苦労



 地元の山には独特の空気がある。安らぎと昂りという相反する感覚を自然に与えてくれるものだ。そこには目的も持たぬまま足を運びたくなるほどの温もりがある。目的を持っていても温もりに変化はない。今夜の中里には峠道で愛車を走らせるという目的があったが、それは山に常の暖かみがあることが前提であり、降り立ったふもとの場で、一部にまとまっている十人ほどの男が車の音をかき消すほどの野次と歓声を度々上げていて、空気が乱れに乱れている状況では、即刻実行できるようなものでもなかった。何だこりゃ。中里は喧騒に満ちた男たちの群れに近づいたが、誰にも気付かれなかった。半端に輪になっている中心に、男たちの意識は向けられているようだった。
「上品気取りゃあ攻め切れねえ、謙虚になりゃあ勝ち抜けねえ。誠実さが欲しけりゃ教習所に行けよ、いくらでも合格判子押してもらえるぜ」
 そこから生まれる言葉が、太い野次と歓声を生む。高くも低くもなる、人の苛立ちを喚起する声を発した猫背気味の佇まいの男は、カーゴパンツに両手を突っ込み、茶に染まった長い前髪から覗く物憂げなところのある顔に、妙に曲がった笑みを乗せている。それはどこからどう見ても、この峠の下り最強を自称して吹聴している、身勝手で速いドライバー、庄司慎吾であった。何やってんだ、あいつは。つい中里は呟いていた。
「あ、毅サン。ナイスタイミング」
 傍にいた身のこなしの軽い若い男が、中里の呟きに気付いて振り向くと、親しみ深くにへらと笑った。何がナイスなのかと中里が顔をしかめると同時に、別の人間の声が上がる。
「車に対しては誠実に、人に対しては上品に、力に対しては謙虚になるべきだと俺は思いますし、あんたに命令される筋合いはありませんね」
 周囲の男たちによる感心の波を作り出した男は、好青年という様相で、庄司慎吾の前に歪みなく立ち腕を組んでいたが、発した言葉には棘があった。誰だっけ? つい中里は呟いていた。それを聞いた若い男が、声を返してくる。
「ほら、香島クンっすよ。最近よく来てたじゃないですか、白いヴィッツ。ケンゼンさ有り余ってる感じの」
 白いヴィッツ、有り余っている健全さ、ということで、あああいつか、と中里は思い出した。二度ほど話したことがあるが、実に爽やかで真面目な雰囲気を持つ、白いヴィッツのドライバーだった。そのドライバーと慎吾は、中里が若い男と話している間も、まだ刺々しい言い合いを行っている。何があったんだ、あいつら。中里の呟きに、若い男が律儀に答える。
「やー、今日慎吾クン、何かすっげ機嫌悪かったらしくて、香島クン煽りに煽りまくって、バトルしたんすよ」
「はあ?」
 人がいない間に何を勝手なことをしているのか、と慎吾を見るも、こちらには気付かず、ヴィッツのドライバーに毒を吐き、周囲を煽り、ヴィッツのドライバーも慎吾に毒を吐き返している。勝手である。
「で、まあモチロンフツーに慎吾クン勝ったんすけど、慎吾クンの走りが危険だの何だのって香島クンが事実を言って、まあ慎吾クンにとっちゃそれがイチャモンつけたってことで、慎吾クン言い返しちまって、と思ったらまあ香島クンも見かけによらず結構口が達者でねえ、何つーんすかね、毒舌バトルが止まらず現在進行形、みたいな? わはは」
 若い男はへらへら笑う。問題意識の欠片も持っていない様子だ。誰も止めてねえんだな。確認するように中里は呟いた。
「だって止めたらモッタイねーでしょ、おもしれーんですもん」
 笑ったままの若い男を、そんなこと胸張って言うんじゃねえよお前は、と言って中里はじろりと見たが、若い男は気にした風もなかった。
「や、だから毅サン来て良かったっすよ、俺ら止める気ある奴いねーし、このままだと慎吾クンも香島クンも乱闘的な意味でバトッちゃいそうだし。わははは」
