つま先から着地



 経済活動の自由度が高まる昨今、暴走行為は規制されるばかりで、走り屋と呼ばれる人種も公道からは掃き出されつつある。それでも平日休日無関係に、暴走抑止道路鋲未設置の峠道をふっ飛ばす人間は、雑草のごとくしつこく生きて、秋が暮れても枯れることなく自動車産業を支えていた。
 妙義山に夜ごと集う、妙義ナイトキッズというチームに属する走り屋連も、車に金を多く落としている男たちだ。異性が皆無のその集団は、山では常時浮いている。それは県内に名を知られている走り屋を擁するためでもあるし、一部特別粗暴な人間がいるためでもあるし、見るからに爽やかな好青年と猛烈に童貞臭を発している人間が親しくしているためでもあるし、むさ苦しい野郎どもが群れているためでもあるが、チームと無関係な車好きから引いた目で見られる最たる理由は、繰り出される会話が赤裸々なためであった。そして当の走り屋連は、自分たちの人気のなさをイケメン不足という一語で片付けているため、会話を隠すことはない。

「フェラした後にキスしてくる女って、何なんですかねえ」
 仲間たちによる異次元的運転技術自慢に妥協が見えたところで、淡い茶の猫っ毛を持つ大学生然とした男がため息混じりに呟いて、中里は話の突飛さに唾のみでむせかけたが、
「何って、してえんだろ」
「まあノリだろ。盛り上がってんだろ。いいじゃねえのキスくらい」
 ベイスターズのスタジャンを着ている金髪角刈りと、オレンジのセーターを着ている黒髪ロン毛は平然と言葉を返し、猫っ毛は不服そうに、薄い眉根を寄せた。
「でも自分のザーメン入った口だと思うと、萎えません?」
 直接的な言い回しに、中里は咳込みかけたが、
「冷静に考えるのもどうなんかね、その辺」
「まあ気持ちは分からんでもねーわ、自分のチンポと間接キスは微妙だし」
 ロン毛も角刈りも変わらず平然と言葉を返した。
「俺はクンニの後にキスしたいとは思わないんで、その辺もちょっと謎なんすよねえ」
 猫っ毛は眉をひそめたまま腕を組み、尖った顎を傾ける。中里が何も言えぬまま、話は進む。
「結局ノリじゃね?」、ロン毛が南米人じみた顔をつまらなそうにしかめて言い、
「ぶっちゃけ俺も嫌だけどな」、角刈りは冷蔵庫のような顔で堂々と言った。「だからそもそもしてもらわねえけど」
「してもらえねえ、の間違いじゃねえの」
 遠くを見ながらぼそりと呟いたのは、重ね着を最終的に紺のパーカーで終わらせている、茶の前髪だけ頬まで伸ばした男だ。「んだと」、角刈りは米粒のような目で、その男を睨む。
「じゃあてめえはしてもらったことあるのかよ、慎吾」
 中里はむせることも咳込むこともできなくなった。息が勝手に止まったからだ。慎吾は息を止めることもなく、考えるような間も置かず、角刈りを見返しながら答えた。
「あるぜ」
「一言かよ! もっと語れよ!」
 角刈りが絶叫し、うっせえよ、とロン毛がその頭の角を拳の角で擦り、いてえよ!、と角刈りがまた叫ぶ。慎吾は嫌そうに角刈り側の耳を片手で押さえ、何語れってんだ、とため息とともに言った。それにつられるよう、中里は息を吐き、自分の息が止まっていたことを知った。
「慎吾さんはどーですか、気になりません?」
 猫っ毛が思い出したように慎吾を上目で見、中里の息は再び止まった。
「別に」、と慎吾は億劫げに高い頬を上げ、細くした目で猫っ毛を見下ろす。「そういうことが気になる相手はその程度だろ。その程度の相手がどうのなんざ、考えるだけ時間の無駄だ」
「お前も冷静だよな、その辺」、ロン毛が卑しい笑みを浮かべ、
「っつーかァ」、角刈りは懲りずに慎吾を睨みながら、
「お前何そんなひどいツラしときながらヤリチン代表みたいなオーラ出してんの? いっぺんシバかれてえの?」
 言い、慎吾は嘲笑で頬を上げた。
「僻むな早漏」
「遅いよりは早い方がいいんだよ、二十分コースも楽しめるし」
「二分か、そりゃ安上がりで羨ましいな」
「皮オナしすぎて本番じゃイけねえ奴が調子に乗ってんじゃねえぞコラァ!」
「図星指されたからってアホなキレ方してんじゃねえよ歩く性病!」
 声を大きくした角刈りに怒鳴り返した慎吾を見ながら中里は、別にこいつはイけてるよな、と思い、再開させた呼吸は保ったまま、すぐに自ら考えることを停止した。
「やっぱ、好きな相手とヤんのが一番なんすかねえ」
 慎吾の言葉を今更呑み込んだらしい猫っ毛が、腕を組んだまま困ったような声を出す。
「まあなあ」、ロン毛が他人事のように呟き、「知るかそんな昼ドラ展開」、角刈りは吐き捨てた。
「常識的にはそうじゃねえの」、言ってうさんくさそうに顔をしかめた慎吾に、猫っ毛はまた思い出したように顔を向けた。
「どうしたらヤれますかね、好きな子とは」
「どうもこうも、努力するしかねえだろ」
 問いに対する慎吾の返答とともに、場に沈黙が訪れた。皆の視線は慎吾に集中した。一斉に見られた慎吾は頬をひくつかせながら、馬鹿丁寧に言った。
「何を仰りたいのかね、諸君らは」
「いや」、角刈りがまじまじと慎吾を見る。「努力ってお前に一番似合わない言葉だなって」
「っていうか常識的って言葉がまず似合わんね」、ロン毛が達観した風に言う。
「クソが」、唾を飛ばすように言い捨てた慎吾から、猫っ毛は素早く顔を中里に向け、中里はぎくりとしたが、猫っ毛はそれに構いもせず、
「毅さんもそう思います?」
 疑問を投げかけてきた。ぼうとしていた中里は、「あ?」、とひっくり返った自分の声を聞いて我に返り、考えることを取り戻した。そう、とは、好きな子とヤるには努力が必要、ということだろう。ああ、まあ、と忙しく頷きながら、中里は余計なことは言わないように、答えた。
「努力は、必要だろうな」
「うーん」
 猫っ毛は目を閉じて、筋が違いそうなほど首を傾げると、そのまま硬直した。考え込み始めたようだ。中里は意識して呼吸を取り、何度も息を止めていたため狂いかけている心臓を落ち着かせながら、無意識に慎吾を見た。
「風俗漬けの早漏野郎が、俺にケチつけるなんて百年早えんだ」
「めくるめくプレイも知らないド素人が風俗を語るなど、天が許しても俺が許さん!」
「いや慎吾それ語ってねえし、んなとこで引き合いに出されたらお天道様も困ると思うぜ」
 慎吾は角刈りとの睨み合い、言い合いを懲りずに始めており、両者の発言の合間に、ロン毛が適当な茶々を入れていた。よくある光景だ。話題が車のみだったら、中里もその輪の中に入れただろう。あるいは以前までなら、ここまで無口を決め込まずに済んだかもしれない。だが既に時は経ち、事態は変化を遂げている。下手に何かを言うと自分の立場が危うくなることを、中里は知っている。
「やっぱそうですね」、考え込んでいたらしき猫っ毛がぱっと目を開き、会話に入れずにいる中里を見ながら頷いた。「俺も好きな子とヤれるように努力します」
「……頑張れよ」、中里も頷いた。恋愛をする、とは言わないあたり、何か違うような気もするが、好きな子とヤろうとするのは、悪い努力ではないようにも思えた。
「はい」、猫っ毛は清々しく笑った。「毅さんも、どうか良い子ゲットしてくださいね」
 その一言は、実に余計だった。どうにもしがたい間を置いてから、そうするぜ、笑い返した中里の顔は、分かりやすく引きつったが、疑問もなさそうに満足げに笑む猫っ毛にも、各車メーカーの生産拠点に話を移した慎吾も角刈りもロン毛にも、それを指摘されずには済んだ。

