なべて盛りし水の下



 空気が湿気ると手首が疼く。肘が疼く。雨が降ると脳が疼く。感情が疼く。記憶が疼く。
 削られたアスファルトに水が溜まっている。ウインドブレイカは雨粒を弾くが、ジーンズも靴も、水分を吸って重くなる。髪は鬱陶しく頬に張り付いた。それをかき上げるとき、右肘に違和感を覚えて、慎吾は一つ腕を振った。化学繊維が擦れ、耳障りな音を立てた。
「痛むのか?」
 右に立っている男が、気持ちの悪い顔を向けてくる。気持ち悪いのは、その顔に他人への心配が乗っているからだ。心遣いが隠れてもいないからだ。
「んなわけねえだろ」
 痛みはない。あるのは違和感だった。右の肘から手首まで、神経がねじくれているような違和感。腕を振っても消えない違和感。
「そうか」
 一転、右に立っている男は気のないような顔をする。まだ見られる顔だ。野暮ったいのは元々の造作がそうだからで、遺伝子の責任まで追及するつもりはない。その野暮ったい唇に挟まれている煙草の火は消えていた。慎吾の指に挟まれている煙草の火も消えている。雨が降ってきたからだ。秋雨だ。夜の山に降る雨は冷たく、熱を奪う。空は暗い。雨は止みそうにない。肘の違和感は消えそうもない。脳の疼きも消えそうもない。
 幻が額のあたりに浮かぶ。絶望に包まれた男の姿。雨に消えゆく後姿。
 慎吾は手に持っていた煙草を咥え、もう一度右腕を振った。繊維に弾かれながらもすがりついていた雨粒が、地面に帰る。
「おい、飛ばすなよ」
 右に立っている男が、不平な声を出す。
「嫌なら離れろよ」
 慎吾は澄ました顔をする。飛沫が嫌なら距離を取ればいいだけで、自分が横に並んできたのだからそんな非難はお門違いだ。男は火の消えた煙草を挟んでいる唇を不快そうに突き出して、すぐ元に戻した。
「それもそうか」
「そうだ」
「じゃあな、冷やすなよ」
 右に立っている男は少し物臭な感じで左手を上げ、背を向ける。その背が雨に消えていく。慎吾はもう一度右腕を振った。違和感は消えず、痛みとなる。右の肘から手首にかけて、じくじくと毒が染み渡っているようだ。熱は失われ、神経はささくれ、手に震えをもたらす。
 手首が疼く、肘が疼く。忘れるなと痛みをもたらす。脳が疼く、感情が疼く、記憶が疼く。お前の失態だ、お前の責任だと吠え立てる。そんなことは分かっている。分かっているから近づきすぎず、離れすぎずに立っている。追いはしない。拒みもしない。一定の距離を保ち、姿が消えるのをただ眺める。すべては自分の責任で、すべては自分が招いたことだ。
 煙草は使い物にならない。咥えていたそれを右手で取る。情けなく震える右手。これを肩口から切り落として、あの男に差し出せば、少しは楽になれるだろうか。少しは近づけて、少しはあの顔が、あの声が、気持ちの良いものに感じられるだろうか。
 幻が額のあたりに浮かぶ。切り落とされた右腕が、消えゆく男の背を掴む。だが雨は感触を失わせ、視界を奪う。絶望の中、消える後姿。止まない雨、痛む神経、冷える体、忍び寄る絶望。
 慎吾は切り落とされた右腕ごと、煙草を地面に捨てた。幻は消え、残ったのは疼き続ける肉体と精神だけだった。
(終)


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