腕を掻いているうちに、痒いのだと気が付いた。ふと見れば、右の手の甲側、前腕の真ん中ほど、皮膚が直径二センチ程度、丸く赤く、盛り上がっている。いつの間にか、蚊にでも刺されたようだ。
「痒いんスか?」
 景気について話していた、隣に立つ短い黒髪を立てた男が、驚いたように尋ねてきた。文具会社に勤めていて、夜の峠にカッターシャツとスラックス、革靴姿で現れるメンバーだ。山内といい、グロリアY33に乗っている。いつも驚いたような顔をしていて、いつも驚いているように喋るが、実際はほとんど驚いていないらしい。ああ、と中里は痒みが鎮まるよう、右前腕の肌をぴしりと叩いた。
「知らねえうちに、食われたのかもな」
「お前の血まで吸わなきゃならねえなんて、虫の世界も大恐慌だな」
 山内の前に立つ慎吾が、茶色がかった長髪の間にある無骨な顔を、深刻に歪めた。この男が産業空洞化を心配することはあっても、虫の世界を心配することはないはずだ。すなわちこれは、人の血液に対する当てこすりに違いない。
「俺の血は諸々正常値だぜ。お前よりは健康的だ」
「健康を言い訳にするモンは、大抵まずいと相場が決まってんだよ」
 白いTシャツから出ている慎吾の首も腕も妙に白く、肉が適度についている割には不健康に見える。健康に良いものは、そう食べていないのだろう。慎吾は食生活からして、健康的ではない。まずいと感じるものには手をつけようともしないし、いつか、朝飯は食べないと言い切っていた。胃が受けつけないそうだ。そのくせ食費の節約だと昼間人の家に来た時に、三人前のざるそばを平らげたこともある。こいつは俺より先にくたばりそうだな、峠での走り方も含め、しみじみ中里が思っていると、
「蚊っぽいっスね」
 山内が、人の右の手首を取り、腫れている前腕部分を眺めてきた。相変わらず、驚いているような顔だ。黒目が小さいから、そう見えるのかもしれない。
「まあ、蚊だろうな」
「蚊ならまだマシですね。痒いでしょうけど」
「まあ、まだマシだな。アブとかブヨとかは、痛いし痒いし腫れるし、たまらねえ」
 盆などに実家に帰り、暑いからといって半袖半ズボンで外にいると、アブにモテる。川まで涼みに行けば、ブヨにモテる。どちらも交際はお断りを願いたい虫だ。
「ハチもキツイっスよねえ」
 山内がうんざりしたように言い、
「俺、ガキの頃、アシナガバチ叩いて刺されたことあるぜ」
 続いて慎吾がどこか遠くを見ながらぼそりと言い、中里は驚いた。
「叩いたのかよ」
「ガキだったからな。興味本位でバチンといってよ、ったく、思い出したくもねえ痛さだった」
 浮かんだ慎吾の笑いは、虚無的になっていた。この男の虫嫌いは、そのトラウマからきているのかもしれない。ただ、部屋に蜘蛛が出ただけで叫ぶのは、違うようにも思える。
「毅さん、虫除けつけてます?」
 人の右手を取ったままの山内が聞いてきた。いや、と中里は否定した。虫除けスプレーがこの前切れて、新しいのをまだ買っていない。
「じゃ、オイルでも塗りますか。まあ刺されちまってからじゃ、意味ないかもしれませんが」
「オイル?」
 山内は、離した手で、カッターシャツの胸ポケットから、親指ほどの大きさの、透明な瓶を取り出した。
「うちの母ちゃんが、趣味で作ってんスけどね。結構利きますよ。どうせなら、痒み止めも持ってくるんだったな」
 言いながら、山内は瓶に入った液体を片手に取り、両手で塗り広げる。へえ、と中里はその動きを見ながら、呟いた。
「痒み止めなら、婆さんが作ってたな」
 子供の頃に祖父母の家に行き、虫に刺されたりすると、何かを漬けた焼酎を、祖母が塗ってくれたものだ。
