。慎吾はおさまらぬ苛立ちから舌打ちしかけ、慌てて、だが慌てた動きには見られぬよう不自然なほど殊更ゆっくりと煙草を吸い、無意識のうちにすぐに親指で吸い口を弾いて灰になった部分を振り落とした。火に近い指の肌が熱くなっており、煙草を捨てることを迫っていたが、慎吾はそこで意識をして、呼吸以外の全身の動きを止めた。傍の同じチームのメンバーとほとんど話もせぬ状況で、十分に一服をし終わったのならば走りに出るのが順当であり走り屋たる己の望む最も有益な行いであった。だが膝には力が入りそうもない。慎吾は待っているのだった。さりとてもう一本煙草を吸い出しては、それを待っていることが誰の目にも明らかになり、体面が悪い。今擦っている煙草を捨ててまずコースを下る、それが最善の行為だと理解しながら、しかし慎吾は動こうとはしない。ただ煙草の葉の焼ける音まで聞こえるほど耳をそばだてている。五秒後、慎吾は舌を動かした。舌打ちのためではなく口の中で数を数えるためであり、五つ数えたところでクソと同じく口の中で言い、諦め、慎吾はボンネットから尻を上げた。苛立ちを込めて煙草を地面に飛ばすように捨て、それを靴の裏で小さい動きでもってすり潰す。そして傍の三人の男に走りに行くと言うために息を吸い、そこで呼吸を止めた。車が山道を上がってくる音をひたすら澄ませていた耳が拾ったのだった。慎吾は音が発されている方向につい素早く顔を向けていた。足にはスニーカーの薄い底から、車のタイヤに削られ続けているざらざらとしたアスファルトがしっかりと感じられ、心臓は胸を内側から圧するように強く鼓動を刻み出し、冷えていた臓腑から指先等の末端まで血液がくまなく運ばれる。地を這い抜けていくような低い音を記憶にある車のエンジン音と照らし合わせてから、慎吾は顔をさりげなく前に戻し、尻もボンネット戻して、パーカーのポケットから煙草の箱とライターを取り出した。そして煙草を一本取り出しライターで火を点け吸った。それはあくまで短くなった煙草を捨てるために尻をボンネットから上げたまでだと、煙草は最初から二本吸おうとしていたと自分に言い聞かせるための動きであり、また他人にそう思わせるためのものでもあったが、非常にぎこちのなく、見ている者がいれば何かしら不自然さを感じたかもしれなかった。だがその時慎吾を見ている者はおらず、慎吾の動きはあくまで自分の気持ちを整理するためのものとなった。
「お、毅さんじゃん」
 その時傍の三人の男は各々を視界において話を続けていたが、やがてコースに目をやった。三人は慎吾から遅れて上ってくる車の音に気付いたものの、特別性は感じておらず、実際に車が場に現れて初めて意識をし、一人がそう呟いたのだった。現れたのは黒いスカイライン32のGT−Rで、走り屋チームである妙義ナイトキッズのメンバーであれば誰もがその車とチームのメンバーの一人を直結させるほど有名な存在だった。事実三人の男はそうして近づいてくる車が同じチームのメンバーであることを疑いもせず、慎吾はその車がコースを上ってくる音を聞き分けた時点で、それをわずかでも待っていたことが誰の目で見ても明らかになろうが、構わず煙草をもう一本吸い始めた。短くなっていたとはいえ、焦れてたとはいえ、諦めず一本目の煙草をもう少し吸っていればよかったと後悔もしたが、同時に希望が叶えられたごとき充足感も得ており、退屈さがもたらす他人の目への過剰な意識も薄れていた。
「ホントだ。あの人いつもこの時間だな」
「お前待ち合わせてたの?」
 傍にいる三人のうち一人の呟きに一人は感心したように言い、一人先ほどと同じ脂ぎった肌をしている男は慎吾を向いてきて、そう尋ねた。慎吾は煙草をゆっくり吸いニコチンを血液に溶け込ませ、煙を細長く吐き出してから、唾を吐き出すように言った。
「何で俺があいつと待ち合わせんだよ、こんなとこで」
「いや、何となく」
 言って男は近づいてくる32に顔を向けた。慎吾は三人が見ている方は一切見ず、自分がスニーカーの底ですり潰した地面の煙草の吸殻を見ていた。フィルターぎりぎりまで吸われているそれを見ると、自分も随分我慢したものだと思え、今さっきの脂ぎった男からの質問にむかついていた胃の粘膜も心なしか回復したように感じられた。車が停まり、ドアが開き閉まる重たい音ののち、地面を擦る足音、そして傍の三人の挨拶の声と、それに返す「よお」という男の、中里の低くかすれた声を聞きながら、慎吾は地面を見据えたまま、一服以外に目的はないというように黙々と煙草を吸った。その間に、中里を含めた四人での会話が始まった。
