滞留
男たちは、欲望を持ち寄る。執着の先にあるもの、排気ガスを生み出すもの。色の反射されない世界に、機械的な光をもたらすもの。
夜、峠。駐車場。車の集まり、走り屋の集まり。
そこで、庄司慎吾はうだっている。
風のない日だった。空気が動かない。皮膚の上、湿り気のある熱がとどまっている。これならば、地上に近い自宅の畳に転がっていた方がまだ涼しかったかもしれない。山、それも峠なら空に近いから、夜にもなれば過ごしやすいかと期待していた分、一層暑く感じてしまう。裏切られた。自然相手では仕様がないとも思うが、慎吾は普段他人に裏切られるようなヘマをしないがゆえに、被害者的感覚を得るのは久方ぶりで、それがまた自業自得という言葉を思い出させ、癪に障る。
ここで自己嫌悪に陥るのが普通の人間だが、俺は違うぜ、と慎吾は思う。自己嫌悪に陥り車をカッ飛ばして警察官に免許証を提示する結果を招くような青い時期は、とうに過ぎた。正確に言えば二年前に過ぎたのだが、己の失態をいつまでも覚えていられるほど慎吾は頑丈な精神の持ち主ではないので、細かいことは記憶から消去している。
ともかく、勝手に期待して裏切られて苛立っても、自己嫌悪に陥らずさりとて諦めず、他人を責めることで苛立ちを解消し平常な気分を取り戻すことができるのが普通の人間であるかは知れないため、普通の人間とは違うというのは慎吾独自の思いであるが、慎吾はそうするのである。無関係な他人を責めることにより、自分の失態を自分に対して誤魔化し、精神の平和を保とうとするのだ。
夜、峠。この場において、苛立った際に慎吾がその男に因縁をつけるのは、数ヶ月前から恒例となっていた。周囲の人間にとっては見慣れた光景であり、その口喧嘩とも歓談とも決めがたい会話に入ろうという者は、そこには最早いなかった。
すなわち、慎吾とその男、中里毅の二人きりの舞台である。
口を閉じたまま、慎吾は中里へ近づいていく。互いに車を持っている。慎吾の車は、中里の車から離れて停められている。わざと距離を取っている。それも恒例だった。意味は失われている。ただ、そうしないと気持ちが悪い。だから、自分の車から中里の元へ行くのに、慎吾は歩く。黙ったまま、けれども背中を見せている中里が気付くよう、気配を撒き散らしながら歩く。こちらから声をかけねばならない状況になったことは、今まで一度もない。今回も、中里は慎吾に気付き、先に「よお」、と言った。
「よお」、慎吾は返し、煙草を取り出しながら、思いつくままに喋るのだ。
「相変わらずいつ何時でも暑苦しい奴だな、お前」
「人のことを言えた義理かよ、慎吾」
引きつった笑みを浮かべながら、中里が言う。短い黒髪が後ろに流されているため露わになっているこめかみ辺りに、怒りが見えた。それが良い。この男の感情を自分が動かしているのだと思えると、万能感が心に生まれ、癪な気分を蹴り飛ばしてくれる。それがまた、口を回らせる。
「俺はお前と違って健全だからな」
「どういう意味だ」
「性欲有りあまってる感は漂わせてねえから」
煙草を咥えながらしれっと言えば、歯軋りの音が聞こえそうなほど顎に力を入れた顔をする。鼻で笑い、慎吾は煙草に火を点け、煙を中里の顔の前に吐き出した。それを大仰に手で払い、中里はひどく不愉快そうな声を出した。
「てめえのどこが健全だ。しょっちゅう揉め事起こしてるくせしやがって」
「それについちゃ異論はあるが、だとしても俺はお前みてえに存在自体が常に暑苦しいってこたねえよ、毅」
中里は嫌そうな顔を面倒そうにしかめ、ぼそりと呟いた。
「季節関係ねえってか」
「夏は相乗効果でやべえけどな」、慎吾はへらへら笑って言ってやった。「湿度も温度もマックスだ。お前のこと抹殺したくなる季節ナンバーワン」
「おい、ワンがあるならツーがあるとか言うんじゃねえだろうな」
「ツーもスリーもあるぜ」
「何だお前、俺に恨みでもあんのかよ」
「ないと思うか」
真顔で慎吾は問うと、中里はしばらく間を置いてから、真顔で言った。
「いや」
「なら聞くなよ」、慎吾は首を流れる汗をうんざりしながら手で拭った。「分かりきったことを。面倒な奴め」
そして煙草を吸い、煙を吐き、もう一度吸って吐くまで、中里の声はしなかった。慎吾は隣を見た。中里を腕を組み、真っ直ぐ前方を見ている。意固地になっているのが見え見えだが、何に対してそうなっているのかは慎吾でも見透かせなかった。上向いてきた気分も、分からないことがあると靄がかかる。完全に解消せねば気が済まない。
息を吸う音をわざと大きくたててから、慎吾は言った。
「何で黙る」
「口利いたらお前、どうせ怒るじゃねえか」
無視されるかとも思ったが、中里はすぐに答えた。ただ、慎吾を見ようとはしない。中里の視線を取れないことに不快さを感じ、慎吾は喧嘩腰の声を出した。
「黙って横で突っ立ってられるプレッシャーってもんを、てめえは考慮しねえのか」
