回帰
ないものほど欲しくなるのは人の性というやつだろうか。愛車には必ず煙草とライターをセットで置いていた。だが、代車には入れていない。足にしかならないものを、自分のものとして扱いたくもなかった。だから今、煙草は持っていない。財布も持っていないから、店に寄って買うことはできない。洋服以外に身にあるものといえば、家の鍵だけだった。イグニッションキーは車に刺さっている。何か、深い考えがあっての行動ではなかった。一人で家にいると、どうにも苛々して仕様がなかった。外に出れば、気も紛れるかと思ったのだ。いや、それは後付けだ。とにかく、環境を変えたかった。同じところに留まっていると、卑屈な思考に支配されそうだった。逃げたかったのだ。一人でいたくはなかった。一人で、自分の下らなさに思いを巡らせていると、発狂しそうになる。謙遜や遠慮で満たせるほど、ご立派な自意識は持ち合わせていない。
結局、慎吾はひたすら煙草が吸いたいとばかり思いながら、妙義山に降り立っていた。植物と埃とガスの入り混じった、むっとした匂いをかぐと、胃のあたりで固まっていた苛立ちが、少しは蒸発したような気がした。
「うっわー、オートマだよ。オートマティックトランスミッションだよ、自動変速機だよ」
すぐに寄ってきた、狐目の平鳥が、下品ににやにやしながら人の顔と車を見比べてくる。その横についている河童顔の相沢が、お前ただ名称言ってるだけじゃん、と平鳥に言い、右方から出てきた熊面の山根が、走り屋の風上にも置けねえな、と胸を張った。てめえのセドリックもオートマじゃねえか、慎吾は山根に蔑みの視線を投げたが、山根は胸を張ったまま、肉の多い頬を更に厚くした。
「階段走るよかエスカレーター走った方が速いのは、自明の理ってもんだぜ、庄司君よ」
自分の言ったことも覚えていない馬鹿を相手にするのは疲れるので、慎吾は左方へ目を転じた。視界の中央に、紺地のポロシャツの男が入るところで、顔を止めた。
「無視かよ!」
「でもオートマいいよなー、エンジンスターターとか」
「そこかよ!」
「だって寒い時にあったまった車に乗れるのってすげえ幸せじゃん? 俺のビストロちゃん暖房全開にしてもウィンドウの氷融かすまで十分くらいかかるんだぜ……」
「切実だよなあ」
「そんなものは諦めろ。そして買い換えろ」
「うわ、鬼畜!」
話を勝手に進めている三人は無視したまま、慎吾はポロシャツの男を見続けた。目は合っている。こちらが見る前から、男はこちらを見ていたようだった。間は、声をかけるほど近くはないが、互いの存在をなかったことにできるほど、遠くもない。それは結局、その男によって縮められた。
「よお」
顔の詳細が分かる距離になって、初めて中里は声を発した。絞って放り投げた布巾のように、硬く乾いた声だった。
「よう」
唇の隙間から、慎吾は声を返した。喉が閉じ気味で、弱々しく感じられたが、敢えて出し直す気にはならなかった。単なる挨拶に、格好つけてもどうなるものでもない。そうして見合ったまま、しばらく何も言わなかった。単なる挨拶の他に、するべき会話も思いつかなかった。長くはない沈黙の後、中里の目が、不意に斜めに動き、戻る。
「もう、吊るさなくていいのか?」
まだギプスで固めている右手首について、何か言われるだろうと思ったら、その通りだった。相変わらず、考えを隠すことを覚えない男だ。
「まあな」
治療の経過を話してやってもよかったが、閉じ気味の喉を開くのが、億劫だった。そうか、と中里は頷き、腕を組み、視線を軽く落とした。慎吾は逆に、軽く上げた。夏の盛り、夜でも緑は濃い。街の匂いと違うように感じるのは、環境のせいか、時間のせいか、それとも、他人のせいだろうか。後ろで喋っていた平鳥も相沢も山根も、いつの間にかよそへ移っていた。気を遣ったわけでもないだろう。いや、違う。そういう風に、気を遣われたのだ。自分が、中里が、あるいは両方が。そのくらい、気を遣わないように気を遣える奴らが、ここにはいる。だから、立派ではない自意識も、安定するのかもしれない。気分が落ち着くのかもしれない。
「何よお前、慎吾、怪我人は病院でナースでもナンパしときなさいよ」
三人が去った後ろから、垂れ目の正平が現れて、咥え煙草でもごもごと喋った。マルボロの匂いをわずかでも鼻に受けると、狭まっていた喉が開け、口調通りオカマのような男に、慎吾は自由の利く左手を出した。
「煙草寄越せ」
「嫌です」
半笑いになりながら正平が即答し、はあ?、と慎吾は脅しつけるように言った。
「先月お前に煙草貸しただろうが。今返せ」
「や、無理無理、俺今月手持ちの一箱で乗り切るつもりだから。じゃないと米食えないから。日本人なのに」
「米が食えねえならパンでも食ってろ」