「ねえ毅さん、何かやたらと寒くねーっすか今日」
「そうか? 昨日と同じくれえじゃねえか」
「えー、俺小便チビりそうっすよ」
「お前漏らすなよ、こんなとこで」
「その歳で小便漏らしちゃ救いようがねえよな」
「いや、そうでもねえぞ。高木は最近……二週間前、自宅で糞漏らしたっつってたからな」
「はあ? 自分んチでっすか?」
「あーそういやそうだっけ」
「うわ、ありえねー」
「まああいつは元々救いようねえじゃん。ロリコンだし」
「んじゃ毅さん、俺と走りましょーよ」
 その軽々しい男の発言を聞いた直後、慎吾は人差し指と中指の根元で挟んでいた煙草を、今度は落としていた。力を入れる間もなくそれは皮膚を滑り、風の唸りにも容易くかき消される程度の小さい音を立てて地面を転がる。自分のシビックのボンネットに尻をつけたまま、黒々としたアスファルトの上、落ちた煙草と先ほどすり潰した煙草の吸殻を視界に入れ、慎吾は煙草を落とした時と同じ手の形と腕の角度を保って動かず、というよりは俄かに腹にわいた吐き気を深呼吸と唾を飲み込むことで堪えるのに手一杯で他の部位は動かせずにおり、ただ四人の男の会話に耳はそばだてた。
「お前とか」
「っつーかお前よ、その接続詞おかしくね?」
「いや、高木さんは救いようがないってことで、じゃあそれより僕と走りませんかってことっすよ」
「お前ホントに日本人かあ?」
「まあこいつは中卒だからしゃーねえだろ」
「そう言うあんたも中卒でしょうが」
「俺はお前とは格が違うんだ、格が。月給もうすぐ三十万だぜ。一緒にすんじゃねえっての」
「ははは。で、毅さん、どーすか」
「あー……また今度な。おい、慎吾」
 むかつきをようよう堪え若干の落ち着きを得、落ちた煙草もスニーカーの底ですり潰してしまおうかと考えていたところで、突然より注意して聞いていた声に名前を呼ばれたため、慎吾は全身を一瞬小さく震わせてから、雀のように素早く首を動かして声をかけてきた中里を見、「あ?」、と用意もしていなかった裏返った声を上げていた。
「お前、俺とやらねえか」
 三人の男と中里は一斉に慎吾を向いていた。慎吾はそれら一つ一つの顔へ気取った感じで丁寧に目をやって、最後に中里に視線を固めた。三人の男はいずれも関心を含んでいるようで興ざめもしているような、好奇心に満ちているようで億劫さにも満ちているような、不快感をもたらす顔をしていたが、中里はただ問いの答えを待っているという以上でも以下でもない、太い眉にも目にも唇にも削げた頬にも半ば露わな額にも余分な緊張を含ませていない顔をしていた。それは見返す人間にいかなる返答をも迫る真っ直ぐな容貌だった。その顔を見るまでもなく軽くなった腹と晴れた胸とが答えを定めていたが、慎吾は煙草を持った形のままにしていた右手で肉が潰れるほど力を込めて頬を撫で、その手で口に余分な力が入らぬように自分の顎を押さえ、気のない風に肩をすくめ、気のない声を出した。
「お前がどうしてもっつーなら、やってやらねえこともねえよ」
 三人の男はそれぞれ顔を見合わせた。一方中里は慎吾を見たまま不審そうに眉をひそめ、言った。
「お前は何でまたそうも偉そうなんだ」
「偉いからな、俺は」
 当たり前のこととして言い、今度は四人で顔を見合った男たちを一瞥してから、慎吾は右手をパーカーのポケットにしまいシビックのボンネットから再び尻を上げ、アスファルトに落ちた二本目のまだ長い煙草を踏みつけつつ、運転席のドアの前まで歩いた。そして四人を見ると、いずれの男もこの状況においての適切な言葉を見つけられていないような顔をして、慎吾を見ていた。中でも中里の困惑だらけの気まずそうな顔といったらなく、慎吾は右手をパーカーのポケットから出して上がりかける頬を押し潰してから、何事もないように言った。
「やるんだろ?」
 眉間に力を入れていた中里は、そのまま眉を上げ目を見開きその顔から困惑は消さぬまま、ただ、ああ、とはっきり頷いた。慎吾は何も言わずに小さく頷き返し、右手でシビックのドアを開け、運転席に入りドアを閉めた。ベルトを締めながら傍の男たちを避けさせるために吹かす。そして一旦ステアリングに両手をつき、その間に埋めた顔の筋肉を、他人、特にこれから走る相手に見られては自尊心が崩壊しそうなまでに緩め、一時喉で笑ってから、表情を引き締めて、慎吾はフロントガラスを向いた。
(終)

2008/03/19
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