「俺がどんなプレッシャーになるってんだ、お前の」
ちらりと怪訝そうに、中里が目を寄越す。その目に、その顔に露わになっている純粋な好奇心が、慎吾の脳をわずかに焼いた。咄嗟に答えを出せず、互いの間に静寂が訪れる。慎吾の脳が理性に消火され、健全な思考が取り戻されたところで、中里が満面に疑念を溢れさせながら、言った。
「何だこの間は」
ここまでの流れを慎吾は思い出していた。そして、己の才知を見せつけるような会話を心がけ、言葉を選んだ。
「お前ってよ。そんなに俺のことが好きか」
中里の顔にはいよいよ皺が刻まれ、互いの間を先ほどと違う静寂が占め、慎吾は挑発的でありながら、自嘲的な笑みを浮かべ、よし、と頷いた。
「次は俺が聞いてやる。何だこの間は」
遠い目をし、中里は言った。
「……暑いからよ」
「暑いから、俺の脳味噌が茹で上がったとでも思ったかお前は。タコ並に。アホかバカ、お前がタコだ」
「何だとコラ、俺は人間だ。違うのか」
「お前は人間だろ、くだらねえこと俺に確認すんな」
「そうじゃねえ、俺は人間だ。当たり前だろうが。俺が言ったのはだから、お前の頭がおかしくなったってんじゃねえのかってことだ」
改めて問われると、腹が立つよりも馬鹿らしくなってくるものだった。素で驚きやがって、と舌打ちしてから、あのよ、と慎吾はため息とともに言った。
「お前には、文脈を読む力ってのはねえのか」
「お前こそ、万人にも通じる説明能力ってもんを持とうって気はねえのか」
「俺は努力はしねえ。お前のためにしかならねえことにはな」
中里の顔から皺が消え、今にもため息が聞こえそうな色が浮いた。先に諦められる前に、慎吾は話を引っ張った。
「もう何も言う気がしなくなったって顔してんじゃねえよこの野郎、俺こそがそうだってのに」
「クソ」、中里は額を掌で拭った。「暑くてどうしようもねえ、何をどう言えばお前に何が通じるのかが分からなくなってきたぜ」
「それは暑さのせいじゃねえと思うぜ」
「ああ?」
間抜けな面がそこに戻る。自分がこの男を動かしているという感覚は、時にそれによって自分が動かされているような感覚をもたらす。慎吾はそして、何もかもが億劫になり、計算をやめ、精神を解放しに走る。棚上げしていたことを処理し、問題を残さず場から去ろうとするのだ。
「つまりよ」、と慎吾は指に挟んだ煙草の先を中里に向けた。「好きな奴のことには興味がわく。色々知りたい。だから聞く。質問攻め。そしてさっきお前は俺に質問攻め。お前は俺のことが好きかと、っていうかお前質問し過ぎでうぜえよっつー逆説だ。分かるか」
一拍あけてから、中里が首を傾げた。
「逆説か?」
「その辺はよ、フィーリングだよ。放っとけよ。そういうとこだけツッコんでくるお前が俺は分かんねえ、毅」
「そうか」
「そうだ。その通り。疑問に思ったからって何でも口に出しゃいいってもんじゃねえ。誤解を招く。俺はそんなにお前に気にかけられてんのか? 何だそりゃ。きめえっての」
慎吾は勢い煙草を地面に捨て、靴の底で踏み潰した。
「よく一人で喋くる奴だな、お前は」
実感のこもったような中里の声が聞こえた。煙草もろとも地面を踏みつけながら、慎吾は言った。
「外面に惑わされるタイプだよな、お前は」
「話もよく分かんねえ奴だ」
「分かろうとしねえ奴には分からねえだけだよ。俺のことは」
「なら、分かろうとすりゃ分かるのか?」
つい、顔を上げた。つい、中里を見た。中里は真っ直ぐに慎吾を見ていた。
「庄司慎吾って奴のことは」
その瞬間、熱が全身を支配した。精神を焦がしかねない熱から、思考は逃げ出すことを推奨し、ひとまず口が妙な方向に勝手に進まぬよう、支配下に置いた。
「アイス食いてえ」
意思とは無関係だったが、言葉が意思を持ってきた。脳味噌も凍るような、キンキンに冷えたアイスクリームを、今すぐ食べたい。
「コンビニ、行けよ。ついでに、俺の分も」
切れ切れに、中里は言った。お前に言ったんじゃねえ、と慎吾は思ったが、実際慎吾は中里を見たままそれを言っていた。これを説明すると、先ほどの熱にまたやられそうだった。棚上げにして記憶から消し去るより、精神に良いことはない。
「了解」
慎吾は気だるく片手を軽く上げ、中里に背を向けた。そのためには、人をパシリにしようとしてんじゃねえこの横暴者だとか、貸しにしてやるとかは、言えない。記憶に残るようなことは言ってはいけない。後に残るようなことは、してはいけない。何かが狂い出すからだ。整理すらつけられていない、何かだった。
財布の中身を思い浮かべつつ愛車へと歩く、そして、分かろうとして分かるんなら、俺はこんなになっちゃねえ、と慎吾は思った。
(終)
2008/10/23
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