「変なこと考えるなよ」
 試験が近いからと猫っ毛が引き上げて、角刈りとロン毛も明日は早いと撤収し、怠惰な雰囲気が流れ出した中、小難しい顔をした慎吾が言い、中里は何も考えずに声を返した。
「あ?」
「咥えた後にキスすんのはどうなのかとか」
 慎吾の目は車に据えられている。赤いシビックEG−6。それを見て慎吾を見て、言われたことを考えると、中里の頭には、痛くなるほど血が通う。息はどうにも止まりかけ、言葉は口から出ていかない。走り屋として峠に立っている時に、互いの生々しい関係性について話すことには、躊躇があった。中里は黙ったまま、少し離れた場に停めている自分の車を見た。黒い32GT−R。見ると他のことはどうでもよく思えてくる。
「ま、お前が何考えようが、俺はするけどな」
 慎吾の通る声は、思考に入り込む。感情が半端に窺えるその顔もだ。見ると、他のことはどうでもよく思えてくる。山ではそうは思いたくないから、二人きりでも見続けられない。中里は曇った夜空に目をやりながら、空気に反して熱い頭を使わずに、言葉を発した。
「あんな時にそんなこと、考えられるかよ」
 どんな時でどんなことなのか、明言せずとも通じる相手だが、通じさせようとしたつもりはなかったので、言って五秒後、中里は慌てて慎吾を見たが、慎吾は背を向けており、紺のパーカーに描かれた45という白抜きの文字が目につくのみだった。45番はそのままEG−6の車内に入ろうとする。急に場から去られる理由が分からず、おい、と中里が咄嗟に声をかけると、慎吾は振り向かず、ただ声だけは返してきた。
「下りるぜ、俺もこんなとこで、やりたくねえし」
 どんなとこで、何をやりたくないのか、明言せずとも通じる相手だった。EG−6に大胆に発進され、一人になってから、中里はしゃがみ込み、あんな時には考えられない変なことについて、しばらく頭を抱えていた。
(終)


トップへ