 若い男は笑い続け、慎吾とヴィッツのドライバーとの言い合いは続いており、周りの男たちの哄笑も断続的に上がっている。どいつもこいつも勝手である。勝手な奴らは放っておくに限るのだが、流血沙汰の可能性があるならば止めに入るべきだろうし、峠の空気が乱れたままというのも具合は良くなかった。俺からすりゃ、ナイスじゃねえよ。呟くも、若い男はわははと笑うだけだった。慎吾とヴィッツのドライバーは相変わらず言い合っているし、周りの男たちはそれを止めようともせず、好き放題に野次っている。
「おいお前ら、いい加減にしろよ」
 そこに割って入るには多少の思い切りを要したが、勝手な奴らからブーイングを食らうと、かえって腹が据わった。ヴィッツのドライバーは会釈をしてきて、慎吾は不機嫌そうに横目で見てくる。
「お前にゃ関係ねえだろ、毅。すっ込んでろ」
 単調な慎吾の物言いは、慣れている中里にもすごみを感じさせるものだった。しかし中里は慣れていた。言い返すには思い切りも要さなかった。
「こんな騒ぎを起こされちゃあ、関わりたくなくても関わるしかねえだろうが。ったく、お前が勝手なことするってのは分かり切ってることだけどよ、慎吾……」
 そこで慎吾からヴィッツのドライバーに目を移し、お前までそんなレベルに落ちるこたねえだろ、と言ってその名前を続けようとした中里は、声を出せなくなった。先ほど若い男が何度も言っていた、そのドライバーの名が、ぽっかり記憶から抜け落ちていた。健全さ溢れる顔をいくら見ても、引っかかるものすら感じない。綺麗さっぱり忘れていた。
「香島です」
 長くなった沈黙を埋めるようにヴィッツのドライバーが言い、中里の記憶の欠落は埋められた。その途端、相手の名前を失念したことの決まりの悪さが襲ってきて、そうだそうだと中里は話を再開しようとしたが、周りの男たちの哄笑に邪魔をされ、何も言えなくなった。勝手なことしといて、笑ってんじゃねえ。怒鳴りかけた時、より近くで聞こえる笑い声に意識が向いて、そちらを見れば、つい先ほどまですごみを見せていた慎吾が腹を抱えて笑っており、やはり中里は何も言えなくなった。
「あー、くっだらねえ、マジで」
 何ともおかしそうに笑いながら慎吾は言い、身を翻し、ヴィッツのドライバーからも中里からも離れていく。周りの男たちが慎吾に声をかけ、慎吾も笑いの混じった声を返したが、その歩みが止まることはなかった。赤いシビックの運転席に慎吾の姿が消え、シビックごと場からも消える。周りの男たちは白けたらしく散り散りになり、山は静けさを取り戻し、空気からは温もりも感じられるようになったが、中里は慎吾のあまりに自然で素早い動きに唖然とさせられたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。何だったんだ、あいつ。
「中里さん、お騒がせしてすみませんでした」
 やがて後ろから声をかけられ振り向くと、申し訳なさそうな顔をしたヴィッツのドライバーが立っている。その名前は覚えていた。
「香島。いや、まあ、気にするな。ほとんど慎吾のせいだろ。けどお前、あんまりあいつと同じにやり合わないでくれよ。あいつはほとほと度が過ぎるからな、それでお前に怪我でもさせたら、俺もやり切れないぜ」
「でしょうね」
 ヴィッツのドライバーは切り替えた風に涼しく笑う。この男がさっきまで慎吾と毒の吐き合いをしていたとは、信じがたいものがある。あいつもこのくらい、物分り良くなってくれねえもんか。無理か。思いながらヴィッツのドライバーを眺めていると、苦笑された。
「庄司さんもご苦労ですね。それでは、俺はこれで」
 頭を下げ、ヴィッツのドライバーは、白いヴィッツに歩いて行った。庄司さん? ちょっと待て、何であいつが、という呟きは、ヴィッツが場から消えてからようやく出たが、問いに答える人間は既に誰もおらず、釈然としない思いを抱えたまま、中里は当初の目的を実行するはめになり、峠に到るまでの運転は非常に危ういものとなった。
(終)


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