起きる
背中が湿っている。汗だ。シャツを通してシーツに溜まる。
マットレスの硬さには、いまだに慣れない。
風呂場の音がよく聞こえる。
水を流す音。水の流れる音。足音。
「帰りてえ」
呟いてみる。
胃のあたりが、石でも飲んだように、重くなる。
帰りてえ。
逃げ出したい。どこか遠く、誰も知らないところへ行ってしまいたい。
どこだっつーの。
膝の裏も湿っている。
足のつま先に、虫が触れた気がした。
仰向けのまま、シーツに足を擦りつける。自分の皮膚が擦れるだけだ。
虫などいなかったのだろう。蜘蛛はよく出る。蟻も侵入してくる。殺して回るには、数が多い。
蚊は殺す。刺されっぱなしではいられないからだ。
今年はまだ、殺していない。
水は流れていない。水音はする。
薄い壁、薄い床、薄い天井。
四本あるうち、一本しか点いていない蛍光灯がちらついている。
目を閉じても、ちらつきが分かる。
代える気にはならない。どうせ、中里がやるだろう。
一人だ。
一人ではない。風呂に中里がいる。
だが、一人だ。
パイプベッドは、少し動くだけで軋む。叩きたくなる鬱陶しさだ。
いつもは布団で寝る。その方が、床に落ちる心配がない。
自分の部屋には、ロフトベッドがある。物は多く置ける。
中里の部屋には、物が少ない。作業服、電化製品、空きの多い棚、本。
女が来ても、ろくにもてなせないだろう。
来るわけねえか。
腹の中に、漬物石でもあるようだ。
重い。動けない。眠い。だが眠れない。
些細な水音が、意識を邪魔する。
このまま死ねたら幸せだろうか。死んで幸せになる。テロリストじゃあるまいし。何でテロリストだよ。
水音。足音。戸の動く音。
石が、喉まで上がってきて、胃酸に変わる。
吐き気を覚える。腹の上で組んだ手が、何もしていないのに、痺れる。
帰りてえ。
声にはしなかった。足音、布の擦れる音、人の気配。
「寝たのか」
緊張感の欠片もない声。問いではない。中里の独り言だ。
気配が動く。足音、呼吸音、関節の軋む音、かけ声。
「電気変えねえと」
小声。沈黙。
何やってんだ、俺は。
手の痺れは消えない。胃酸は引っ込まない。緊張している。
「慎吾」
声が近くなる。気配も近くなる。
マットレスが沈む。ちらつく光が遮られる。
息も近い。上から見られている。
時間はまだある。起きない理由はない。話をしない理由はない。
寝た振りをやめるきっかけもない。
ガキかよ。だろうな。くだらねえ。思うだけだ。動けない。
中里は、どこで寝るのだろうか。布団はまだ敷いていない。
ベッドのど真ん中は占有している。
動かされるだろうか。起こされるだろうか。
起こしてくれねえかな。
クソ、くだらねえ。
舌打ちしかけた。
舌を上顎に押し付けて、止まっていた。
重い。唇だ。温い。皮膚だ。
息も止まっていた。
一秒より長く、三秒より短い。二秒。
三秒後、首筋を掴んだ。
肉が潰れる。戻る。感覚だけで先を探る。
奥まではいかない。浅い。それでも唇は濡れる。
離れると、風を感じた。息。
顔は近かった。すぐにはピントが合わない。
「お前、起きて」
「今起きた」
顎を上げる。体は軽い。手も足も、自然に動く。
今起きたようなものだ。
中里の目が、よく見えた。
(終)
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