或いは裸の猿の如く
無意識だった。煙草の箱をポロシャツの胸ポケットから出し、一本叩いて口からのぞかせ、咥えて抜き取る。吸いたいと思う前から吸っている。いつも通り。ニコチン補給。
だが、吸えなかった。無意識な行いが、意識を呼び起こす。胸ポケットを探る。ジーンズのポケットも探る。体を探る。ポケット行脚。体を探る。
中里は、自分の意思で手を止めた。
認めよう。
煙草を吸えない。
なぜなら、ライターがない。
煙草を咥えたまま、中里は宙を睨んだ。体は探り終えた。記憶を探る。家を出る前。服を着替え、煙草をポケットに入れる。入れた。覚えている。ライター。記憶がない。存在していた記憶すらない。おかしい。いつも煙草とライターをセットにしているのだから忘れようがないはずだ。それで忘れた。何だこれは。どう考えてもおかしい。泥棒か。いや、それは突飛すぎる発想だ。落としたか? いや、家を出る前に煙草を吸った記憶がある。ではライターは。ない。使った覚えはあるのに、どこへやったかは覚えていない。迷宮入り。何てこった。
煙草を口から外し、しかし箱に戻しはせず、そのまま考える。ライターの行方を思い出せないことにイライラして、ますます煙草が吸いたくなる。これでは駄目だ。精神衛生上良くない。前向きに考えよう。近頃煙草の量が増えている。懐も痛い。喉がよくいがらっぽい。体力も若干落ち気味だ。これはおそらく、そろそろ煙草を控えていきなさいという何がしかのお告げだろう。確かに控えるに越したことはない。煙草に回していた金を車に使える。いいことだ。
だが、吸いたい。吸いたい吸いたい吸いたい。どうしても吸いたい。火が欲しい。いや待て俺、ここで耐えられてこそ一人前の男だぞ。男の中の男は我慢が肝要。我慢しろ。目を瞑って自分に言い聞かせる。我慢だ我慢。車に戻るまで我慢。
「ほらよ」
声がした。目を開ける。火があった。煙草の先端。
「うわっ」
中里は思わず声を上げ、後退った。目の寸前に火のついた煙草。根性焼きよりタチが悪い結果を体が咄嗟に想像したらしい。素早い動きに、煙草を突き出してきた慎吾の方が驚いていた。
「お前、何だそのリアクション」
「い、いきなり人の前に煙草出すんじゃねえよ。あぶねえだろ」
「距離的に全然あぶなくねえっつーの。いくら俺でもてめえに焼印はつけねえよ。後が厄介だ」
厄介じゃなけりゃつけるのか、と思いつつ、何なんだ、と慎吾を睨む。煙草はあれどライターのない人間に火のついた煙草を向けてくるなど、意地の悪い男め。中里のそんな思いを知ってか知らずか、慎吾は悠々と煙草を吸って煙を吐き出し、しばらく気の抜けた顔をしてから、思い出したように言った。
「火、ねえんだろ。貸してやるよ」
中里は顔をしかめた。
「何で知ってんだ」
「あれだけ体まさぐってりゃ、誰でも分かる。っつーかあんな怪しい動きしてんじゃねえよ、チームの評判直滑降並に落ちてくぜ」
「……そうか」
夢中でライターを探していた意識はあるので、怪しい動きという指摘について反論はなかった。それに、今は煙草が吸いたい。我慢我慢と思っていたが、人の親切を拒むのも考えものだ。それに何より、慎吾の親切である。不道徳の男、慎吾の親切である。これは受けねばモッタイナイ、いや、これを受けることにより慎吾がますます親切な人間になれば、世の中の役にも立つに違いない。
「まあ、とにかく、助かるぜ。ありがとよ」
中里は右手を慎吾に差し出した。しかしその手にライターは載せられなかった。慎吾は煙草を咥えたまま、悠然と立っている。十秒後、中里は流れを理解した。こちらがライターを持っていないことを事前に知っていた慎吾。火のついた煙草の先端を、ほらよと眼前に向けてきていた慎吾。咥え煙草で突っ立っている慎吾。動く素振りも見せない慎吾。ライターを取り出す気もなさそうな慎吾。
そりゃねえだろ、と訝りながらも、中里は念のため聞いてみた。
「……お前、それでつけろってか」
「ああ。さっさとしろ、灰になる」
慎吾は億劫そうに言った。肯定しやがったこの野郎。中里は睨みつけた。
「さっさとしろってよ、ライターさえ貸してくれりゃいいんだぜ、おい」
「俺は誰にもライター貸さねえ主義なんだよ。マッチならいいけど、マッチは持ってねえし」
「だからってなあ……」
「やるならやる、やらないならやらない、さっさと決めろ。それでも男か」
苛立たしそうに慎吾が言った。苛立たしいのはこちらである。ライターがない。火が欲しい。煙草が欲しい。今すぐだ。欲求には勝てない。男を疑われるのも放っておけない。中里はさっさと決めた。煙草を咥え直し、指で固定しつつ慎吾に顔を寄せる。慎吾が一切動こうとしないから、こちらが動くしかない。灰の溜まった先端に、先端を合わせる。震えないように煙草を支える指に力を入れ、息を吸う。酸素が発火を促す。じっとするのは辛かった。目の前にいるのが慎吾というのも、おかしな気分にさせた。至近距離。煙草と煙草を通して、触れ合っている。考えると、気味が悪い。
だが、火がついてしまえばこっちのものだ。ニコチン補給。血が落ち着く。人心地ついた。
「やっぱこれだなあ……」
禁煙は程遠い。この安息に勝るものは今のところ見当たらない。
「単純な奴だな、お前」
「うるせえ」
冷めた顔の慎吾に、笑いながら言ってやる。うえ、と吐き気を催したように舌を出し、慎吾は背を向け去った。何度か煙草を吸ってから、中里は独りごちた。
「……あいつ、何の用だったんだ」
煙草の火を提供しに来ただけというのも、常に目新しい危険な行いを考えている慎吾にしては、妙である。まあしかし、ガムテープデスマッチなんぞを楽しんでやるような、元が妙な奴だ。中里は気にしないことにした。自分がライターを探すために怪しい動きをしたことも気にしない中里だった。慎吾の煙草から火を移している姿がどう見られていたかも、気にはしないのだった。
(終)
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