甘味料
缶コーヒーはミルク入りの加糖に限る。ブラックはドリップコーヒーで味わうべきで、無糖は論ずるに値せず、微糖などは半端者だ。不味さをミルクと甘さで誤魔化している缶コーヒーこそが、適度なカフェインと糖分補給に役立つのだ。
そういうわけで庄司慎吾はミルク臭く舌が痺れそうなほど甘い缶コーヒーを飲みつつ、夜の峠で同好の士との会話を行っていた。どこの桜が満開だとかどこの道で事故が起きたとかどこの店で強盗があったとか、単なる世間話だ。気遣い無用の相手とならば実がなくともさほど無駄とも思えぬもので、眠気覚ましには最適だった。ただでさえ夜勤明けから洗車やら買い物やら部屋の片付けやらゲームやらをしていて三時間も寝ていない。峠を超速で下るにはもう少し覚醒度を高めておくべき体調だった。
「お前は舌が子供だよな」
睡魔を撃退するための缶コーヒーを飲み干したところで、理屈を知らない男がそんなことをしみじみ言ってきたので、その若干優越感すら浮かべている泥臭い顔に、慎吾は軽蔑の視線を送った。
「お前みたいな奴を世間様じゃ老害って言うんだぜ、毅」
「何寝ぼけたことを言ってんだ」
「自分の今の実力棚に上げて、若者のやることなすことにケチつけたがるんだからな。裸の王様だ」
声にも顔にもたっぷり憐憫を含ませてやると、中里毅は不愉快そうに顔をしかめた。この男は図星を指されるとすぐに態度に表す。一年近く同じように接してやっているのに学習するということがない。その単純さを感じるのは実に気味が良い。眠気もよく飛ぶ。
「相変わらず手厳しいよな、お前」
会話をしていた一人、実海が苦笑した。チームに合わぬ優男だ。ナイトキッズという走り屋チームには中里のような泥臭い男が多い。中里よりも不細工な男も多い。実海はその中でも珍しい二枚目だ。新型のワゴンRに乗っている。その隣に立つ枝松はチームに合う泥臭い顔立ちで体格が良い。古いジムニーに乗っている。どちらも去年の暮れにチームに入った。なぜ入ったのかを慎吾は知らない。そう親しくもない二人だった。だが話はする。実海も枝松もお人好しではないし極悪人でもない。気遣いも無用だ。
「事実を言わないことが優しさになるのは、本当の年寄り相手だけだろうが」
そんなことを言っても聞き返してこない程度に頭も回る。どこかの理屈を知らない男とは違う。
「甘いモンばっか食べてると、糖尿病になるぜ」
その男が、不愉快さを残したままの顔で言った。好みの話を健康の話にすり替えるあたり卑怯だが、本人に自覚がないから始末に負えない。顔の端に無意識にだろう心配を乗せるのだから尚更だ。慎吾はため息混じりに言葉を返した。
「ばっかは食べてねえっつーの」
「ピーマン嫌いなくせしてよ」
「嫌いじゃねえよ」
「この前人が折角作ってやったナポリタンで除けてやがったのは、どこのどいつだ」
「嫌いじゃねえけど食う気がしねえ、そんなモン食いでもしたら、あなた様のその折角の手料理を堪能できなかったと思いますがね」
不味いとも思わないが美味いとも思わないものを口に入れても気分は良くない。それなら最初から口に入れるべきではない。そもそもナポリタンは玉ねぎとウインナーが入っていれば十分なのに勝手にピーマンを入れやがった奴が悪い。そいつに悔しそうに歯軋りされたところで罪悪感も覚えない。むしろ気味が良い。
「慎吾にナポリタン作ったんすか?」
枝松が濁声を少し高くした。ああ、と中里が緩めた顎で慎吾を示す。
「こいつがいきなりウチに来て、飯食わせろっつーもんだからな。丁度俺も休みだったしよ」
「へえ、慎吾って毅さんチに行くんだな」
物珍しそうに見てきた実海を、悪いか、と愛想笑いを浮かべながら見返してやると、いや、と意味深長に笑われた。
「仲が良さそうで結構」
「良くねえっての」
財布に金を入れていない状態で腹が減ったから、飯をせびりに行っただけだ。ガソリン代を考えると素直に預金だけ下ろした方が安上がりだったかもしれないが、大した違いはない。それにナポリタンを食べただけで何もない。除けたピーマンを全部箸でつまんで中里の口に突っ込んでやったのは嫌がらせでしかない。実海にも枝松にも意味深長に見られるいわれはない。それを説明するのも面倒なので、大体な、と慎吾は話を戻した。
「苦いモンは毒物なんだよ。そういう物体を美味いと思う奴の舌がおかしくて、ピーマンを美味いと思わねえ俺の味覚は正常だ」
断言すると、また屁理屈を、と中里が不愉快そうな顔を続ける。理屈を知らない男に理屈をぶつけて困らせるのはやはり気味が良い。
「でも山菜とかうまくね?」
そう語尾を上げたのは枝松だ。途端に実海が、あー俺ウド苦手、と首を横に振る。俺は山菜とか食わねえよと慎吾が口にする前に、俺は好きだぜ、酢味噌和えとかな、と中里が顔のしわを取り、いいっすね、と枝松が同意した。
「タラノメの天ぷらとか最高ですよねえ」
「ああ、いいよなあ……食いたくなってきたな……」
中里が遠い目をした。その目の先にどんな光景があるのか慎吾には分からない。山菜は子供の頃に父親の実家で妙な料理を食べさせられて以来、存在を認知しないことにしたから種類もよく知らない。あんな青臭くて苦いものに今更興味もわきはしない。しかし何か面白くない。
「あ、良ければおすそわけしましょうか? 俺今度山菜採り行くんで」
