はらみ



「いやあ、毅さんに隣乗ってもらえるなんて、まるで夢のようでした! ハッハッハ!」
 駐車場にゆっくりと姿を現した、目立たないことで目立とうとするかのようなモスグリーンのシルビアから降りた運転手は、実に良い笑顔だった。それは野性的な顔面を持つ男だらけの走り屋集団妙義ナイトキッズにあって珍しく、紳士服のチラシに登場しそうなほど爽やかな青年男児のツラであった。
「……そうか……そりゃ、良かったな……ははははは……」
 一方、助手席から降りた中里は、実にグロッキーだった。夜中峠にこもっていもケロリとしている男が、たった一回のダウンヒル同乗で顔面蒼白千鳥足になるのは、こちらも珍しい。
「……おい、毅。お前、大丈夫か」
 ふらふらと数歩進み、膝に手をついて屈んだ中里に、慎吾はつい小走りで近寄って、そんな声をかけていた。同じ走り屋チームのメンバーといえ、妙義山の下り最速を争っているライバルであるから、表立って中里のことは心配したくない。しかし、いくらブン殴っても倒れそうにない頑丈健康体が、ゲロまみれで往生しそうな弱り加減では、無視もしがたいものだった。
「ああ……三つ目のコーナー脱ける時、死んだ実家の犬が、目の前で吠えてくれたけどな……懐かしかったぜ……はは……」
 腰を軽く屈めたまま、遠い目をしながら、中里が心ここにあらずという笑みを浮かべる。軽くイッちまってる状態である。超速ドライビングで発生する重力に耐えうるよう肉体を鍛えているはずの中里を、それほどグロッキーにしたシルビア小僧は、爽やかなくせに、別の意味でイッちまっていそうな笑みを浮かべたまま、シルビアに戻って行った。中里を助手席に乗せて峠を下れたことが、よほど嬉しかったらしい。初心者マークを律儀に車体前部と後部に貼っているドライバーが、どんなトンデモ走法を行ったのかは、いまだ背筋を伸ばせていない中里を見れば、察するに余りある。
「うっわ毅さん、具合悪そうっすねー」
 各々勝手に峠の空気を味わっていたメンバーが、くたばりかけている中里を発見し、野次馬のように集まってきた。軽々しい口調は野次馬そのものであり、ツラがウマそのものの野郎もいる。
「もしかして、つわりですか!?」
 その中でも、人間に進化しきれていないツラの男が、火の熱さを初めて知った原始人のごとき驚愕を示した。とりあえず慎吾がそいつの頭を平手で叩いている間に、野次馬がどよめいた。
「え、毅サン孕んでたんですか。おめでとーございます」
「そりゃめでてえな、赤飯炊くか」
「鯛焼きましょう、鯛!」
「たい焼き?」
「やっぱ狙ってたんスか?」
「何週目ですか?」
「男の子ですか、女の子ですか?」
 どよめきは、あっという間に質問ラッシュに変じた。それを受けて、中里は背筋を伸ばした。
「孕んでるわけねえだろう、がッ!」
 そして肌が震えるほどの怒声を上げたのち、口を手で押さえ、しゃがみ込んだ。
「でけえ声出さなくても、聞こえるっつーの」
 慎吾は吐き気を堪えているらしき中里の隣にしゃがみ込み、背中をさすってやった。誰のであれ、アスファルトの上にゲロが飛び散る場面は見たくないという一心だった。
「おお、慎吾が毅さんを介抱してる! 奇跡だ!」
 だが、車酔いのためか鬼気迫る叫びを上げた中里を、現場最速で労わった時点で、野生の王国妙義ナイトキッズの口さがない野郎たちに、他意を仕立て上げられるのは必然であった。
「いや、言うほどミラクルじゃなくね?」
「大舞台なトコがミラクルなんでしょう」
「どんな舞台だよ」
「っつーかこいつが孕ませたんじゃねーの」
「え、マジで。いつの間に?」
「あー、アレだろ、箱根帰り」
「あー、毅さん傷心だったもんなー」
「うまくやるもんだよなー」
「むしろお前が仕組んだんじゃねえのってな」
 他意を仕立て上げられるどころか、でっち上げられていくのも、また必然であった。
「どうすりゃ俺が、孕むんだ……」
 指の間から、中里が息のような声を漏らす。相変わらず、ツッコミの的がおかしい男だ。慎吾はため息を吐いてから立ち上がり、人語を操っているのが不思議に思えてくるツラのメンバーどもを見回した。わざとそれぞれと目を合わせ、視線を奪い取り、静寂を勝ち取る。それから、慎吾は言った。
「俺がこいつを孕ませてんなら、峠になんざ来させねえよ」
 五秒きっかり空いてから、おお、と納得の声が揃って上がった。それを契機にメンバーたちの話は、女体の構造にシフトした。毎回毎回うなじがどうの足首がどうの、飽きないものである。慎吾は飽きているため会話には加わらず、その場から動きもしなかった。
「毅さん、俺の車で休みますか?」
 途中、しゃがみ込んだまましかめツラになっている中里に、ワンボックスカー使いのメンバーが、思い出したように声をかけた。中里は顔に作っていたしわを減らし、ゆっくりと片手を振った。
「いや、大分治ってきたから、このままで大丈夫だ。気にするな」
「そうすか。ま、何かあったらいつでもどーぞ」
 軽く笑った男は、中里の返事も待たず、女の太腿はどこまで露出されているべきかという議論に舞い戻った。中身も外見も動物的な面々は、中里から多少離れつつも、様子の変化を見逃さない位置で話を続けている。
「お前も、もう行ってもいいぜ」
 動いていない慎吾を、強張りの残る顔で、中里は見上げてきた。モスグリーン車から降りた時よりは生気が戻っているが、それでも唇がまだ青い。完全復活するにはまだ時間がかかるだろう。
「行きてえ時に行きてえとこに行くぜ、俺は」
 慎吾は中里を見下ろしながら言い、童貞と非童貞のフェチバトルを始めている男集団へ目を戻した。走りや車よりも女体の話に熱を入れるバカ揃いだが、車酔いでグロッキーなプライド高いリーダー格を、適度に放置しつつ遠回しに監視する術は知っている。それを率先してやる人間こそ、決定的にバカだろう。いっそ孕ませられたらバカからも脱せられるのかもしれないが、そんな風に考えること自体が究極にバカである。慎吾は真面目に考えることをやめて、中里から多少離れ、仕草フェチバトルに参戦した。
(終)


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