今言わなければならないこと(あるいは、いつか言わなければならないこと)



「お前は自分で思ってるほど強かないぜ、毅」
 当然のように、慎吾は言った。中里は、慎吾を睨むように見た。
「なめてんのか」
「事実を言ったんだ、俺は。俺だってそうなんだから」
 慎吾の声は、震えかけていた。凪いでいる湖に、時々小石が投げ込まれるように、それは急に乱れ、また落ち着きを取り戻す。
「他に速い奴がいりゃ気になるし、自分がどう言われているか考え出したら止まらねえ。本当は笑われてんじゃねえか? どいつもちゃんと俺のこと見てんのか? 分かってんのか? 他人なんざどうでもいいっつっても、速いの認めんのはその他人だ。評価は気になる。俺はちゃんと認められてんのか? 俺はちゃんと走れてんのか? そんなもん、自意識過剰だ。結局好きなんだからよ、一人でやってりゃいいんだよ。そうだろ? 他の奴なんて関係ねえ。でも気になるんだ。気にしねえでいられるか、チームなんだぜ。一緒にいる。甘ったるい話じゃねえってのに。でも一緒にいるんだ。利用して、利用されてナンボだろ」
 地面を見ながら慎吾は語っていた。
 そこで、中里は捉えられた。その奥深い、歪んだ、切ない顔に。
「お前は真面目すぎんだよ。その上意地っ張りにもほどがある。偉そうなこと言うくせに、自分勝手で傲慢なこと言うくせに、結局自分のことはほとんど言いやがりゃしねえ。そんなことできるほどお前が、お前自分が立派な人間だと思うか? 強い人間だと思ってんのか? どうだ。答えろよ、毅」
 風はやんでいた。静けさが、中里の唇を開くのをためらわせた。
「そうありたいとは、思うぜ」
「思うんならやり通せよ」
 慎吾はすぐさま言った。ガラスが細かく割れたような、耳に刺さる声だった。
「やり通せねえこと、中途半端にするんじゃねえ。目障りだ。もっと身の程知っとけよ。お前の、その無駄な力は他に、使いどころもあるだろうが。何でそうやって頑固にしかならねえ。何で素直になろうとしねえ」
「俺は頑固じゃねえ」
「いいや頑固だ、強情だ。頭デッカチのトントンチキだ」
「トン……おい、何でてめえにそんなこと言われなきゃなんねえんだ」
「目障りだっつっただろうが。お前見てっとイライラしてくんだよ」
「そんなこと知るか。俺は俺だ。お前の指図は受けねえぜ、慎吾」
 中里は言い切り、背を向けた。
「もっと甘えろよ」
 慎吾は叫んだ。
「ああ?」
 中里は振り返った。慎吾は立っていた。歪んだ顔だった。
「俺と、お前は、一緒じゃねえか。同じチームで、ダウンヒルのタイムだって差がつかねえ。だから、もっと俺に、甘えろよ」
「……言ってる意味が、よく分かんねえんだけどよ」
「俺じゃ駄目か」
 困窮している、慎吾の声だった。中里は、困惑した。
「駄目とか、そういうことじゃねえ、お前は……そうだ、一緒だ。同じチームで、ダウンヒルのタイムも差ァつけらんねえ。でも、それで……甘えるとかってのは、何なんだ? 何でそういう話になる?」
「俺は、お前なんざ蹴落としてやりてえけど、でも、お前のことは」
 慎吾は言葉を止めた。沈黙。耳に痛い沈黙。
「慎吾?」
 吹いた風に、木の枝が、揺れた。
「好きなんだ」
 中里は、言葉を失った。慎吾は唇を舐め、唾を飲み込んで、中里を見ながら、言った。
「分かるか? 内臓全部、握り潰されそうな感じっての。吐き気がしてくる。お前がそう、沈んだ面してると。俺は何やってんだって。俺にできることはねえか。俺は何をすればいいのか。考えずにいられねえ。お前を、お前が、だから俺は、好きなんだ。どうのこうのって、お前の馬鹿さも鈍感さも汚さも関係ねえ、そういうことじゃねえんだ。ただ、自分がすげえ、小せえ人間に思えてくる、くだらねえ、嫌気が差す、大嫌いだ、クソ食らえだ、そんな、そのくらいお前に、俺は、惚れてんだよ」
 中里の顔に、苦渋が走った。
「何言ってんだよ、お前」
 慎吾は唾を飲んだ。中里は、酸素が足りないように、浅く呼吸をした。
「そんなお前に、甘えられるかよ。そんなの、つけ込むような……つけ込むことじゃねえか。俺は、今まで、どれだけつけ込んできたってことだろ、お前の、そういう……」
 中里の目元が強張る。目は、赤くなっている。
「俺に卑怯に、そんな卑怯な真似しろってのか、お前は。俺だって、お前にどうすりゃいいのか分からねえ。でも俺は、考えたって分かんねえから、そんな考えたこともねえ。お前もそうだと思ってた。けどお前は違うんだろ。お前は、俺より俺のこと、気にしてんだろ。俺のことちゃんと考えてんだろ。そんなの、俺は、お前につけ込んでんじゃねえか」
「そうしろよ」
 外部の音を、遮断するような、揺らぎのない、慎吾の声だった。
「俺はお前につけ込んでる、お前も俺につけ込む。それでいい。そうしてくれ。卑怯だの何だの言うんじゃねえ、それは俺が始めたことだ。俺を侮辱するのはよせ」
「侮辱なんてしてねえ、俺は」
「いいか毅、お前が本当に、強い人間になりてえってんなら」
 中里は、指を突きつけられた。その奥に、死を賭しているような顔の、慎吾がいた。
「俺に、つけ込んでくれよ」
 その震えきった声の後に、どんな言葉を続けるべきかなど、知れなかった。
(終)


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