息を吐くと同時に言うと、中里は動きを止めた。驚愕の表情が浮かび、やがて痛ましいものを見るように、顔をしかめた。慎吾はその中里を見たまま、口を開き、違う、と言おうとしたが、結局言葉を喉の奥に下ろしていた。違う、これはそういう感情ではない、好きだとか嫌いだとか、甘えたいとか甘えられたいとか、受け入れたいとか受け入れられたいとか、そういった思いではない。だが言えなかった。言わなかった。中里は目を逸らしてから、俯いた。何で、という呟きが、接触で赤くなった唇から漏れた。慎吾は口を開かなかった。自分の鼻からの呼吸が、やけに大きく耳についた。違う、と言うことも、好きだ、と繰り返すこともしなかった。中里の顔を見ると、腹の底に、行動を駆り立てるものが生まれていた。
 いけるんじゃないか。
 そう思った。こいつは、このままなら、拒まない。
 左手を再び頬へと伸ばし、顔を上げさせる。大ぶりの目は、ふるふると揺れていた。怪訝がその顔を埋め尽くしていた。いけるだろ、と慎吾は思った。この際、違おうが合ってようが、どうでも良い。その肌に触れた指先から、肘、肩、首、顔、そして胸から、下腹部にかけてまでを、熱が通っていく。そうだ。そのまま中里へと、ゆっくりと、跳ね除けられる時間を与えながら、顔を寄せていく。そんなことはどうでも良い。バトルも走りもどうでも良い、考えなんてどうでも良い。
 ただ、これが、欲しいのだ。

 深く口付けて、舌を絡める。中里は確かに拒まなかった。どこまでだよ、と慎吾は歓心とも軽蔑ともつかぬ思いを抱えながら、右手をトレーナーの裾から差し入れた。そこで中里はがっちりと慎吾の右手首を両手で掴んだ。動きを封じたのだ。慎吾は舌を吸い上げてから一旦解放した。中里は息を荒げていた。
「……やめろ」
 この期に及んで、頼み込むように中里は言った。慎吾は笑いかけ、こらえようとしたため、妙な形で顔を引きつらせた。
「好きなんだ」
 声が裏返った。中里はやはり、苦しそうに顔を歪ませた。背中全体がざわめいた。ぞくぞくする。いよいよ笑ってしまいそうで、慎吾はそのまま中里の耳へ顔を寄せ、横に広がる唇を隠しながら、ささやいた。
「痛くしねえよ、何も」
「や、めろ」
 なら、と合間に耳朶を舌でなぞりつつ、「殴ってでも止めろよ。お前はそういう奴だろ。やめて欲しけりゃ、同情なんて関係ねえだろ。違うか?」、息を奥へ吐きかけると、中里の体はびくりと震えた。色黒ではない肌の表面の血液が良く見て取れた。それに目を引かれていると、突如右手首への負荷が消え、肩から体が重力に逆らった。中里の頭全体とシーツが見られるほどの視界が下に広がる。肩にぐいぐいと指が食い込んできた。やられる、と本能的に慎吾は身を固くしたが、中里は手は出さなかった。
「まともに、考えろ」
 睨み上げてくるその顔は、怒りと羞恥が複雑に入り混じったもので、ただ危機感のみがはっきりと浮かんでいた。このまま流された場合、自分の身に起こりうる出来事は、多少なりとも想像できているようだった。だが、慎吾は想像もしていなかった。実際に流れてみなければ、どこまで進めるのかも分からない。今までついぞ考えたこともなかったのだ。そして今、考えている。まともな頭の奥の奥で、何を言えばこの男が囚われるか、どうすればより一層の混乱を与えられるか、硬さを増すものを満足させられるかを、考えていた。無理矢理できるほど、この男の力は甘くはない。同意か、あるいは妥協が必要だった。それを促すのに、行動は尚早すぎる。慎吾は唾を飲み込んでから、追い込むために、言葉を吐き出した。
「何で押しのけねえんだよ。そんなに嫌なら完璧に抵抗しろよ、お前ならできるだろ。何でそれができねえんだ」
「こんなこと、お前がするわけねえ、お前が」
「やってるじゃねえか。何を見てんだ、俺はこういう奴だぜ」
「何考えてんだよ、お前、俺だぞ。俺が、何でお前が俺を」
