雲のない青黒い空を侵すように月が浮いている。満月だと慎吾は思う。丸いからだ。しかし月齢など普段の生活で意識もしないのでそれが正確な満月なのかは分からない。ただ夜空に浮かぶ月はくっきりと丸い。だから満月だと思う。やたらと明るい月だ。車のヘッドライトが無用に思えてくる。実際には有用だがそれくらいの明るさを感じさせる月だった。それを慎吾は地面にしゃがみ込みシビックのボディに頭を預けながら見上げている。地球は回っていて月も回っていて宇宙も回っている。しかしどこからどこまで回っているのかと思う。そもそも宇宙とはどこからどこまでが宇宙なのか。宇宙の終わりはどこなのか。地球の始まりはどこなのか。月はなぜこうも明るく輝き折角の夜を台無しにするのか。太陽はどこにいったのか、地球はどこにあるのか、日本は宇宙のどの辺なのか。抽象的な思考が頭蓋骨と頭皮の間あたりを漂う。何で丸なんだ?
「何やってんだ、お前」
 砂利を踏む音とかすれ気味の男の声が、思考を遮る。慎吾はだらしなく開けていた口から言葉を出す。
「見りゃ分かるだろ。お月見だ」
 月は変わらず空に浮かんでいる。宇宙の様々な引力との釣り合いを保っているのかもしれない。そうして夜の空に浮かび無駄に丸く輝いている。
「今夜は満月か」
 濃い生物の気配、砂利を踏む音とかすれ気味の男の声。
「知らねえよ。まあ、丸いからそんなもんなんじゃねえの」
「道理で明るいと思ったぜ。綺麗だな」
「陳腐な感想を言うくらいなら黙ってろ、無粋な奴め」
 無粋な男は黙った。言い返す用意をしていた慎吾はつい男の気配がする方に目をやった。ジーンズに皺の目立つジャケット、光沢のある黒髪、白く真っ直ぐな頬、暗い首筋。月が無駄に輝いているせいでよく見える。そうでなくても見えたかもしれない。記憶は見えない部分を補足したがる。満月に見惚れているその表情。綺麗なものを見て綺麗だと思っている綺麗な顔。
「どこがだよ」
「あ?」
 独り言だった。しかし聞いた男は見下ろしてくる。呟きも聞こえる距離だ。気配も息遣いも感じられる。体温は伝わらない。目が合うと伝わりそうな気はしてくる。慎吾は間抜けな顔の男から月へと目を戻した。夜を台無しにする満月だ。隠されてこそのものがあると分かっていない。何で丸なんだ?
「綺麗だなあ」
 かすれ気味の男の声は空に向けられていた。独り言だ。慎吾は男を見なかった。ただ動かない月を見上げていた。綺麗なものを見て綺麗だと思っている綺麗な顔に見惚れたくはなかったからで、なぜ丸なのかはもう考えなかった。
(終)


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