基準
カンカン照りの影響は強かった。日が沈んでも大気は熱を抱えたままで、闇の中、体と世界の境目を曖昧にする。
「暑ィ……」
中里はうつろな顔で呟いた。峠に来れば高地で緑豊かな分、少しは涼しいのではないかと期待していたが、元の気温が高すぎるのか、下がっている気配が一切感じられない。暑い。とにかく暑い。
「言うな。余計に暑い」
向き合ってから無言を通していた慎吾が、感情の殺された声を出す。暑さに殺されている。湿気が多く風がないので熱は一面に立ちはだかっている。逃げ場もない。
「むしろだから、散々言ってアレを薄めましょうってもんだろ、慎吾」
慎吾の隣に立つ日頃よく喋る坊主頭のメンバーも、活気に欠けた口調だ。今日、峠に集まる車は多い。走り屋仲間は皆、似たようなことを期待したのかもしれない――山なら少しは涼しいだろう。しかし少しの涼しさでどうにかなる暑さではなかった。そこらで薄着の野郎どもが茹だっている。全裸に近い奴までいる。見目はとても良くないが、それを気にかける精神力も奪う暑さである。夏場は忍耐力と節制精神を駆使して扇風機のみで過ごす中里も、さすがに言葉が少なくなる。
「黙れ。余計に暑い」
慎吾は常でも低めの声を地に落とすほどにした。そこにも顔にも感情は浮かない。ただ目は不思議とギラついている。暑さを憎んでいるのかもしれない。
「これだからこう、やる気がアレで、アレッスよね、毅さん」
ため息を吐いた黒いタンクトップの坊主が同意を求めるように骨張った顔を向けてくる。皮膚の上では汗が玉になっているが、髪の毛が短い分暑苦しくはないので、中里は坊主をぼんやり見ながら何となく頷いた。
「そうだな……蒸し風呂だな……」
「そうッスね。タオルッスね」
「お前らどうせ言葉を使うなら、せめて会話を成立させやがれ」
額を指三本で拭った慎吾が、顔にも声にも不愉快さを表した。慎吾の顔はごつごつとしており、薄く色の抜かれた髪はその高い頬が隠れるまで長い。そこに感情が乗ると何らかのエネルギーが放出されるようで、周囲の温度が高まる気がする。
「成立してんだろ。俺と毅さんのこう、何、アレよ。フィーリングの一致?」
斜め上を見て首を傾げる坊主に、笑うように頬を痙攣させた慎吾が「意味が通じてねえんだよ」と舌打ちを飛ばす。それを見ながら中里は、こいつの傍は暑いのか、と思う。慎吾の傍だ。少なくとも涼しくはない。苛立ちのオーラをムンムン発されると空気も淀む。風通しが悪い。熱も飛ばない。つまり暑い。暑い奴だ。着ている白い半袖ジップパーカーには清涼感があるが、いかんせん髪が長い。切ればいいってのに。坊主もいいんじゃねえか。涼しいよな。でもこいつに坊主は似合わねえか。顔が悪い。いや悪くはない。いや悪いのか? 何が悪いんだ? 沸点を越えた中里の思考は四次元あたりを放浪する。
「毅さーん!」
それを現実に引き戻したのは、遠くから呼ぶ別のメンバーの声だった。はっと目を左側に向けてみれば、一人の男が笑いながら駆けてくる。胸に『純愛』と書かれた黄色いTシャツに短パン姿のワカメじみた金髪は、ドラッグをやっていてもこうまでテンションが高くはならないだろうというくらい元気が良いことで有名なメンバーだ。気温に関係ないらしい。それが両の手を頭の横に掲げながら中里に向かって駆けてくる。ハイタッチでもしようというのか。若々しく輝かしい笑顔にはつられて手を上げてしまう力がある。
「よ、よう」
「ういっす!」
笑いながら目の前まで来た金髪メンバーは、掌が痺れるほど強いハイタッチをしてから、合わせた手を素早く下ろし、
「とう!」
「おっ!?」
中里のポロシャツの裾を掴むと、シャッターを開けるがごとく引き上げた。束の間胸まで外気に晒され、しかし無風のために汗が吹き飛ばされることもなく、金髪がすぐに手を離したポロシャツの裾は重力に従い腰まで戻る。
「では!」
咄嗟に動けずに上げたままにしていた中里の手に再びハイタッチをした金髪は、笑顔のままウキウキと去っていった。