 慎吾は目をつむり頬を上げ、首を振った。言葉が通じる次元にはない。元々柔軟性に欠ける男だったが、こうまで現実を拒否しようとするならば、感覚として理解させるしかないだろう。拒否し続けるうちに、逃げられなくしてやればいい。慎吾は上半身に体重をかけ、肩を掴んだ中里の肘を潰し、余裕も与えぬうちにキスしながら、手を足の間へと這わせた。両肩に痛みが走った。肘が曲がって力の入れられない腕の代わりに、中里は指に全力を注いでいた。慎吾は構わず舌で口中をなぶり、形を明確にするように、布越しに中里のものをなぞった。次の瞬間には、頭を振って口を離され、その一瞬の隙で右腕を自由にした中里に、下から胸を殴られていた。突然の事態に驚き、慎吾は衝撃に思わずうめいたが、中里もうめいていた。咄嗟にその股間を握り締めていたのだ。おかげで中里は下から抜け出すことはせず、慎吾は骨に感じる鈍い痛みに、何か泣きたくなった。
「やめろ」
 そうしながらも、喘ぐように中里はそればかりを言った。慎吾は目の裏が熱くなるのを感じながら、握り締めた中里の股間を優しく再びなぞり、濁る目の前で動いていた喉笛を柔らかく噛んだ。発声の際の震えを、歯と唇から感じた。
「お前を、嫌いに、なりたくねえんだ」
 皮膚に吸い付き、舐めて、鎖骨のくぼみまで降りたところで、その言葉の意味を理解し、慎吾の頭はすうっと醒め、視界は正常になった。音を立ててそこに跡を残してから、顔を上げる。中里は交差させた両腕で、顔を覆っていた。顎の奥に見える下唇の上に、白い歯が乗っており、口元は震えている。見た瞬間、耳の裏から頭皮にかけて、鳥肌が立った。女々しい本音を晒させ、屈辱を与えていることに、絶大な歓喜を覚え、同時にどうしようもなく勃起した。慎吾はもう喜びを抑えることは止め、狂気的な笑みを前面に押し出したまま、中里の顔を隠す両腕を引き剥がし、威圧的に見下ろした。
「嫌いにならなかったら、好きになるのかよ」
 中里は何も学習していないようで、やはり驚いた様子だった。慎吾はその両の手首を強く握り締め、身動きを封じてやり、笑いながら静かな声を出した。
「お前、俺は、いつやったっておかしくなかった、それで、機会があったから、逃さなかっただけだ。それで我慢したって得もねえ。それはずっと知ってる、生殺しだ、ただの。なあ毅、俺はもうお前の、そういう言い分にはうんざりだ。自分が被害者だって丸出しの、自分のことしか考えてねえ、お前、俺のことを本当にお前が考えたことがあるってのか?」
 蒼白な顔になった中里が、信じられぬように、真っ直ぐ見上げてくる。慎吾は答えを聞かぬうちに、結論を言った。
「だから、俺も自分のことだけ考えてんだよ。お前と同じだ」
 中里はやり切れないように、固く目を閉じた。静寂が溜まり、慎吾は三度の呼吸の後、行動を再開しようとし、「それで」、という、目を閉じたままの中里の、低く潰した声に制された。
「それでお前の気が済むなら、俺は」
 今度は慎吾が驚く番だった。中里は慎吾から顔を背け、うっすらと目を開け、シーツを睨んでいた。その目頭に溜まっている涙が、どういう理由で発生したのか慎吾には分からなかったが、その中里の表情には、ただ征服欲を煽られた。
「俺の気か」
 声に出したつもりはなかったが、中里がわずかに動いたため、言ってしまったのだと知れた。慎吾は見られていないことを知りつつも、極上の、他人には見せてやることもない、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。そして人の気分に決定を委ねる、それを責任回避からではなく、真実の欲からなせる男の発言を、
「お前らしいよ、毅」
 と表して、優しく抱いてやりたい気持ちと、殴り殺したい気持ちを抱えながら、まずはその言葉に甘えることにした。
(終)


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