思い出したように枝松が言うと、中里の顔色はぱっと明るくなった。
「いいのか?」
「天気の関係で時期ずれちまったから、どんだけ採れるか分かんねえっすけど。基本フキとかウドとかタラノメとかいきますよ。ワラビとタケノコもあるかな」
「へえ、そんなに採れる場所知ってんのか」
「親父がね。腰やっちまってからは俺と親戚の叔父さんとで行ってますけど、まあご近所に分けられるくらいは採れます」
「そうか。俺も爺さんが生きてた頃はよく一緒に行ったんだけどな。亡くなっちまってからは御無沙汰だ」
「沢登ったりしました?」
「ああ、そこ越えねえと奥まで行けねえんだよな。歩いて歩いて、帰ったらもうくたくたでよ」
「ねえ。それで最初カタクリの花とか見ると癒されるんすけど、もう最後の方なんて花とかどうでもよくなるんすよね。目にも入らねえ」
「フクジュソウとかな。踏まねえようにはするんだが、草なんだか花なんだか分からなくなってくると、どうしようもないぜ」
楽しそうに枝松と中里が語り合うのを慎吾は黙って聞いていた。山には興味がわくが山菜にはわかないから山菜採りなどしたこともなく、会話には入れない。入る気もしない。だというのに同じく黙って枝松と中里の会話を聞いている実海は微笑みながら意味深長な視線を寄越してくる。蹴ってやりたいところだが距離が遠かった。空き缶食らわせてやろうかこの上りヨロヨロの軽乗りめがと思う間も枝松と中里は二人の世界を続けている。
「休みが合えば一緒に行ってもいいんすけどねえ。毅さん週末休み二日連チャンとか無理っしょ?」
「あー……そうだな。今からだとな」
「俺行く時泊りがけっすから。まあ帰ったらお宅寄りますよ。下処理してからの方がいいっすかね?」
「いや、それくらいはできるから気にするな。毎回手伝わされてたしよ」
「俺もっす。キノコ採りのシーズンもね。あれほど松葉が憎たらしく思えることはないですね……」
「ああ……取っても取っても松葉なんだよな……」
二人揃って遠い目をする。その目の先にどんな光景があるのかやはり慎吾には分からない。松葉がついているキノコなど見たこともない。見たいとも思わないが、中里と感覚を共有できないことは何か面白くなく、そういう自分も面白くない、どころか腹立たしいので慎吾は悪人面になった。こういう顔をしている時に他人に声をかけられることはあまりない。
「食わせてもらえばいいんじゃねえの、天ぷらとか」
しかし実海は声をかけてきた。微笑みは続いている。優男のくせにそういうところは無法空間の多いナイトキッズに入っているのも頷ける性質だったが、今は歓迎したくもなかった。
「俺は山菜とか食わねえんだよ」
「天ぷらならアクも気にならないしな。ねえ、毅さん」
人の話を聞く気もないらしい実海がよりにもよって中里に振った。枝松と話していた中里は、あ?、と頓狂な顔を向けてくる。何でもねえよと慎吾は悪人面に笑みを浮かべて極悪としたが、それを気にしないのがチームのメンバーであり、そのトップに居座る中里であり、それは不用な時に限って人の話を聞いている空気の読めない男でもあった。
「ああ、まあ、そうだな。それならコゴミもいいか」
「ああいいなあ、やっぱ春は山菜っすねえ……」
「だなあ……」
枝松と中里はまたもや遠い目をする。その顔はどこか呆けている。そこまで深く中里に共感されている枝松のことを新参者が調子に乗るなと思う自分がまた腹立たしく、晴れない気分を紛らわせるために、爺くせえ奴らだな、と慎吾はせせら笑った。呆けていた中里の顔が引き締まり、睨みがくる。
「大人の味も分からねえガキが、ひがむんじゃねえよ」
「関節弱ってる老害が、若さをひがむんじゃねえよ」
弱っちゃいねえよ、と睨みを続けたまでは威勢が良かったが、たまに痛てえだけで、腰とか、と目を逸らして呟いた態度は弱気が出張っていた。図星を指されるとすぐこれだ。嘲弄にも哀れみが混じる。
「女もいねえのに腰が弱くちゃ悲惨だな、おい」
「てめえだっていねえだろ」
「俺は作ってねえだけだし、まだ関節にきてねえし?」
「この、慎吾、調子に乗りやがって」
中里が再び歯軋りする。調子に乗っている時にはもっと色々な言葉を使ってやるものだが、慎吾はそれを口にはしなかった。枝松と実海が揃って浮かべる微笑により腹立たしさが増してきて、会話を続ける気も失せた。缶コーヒーの甘さと中里の単純さのおかげで眠気もすっかり飛んでいる。慎吾は空き缶を実海の顔に落ちるよう高く放り投げ、車に戻るために歩き出しながら、中里を指差した。
「天ぷら食わせろ」
「はァ?」
「次は折角の手料理、残さないようにしてやるからよ」
嫌みたらしく笑ってやり、空き缶をお手玉している実海も下品に笑んでいる枝松も視界から外し、呆けかけた中里の顔だけ見届けて、後は振り返らなかった。事故で傷つけた右手首の関節はよく痛む。たまにではない。それを中里は指摘してこなかった。理屈を知らない空気も読めない、甘味料みたいな男だ。そういう男との会話で冴える脳味噌というのも甘味料でも詰まっていそうで、厄介さを感じた慎吾は歩きながら髪を振った。
(終)
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