「分かった、そんなら煙草の代わりに飴をあげよう」
慌てている割に品を作りながら、正平は半袖パーカのポケットから、個包装の飴を掴み出してきた。それを一瞥して、代わりになるわけねえだろうが、と慎吾は正平を睨んだが、あれでしょ?、と正平は嫌らしく笑う。
「彼女いないから口寂しいんでしょ? 遠慮せずに舐めまくれよ! さあ!」
そして、ポケットから出した飴を、全力で投げつけてきた。避けようがなく、左腕で顔を庇う。四個ほどやり過ごしてから辺りを見ると、正平は既に逃げていた。
「……あの野郎、どこまでケチだ」
煙草一本くらいで飴を煙幕代わりに逃げるなど、S110の維持費がかさんで貧乏極まりないのか、単に米がないと生きてはいけない人種なのか。どちらにしても関係はない。車の邪魔になるので、慎吾は腰を曲げて飴を拾った。ピーチ味、ピーチ味、ピーチ味。そんなに桃が好きなのか、お前は。クッパか。思いながら、飴三つを持ったままの左手を後方伸ばすと、別の人間の手が先に地面を擦った。
「ほら」
腰を伸ばして向かい合い、中里は飴をつまんだ右手を差し出してきた。掌に三つ載っている。やはりピーチ味だ。慎吾は中里の手と顔を交互に見てから、やるよ、とはっきり言った。
「俺はそんなに食わねえ。っつーか俺んじゃねえしな」
やっと自分らしい声を出せた気がした。眉を上げる間を置いた中里が、そうか、とどこかぼんやりした風に頷いて、飴をジーンズのポケットに入れる。慎吾は手に持った三つの飴のうち、二つをハーフパンツのポケットに入れた。口寂しいのは確かだった。煙草の代わりにはならないが、何もないよりは良い。一つ手に残した飴の袋の端を歯で挟み、そのまま横に引いて、完全に離さないように切り裂くと、袋から飴の頭が三分の一ほど出た。それをまた歯で挟んで、へばりついている袋から引っぺがし、口に入れる。残った袋もハーフパンツのポケットに入れながら、飴を舌で転がすと、ピーチネクターの味が広がった。味も香りも甘ったるい。喉が痛みかける甘さだ。どうせなら、本物の桃を食べたい。
物足りなさを感じながら飴を舐めていると、中里がじっと見てきていた。見返して、何か言いたいことでもあるのかと目で問うても、どこかぼんやりしたままで、何も言わない。
「んだよ」
声にして、ようやく反応があった。目を瞬き、さまよわせ、ああ、と意味もなさそうな相槌を打ち、顎を掻いてから、思い出したように視線を戻してくる。
「お前、彼女いねえのか」
言ってすぐ、中里は眉間を縮め、わずかに顎を上げた。いかにも、何で俺はそんなことを聞いてんだ、と疑問に思っている顔だ。そう思うなら聞くんじゃねえよ、と思わせる顔だ。人の顔は見ていたが、ぼんやりしていただけで、何も考えていなかったのだろう。それで何かと問われたから、正平の言葉を思い出して、咄嗟に用件をひねり出した。つくづく単純な男だ。場当たりの問いに正直に答えてやる必要もないが、ごまかすほど特別な話題でもない。特別にしたくもない。
「いねえけど」
ならお前がキスでもしてくれんのか、と続けかけて、慎吾は口をしっかり閉じた。痛みを引く怪我のせいで、疲れた脳味噌がエラーを吐いているらしい。いくら飴では口寂しさが消えないからといって、中里とキスはない。気持ち悪い選択肢だ。まだ休養が足りないのかもしれない。苛立ちも完全には消えないが、気は紛れた。今日は帰って、頭を使わずに寝てしまおう。慎吾が区切りにため息を吐くと、中里は似合わない複雑さを表情に混じらせながら、歯切れ悪く言った。
「……まあ、頑張れよ」
「いやお前に言われることじゃねえし、俺お前ほど女に飢えてねえし」
ただちに慎吾は言い返し、そんな自分に驚いた。中里が驚くことはなく、誰が女に飢えてるってんだ、と不愉快そうに睨んでくる。考えず、慎吾は声を出した。
「お前以外に誰がいる、毅」
「そんなこと、聞き返してくるんじゃねえ」
「少しは自覚しとけ。その辺コントロールできりゃあ、お前も満更悪くねえよ、多分。レベルはかなり低いけどな」
自分ではない誰かが言っているようで、間違いなく自分が言っているという実感があった。口が減らねえな、と中里は舌打ちをする。それが長所だ、と軽く笑ってやると、心底嫌そうな渋面ののちに、諦めたような苦笑が返された。
「変わらねえな、お前は」
「一週間やそこらで人格変えられる奴がいたら、見てみたいぜ」
「まったくよ。ふてぶてしい奴だぜ」
苦笑は、拒絶を表すものではない。受容だ。慎吾は半分ほどになったピーチ味の飴を奥歯で噛み砕き、すり潰し、エラーを吐き続けている脳味噌に毒々しい糖分を送りながら、毒のある、だが中里と似た苦笑を浮かべた。
(終)
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