「多分それ、ビワの葉とかじゃないっスかね。母ちゃんも作ってます。人それぞれでしょうけど、俺は好きっスよ」
 山内が腕に触れてきた。虫刺されの部分だけは避けて、Tシャツから出る右腕、そして左腕と、手でオイルを塗り広げていく。ぬめりはそれほどなく、空気に触れると、清涼感が生まれた。のぼる香りも爽やかだ。気分も爽やかになってくる。
「ビワか。食うイメージしかねえな」
「時季っスね」
 山内はオイルを手につけ直した。まだ塗るのかと思っていると、腕ではなく、首に手が触れてきて、中里は息を呑んだ。
「でも何か気付いたら、いつの間にかシーズン終わってるって感じですよね、ビワって」
 笑いながら、山内は両手で首を擦る。普段、人に触れられることのない場所を、遠慮なく撫でられると、むずむずして、背中に鳥肌が立ち、体が強張った。喉、首筋、鎖骨と、むらなく山内の厚めの掌が滑っていく。
「そう、だな」
 声が、変に喉に突っかかった。山内の驚いているような顔に、変化はない。驚いてはいないのだ。首から手が離されるまで、時間にして、十秒も経っていなかっただろうが、随分な解放感と爽快感があり、中里はほっとして、すっとした。
「首とか刺されると、シャレになりませんからね」
「まあ、な」
 山内は、また笑い、自分の首に手をやった。中里は、つられたように笑っておいた。
「シャレになるくらいの方が良いんじゃねえの、こいつは」
 同情の視線を、慎吾が向けてくる。本気が感じられるだけ、憎たらしい。
「何が言いてえ」
「日照りが続きすぎると、砂漠化しちまうからな。たまには水でもくれてやれ」
「だから何の話をしてやがる」
「地球温暖化」
 絶対違うだろ、思いながら慎吾を睨んでやると、しらっとしたその顔が、奇妙に翳り、重そうな目があらぬ方を向いた。そのまま慎吾はくんくんと鼻を鳴らし、動きを止めた。
「どうした」
 不審に思い、声をかければ、目を戻してくるが、顔は浮かない。地球温暖化に胸を痛めているわけでもあるまいし、何だというのか。中里はもう一度、どうした、と問うた。慎吾は一つ間を空けて、頷くと、不満そうな顔を、急に寄せてきた。
「うおっ」
 目の前で沈んだ慎吾は、首に、鼻面を当ててきた。肌に、長い髪と、息が触れた。吸気だ。二、三度喉元を嗅がれて、すぐに慎吾は離れたが、中里は体の強張りを、すぐには解けなかった。湿った髪が肌を撫でたむずむずした感触と、表皮に染みた他人の息の生ぬるさが、すうすうとする首にしっかりと残っていた。硬直する中里をよそに、慎吾は山内を向き、指を突きつけた。
「ハッカ」
「ザッツライト」
 山内も、慎吾に指を突きつけ、二人、納得したように頷いた。ハッカ。言われてみれば、この鼻を抜けていく爽やかな香りは、ハッカだ。つまり慎吾は、匂いの元を確かめるために、オイルを塗られてすぐの人の首を嗅いできた、ということらしい。それなら最初から山内に何が入っているのか聞けば良いだろうに、相変わらず、慎重さと大胆さが、一つの体の中で、水と油のように分かれている男だ。
「鼻にくるよな、この匂い」
「量多いとな。前に母ちゃん間違えて入れすぎてたけど、人の体に塗るもんじゃなくなってたぜ」
 山内とまだ頷き合っている慎吾を見ながら、やっぱりこいつ、俺より早く、くたばるだろうな、中里は当たり前に思い、慎吾の鼻が当たった首を掻いて、その手で右の前腕をまた掻いた。
(終)


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