「……何だ、今のは……」
呆然と中里は呟いた。行動の意味が分からない。いやハイタッチまではそういう勢いだと理解するにしても、なぜポロシャツをまくってきて、またハイタッチなのか。肉も融けそうな暑さのために、頭のネジも何本か融けたのだろうか。
「何か、めくりたくなったんじゃないスか? こう、のれん的な?」
坊主が遠くを見ながらまた首を傾げる。
「何か、なあ……」
男のポロシャツをめくっても秘境が出てくるわけでもなし、もっと適当なものはなかったのか。それともめくることができれば何でも良かったのか。中里には分からない。ただでさえ脳がオーバーヒートしかけている。他人の価値基準に思いも馳せられない。
「っつーかお前、下にシャツくらい着ろよ。見苦しい」
慎吾は変わらず不機嫌だ。漂う空気が熱い。もう少し平常心を保ってもらいたい。暑い。しかし人の体をして見苦しいとは、相変わらず直截な男である。暑い。
「いいじゃねえか、ここなんて、お前らくらいしかいねえんだしよ……」
息を吸うと熱い空気が中から浸透してくるようで、中里は声を絞った。女性のギャラリーでもいようものならもっと身だしなみを整えろと号令もかけるが、平日の熱帯夜、わざわざ涼しさに望みをかけて虫の飛び交う峠へ来るような酔狂は、同じチームの走り屋連くらいである。そんな野郎率百パーセントの夏の山、上にポロシャツ一枚着ているだけでも人間的とは言えまいか――景観を損なうほどの露出をしているわけでもない、突然人の上着をまくってくる弾けた奴もそうそういない、つまり見苦しいとされた体を晒す機会もないのであって、これ以上布をまとうことは勘弁してもらいたい。
「俺はむしろ、毅さんなら何――アイタッ!」
筋の張った腕を組みながら真顔になった坊主の頭を、同じく真顔になった慎吾が突如左手でスナップ鋭くパアンと叩き、その拍子に汗が無数の粒と弾けて飛んだ。
「うわ、何で叩くかなあお前は」
「うるせえよ」
「ひでえッスよね、毅さん」
頭を撫でつつ坊主が細い眉を八の字にし、慎吾はやってられないとでも言いたげに目だけで上を見、熱そうなため息を吐く。見事な慎吾の叩きっぷりであった。右手を怪我していてもその動きは滑らかだ。こいつは左利きだったろうか。それにしても、
「……まあ、いきなり叩くのは、どうかと思うぜ」
首に流れる汗を手の甲で拭いつつ、感じたことをそのまま中里が口にすれば、慎吾は短く強く息を吐き、
「お前のせいだろ」
「あ?」
よそを見ながら呟いた。どんな責任があるというのか、把握できない中里は慎吾を窺うが、この男、不機嫌そうによそを見ているばかりである。坊主に目を移せば、頭を掻きつつ唇を鼻に寄せ、外人風に肩をすくめた。行動の意味が分からない。どうにも頭がわいている。暑い。外で暑いのならば車にいても同じことだ。ならば汗をかくにもシートの上で垂れ流す方が有意義でもある。というよりは、
「しばらく走ってくるぜ」
それが第一義なのだ――思い中里は慎吾と坊主に片手を上げて、自分の車に戻ろうとした。一歩踏み出してすぐ、しかし後ろから引っ張られるような感覚があり、足を止める。振り向くと、シャツの背中側の裾を、慎吾が指でつまんでいた。
「何だ?」
「いや」
感情の殺された顔の慎吾はすぐにシャツの裾から手を離し、ホールドアップするように上げる。用はないらしい。行動の意味はやはり分からなかったが、車に意識が向いていた中里は、
「じゃあな」
もう一度手を上げて、前に向き直った。少し歩いてから後ろの方でパアンと良い音がしたのでまた振り向くと、慎吾が坊主の頭を叩いていた。あれだけ他人に絡めるならばいつも通り、十分生意気だ。不安もない。中里は再度前に向き直り、軽く表情を緩めて歩きつつ、顔に垂れる汗を鬱陶しく感じ、シャツの腹でそれを拭った。
(終)
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